第五章
そして、四月になった。窓の外には、短い春の賑わいを記憶に焼き付けようとするかのように、満開の桜が咲き誇り、ふわっと風が吹くたびに舞い散る花びらは、まるで粉雪のようだ。
明日からいよいよ、みゆうの個展が始まる。
私はヤイちゃんと、「ギャラリー和音」で、朝から個展の準備に追われていた。搬入には思ったより時間がかかり、てつじさんの家から借りてきた自動車を二度往復させなければならなかった。そして、午後からはみゆうのメモをもとに、ヤイちゃんともっと上だとか下だとか言いながら作品を配置してゆき、やっと先ほどあらかた作業が終わって、一段落ついたところだった。
「ごめんねー、ほんと遅くなって!」
そう言いながら、みゆうが息を切らして階段を駆け上がってきた。堅苦しいグレーのパンツスーツと、いかにも染髪料で染めましたというような黒髪が、とってつけたようでまだ見慣れない。彼女はつい先日、地元の広告会社に就職が決まり、その関係で和歌山と大阪の間を行ったり来たりしており、今日も研修が終わってすぐにこっちに駆けつけてきたのだった。
「まったく、明日から個展があるって言ってんのに、わざわざこんな日に研修なんか入れてくれちゃって、むかつくったら。ほんまは私がやらんなあかんのに、二人に任せっきりにしちゃってごめんね」
「いいよ、いいよ。でも、意外と早く終わったんやね」
「当たり前やん。もう是が非でも午前中に終わらせるように、念を押しといたもん。でもすごいね、もうほとんどやってくれてるんや。なんか私の出る幕ないな」
みゆうはあらためて、ほとんど展示の終わった会場の中をぐるりと見回した。そして、壁に飾られた自分の作品を一つずつ丹念に眺めていくと、ふうっと感慨深く溜息をついた。
「何だか、この日がこうやって来てるってことが、本当に夢みたい。作品を描いてる時は、画廊の予約はしてるし、チラシも刷ってるし、準備は完璧やけど、もしかしたら何かