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商品を売るとき大衆というターゲットはいないという話

作者: 夢野ベル子



1、商品を売るときに大衆というターゲットは無いという話。


 もうそろそろ気づいてもいいんじゃないだろうか。

 この世界には大衆マスという概念は消え去った。

 少なくとも、『消費』の場面では。



 例えば――、



 我々が何かモノを買いたいとする。

 そのとき、そのモノがよく売れる。つまりヒットするという現象が起きる。

 いわゆるヒット商品というやつが生まれる。


 問題は、そのヒット商品がどうやって生まれるかだが、高度なSNS技術が発達した時代では、『何かを買いたい』という欲望は、特定の人物をフィルターとしてみて、その人が良いといっているから買ってみようかなということになる。


 これがヒット商品が生まれる原理なのだ。


 我々はコンテンツの是非を判断していない。←(ブログなら下線引いてた)

 

 例えば、あなたがある日突然、カツカレーを食べたいと思ったとしよう。

 あなたはカツカレーのおいしい店の情報には疎く、どこで食べたらいいかわからない状況に置かれている。

 このとき、あなたはどういう行動をまずとろうとするだろうか。

 ひとつに、検索エンジンを使って『カツカレー おいしい店』みたいな調べ方をするだろう。

 そうすると、なんらかのランキングサイトやまとめサイトにひっかかり、いくつかのお店を提示してもらえることになるだろう。


 このカツカレーという商品のスペックは、当然、その記事の中に書かれているだろうが、(具材たっぷり、野菜おおめで健康的。しかもカロリー控えめみたいな)それよりもあなたが気にするのは、何人もの人間が良い評価をつけているか否かという事実である。


 ただ、ここで考えるべきなのは、提示された商品は既に、


――フィルターによって編纂された商品


であるということだ。


 つまり、『誰かしら』の意見がまず存在する。


 その発信者はツイッターのフォロワー数やフェイスブックの友人、あるいはインスタグラムのファンなどが多量についている。


 これらのフォロワー的存在をまとめて『ファン』と呼ぼう。


 発信者のファンは発信者の意見を受領したあと、ファンが今度は発信者となって、その商品に対する意見を発信する。


 こうして、商品に対するイメージは拡散していく。


 何度も言うが、このとき、ファンはコンテンツ自身を見ているのではなく、いったん発信者によって編纂されたデータを受け取り、解釈しているのだ。


 例えば、あなたが誰かのファンだったとしよう。

 その誰かが、『カツカレーは○○の店が最高だな』とつぶやいたとする。

 そうすると、その商品は、スペックはなんであれ、つまりコンテンツがどうであれ、いったんは『あの人がそう言うのであれば、その発言を信じてみようかな』となるのではないだろうか。


 もちろん、期待していたのと違ったというふうになる場合もあるだろう。

 しかし、実際食べておいしかったとなれば、そのファンもまた発信者となってよかったと評価する。

 こうして、よかったというイメージが定着することで、ランキングの上位に、『そのカツカレー』が提示される。

 それを、あなたは見たというわけだ。


 この現象をカツカレーを売る側から見てみよう。

 あなたはカツカレーをつくっているお店の店主だとしよう。

 したがって、そのカツカレーをより多く売りたいと考える。

 そのとき、大衆が求めているカツカレーとはコレだと考えてつくっても、ランキングの上位にあがるとは限らない。なぜなら、とあるカツカレーがヒットしたのは、あくまで、『誰かしら』が最初に発信したことに起因しているからだ。

 大衆といういもしない幻想をターゲットにしても、商品が売れるかどうかは賭けである。

 あなたが相手にしているのは、発信者のひとりであり、具体的なひとりの人間なのだ。




2、カツカレーへのこだわりを店主の趣味が凌駕してしまう時代




 ある意味悲しい出来事かもしれない。

 ただ、これは事実だ。

 店主がカツカレーの味にいくらこだわったところで、カツカレーがただのカツカレーだったとしたら、それがヒットするのは難しい。例えば、カツカレーに超高級キャビアをのせて、しかも100円で売ってるとかだったら、差異がでるかもしれないが、そこまで至るのは困難だ。

 これだけ物が溢れた時代である。コンテンツによる差異は、あるかもしれないが、ほとんど感じられないといっていい。カツカレーを食べたい人が、まず見るのが、そのカレー店のホームページであり、ブログであろう。店主はたくさんの人に食べてもらいたいから、ホームページやブログでカツカレーを宣伝する。

 このときに、店主は鉄道マニアだったのだ。

 だから、店内で列車の模型を走らせている。

 カツカレーを最初に食べたい人もまた、鉄道マニアだったのである。だから、その店でカツカレーを消費することを選んだ。

 味なんてどうでもよかった、というと語弊があるが、究極的にはそういうことなのだ。

 コンテンツよりも、むしろ店主の個性が気に入って、そのためにその店を選んだのである。

 店主がいくらカツカレーへこだわっても、最初の客が入ってくるのは、店主の趣味のおかげだ。つまり、コンテンツより先んじて、店主の個性が吟味されているのである。



3、小説のヒットの仕方。




 さて、ここまではカツカレーについて語ってきたが、もちろん主題となるのは、小説についてである。

 あなたは、なろう小説作家である。

 そして、たくさんの読者に読まれたいと思っている。


 この場合、『コンテンツ』の質を上げるのは当然のことだ。


 つまり、おもしろい小説を書こうとするだろう。


 おもしろいの定義にブレがあると思うが、大衆の趣向にフィットしたそういう作品を書こうとすることだと思えばよい。


 大衆に迎合したくないという作家も存在するだろうが、『ヒットするため』という条件がつけば、誰しも大衆の趣向にあわせようとするだろう。


 ここが、違う。

 この考え方が正確に把握しきれていない。


 このとき、まずもってヒット商品=読まれる作品が生まれるのは、コンテンツが原因ではないのだ。商品の質、つまり小説の質は、このヒット作品の『初動』とは関係がない。

 誤解してほしくないのは、コンテンツが作品がヒットする過程全般に不要だというわけではないということだ。

 あくまで、『初動』において作用しているのは『作家の個性』であり、作家が好かれているからだということが言いたい。


 小説の特性上、コンテンツは消費しない限り、つまり読まない限り明らかにならない。

 このため、読者が、『おもしろい 小説』を検索する方法は、『ランキング』『特殊なタグ』『作家が誰か』『自分が好きな人がブクマしてた』『自分が好きな人がレビュー書いてた』というような方法を辿る。

 いずれも、コンテンツ自体を判断しているのではなく、発信者、すなわち作家の個性が因果の端緒になっていることがおわかりであろうか?


 例えば、ランキング。

 ランキングは、先ほどのカツカレーの例を思い出していただければわかるとおり、まず、その作者を知っている人がポイントをつける、あるいは感想をつける。ともかく、『その作者さんのこと好きだし、とりあえず読んでみるか』というふうになる。

 

 まったく無名の作者がランキング上位に来る例もあるようだが、という反論が聞こえてきたので、この点について補足しておくと、そういう場合は、その作者さんのファンになる時間が、極短時間の間になされているだけだ。


 例えば、いちばん最初にポイントをつけた読者は、『タイトルに惹かれて』とか『タグの中に興味のあるものがあったので』とか、あるいは『偶然にクリックしただけ』とか、そういったいくつかの理由によって、コンテンツを消費したのである。


 どんな、商品も最初は無名で、こういう偶然性があるのは否定できないが、その次の瞬間、最初の読者が、『あ、この作品おもしろい』と考え、ポイントをつける。つまり、ファンになる。


 次話が投稿される。次も読んでみる。やっぱり面白い。読み続けようというふうになる。


 作家に対する期待感が、読み続けさせるわけだ。


 原理的には、小説とは文字列のカタマリに過ぎず、その読書体験は、常に視線を動かし続けることで刷新されていくわけだが、彼が読み続けるのは、作者のことが好きだからだ。つまり、次のページも、おもしろい作品が創られるであろうと思っているからだ。


 コンテンツより常に先んじて、この作家に対しての期待感というものがコンテンツを消費させる駆動因となる。


 これがヒットするという奔流の『初動』なのである。


 まとめると、作者が個性を発揮する→小説という商品がファンに提示される→あの作者さんのこと好きだし読んでみるか→ファンが評価→拡散→ファン以外もファンになっていく。


 こういう流れである。




3、作者のヒット戦略




 小説とはおもしろいもので、それ自体が『作者の個性』を構成している。

 どんな小説であれ、作者の個性を離れた作品というものは存在しない。例えば、わたしの場合、『TSスキー』であり『妖精スキー』であり『ゾンビスキー』であり『そもそも小説スキー』であったりするが、こういう趣味が多かれ少なかれ、小説には反映される。

 

 つまり、何がいいたいかというと、小説というのはそれ自体が、コンテンツでありながらも、『作者の個性』を示すツールでもあるのだ。


 したがって、小説はなんでも書けば、それが作者の個性をあらわすことになる。


 だから時には、『小説だけ』で作者の個性を発揮したいという見解もでてくる。


 先ほどのまとめで言えば、『作者が個性を発揮する→小説という商品がファンに提示される→あの作者さんのこと好きだし読んでみるか→ファンが評価→拡散→ファン以外もファンになっていく。』という流れのうち、


 『作者が個性を発揮する=小説という商品がファンに提示される』ということで考え、これで足りるとする見解だ。あるいは、そういった小説のコンテンツに、作者の個性を付着させること自体が不正と考えているのだろうか。


 わたしはいずれの見解にも反対する。


 いい作品を書けば、おのずとヒットするという考えであるが、もちろん作者の個性は発揮されているので、その可能性はゼロではないだろう。


 ただ、足りないのではないか?


 作者が個性を発揮する機会はいくらでもある。それを使わないのは単純にもったいないという感覚だ。


 個性を発揮できれば、コンテンツがどうであれ、ひとまずヒットの初動については確保できるだろう。


 ツイッターでつぶやいてみるのもいい。


 ブログでなにかを書いてみるのもいい。


 エッセイも、当然作家の個性をあらわすには最適だ。


 誰かの作品に対する感想もいいかもしれない。


 こういった積み重ねが、ヒットを生む要因になるのである。


 もちろん、コンテンツ自体の質が低いと、いくら初動がよくても失速する。

 売れるためには、ファン以外の人にもファンになってもらわなくてはならないからだ。


 そして、小説というコンテンツに『小説以外の作家の個性が付着するのは不正である』とするのは、わからないでもないが、実際にコンテンツの消費のされ方が、そういうふうになっているのだから、不正も糞もない。

 

 その意味では相互クラスタは、原理的にはやってもいいと思うのだが、運営に禁止されているので、平等性の観点から不当という感じか。このあたりは思考不足なので、今回は省略させていただきたい。




4、まとめ



 まず、作者は個性が伝わるよう、できるだけ多くどんな形式でもよいので書きまくろう。

 次に、大衆をターゲットにしても無意味なので、そういった考えは切り捨てよう。

 コンテンツの質を落としてしまっては無意味なので、あくまでヒットの初動に作家の個性が関わるとだけ考えよう。作家の個性がコンテンツの質を凌駕するかは別途考察が必要かもしれない。



 以上。

でもおまえ読まれてないじゃん。

このエッセイ、なんの論拠もないじゃん。

そうかもしんない……。

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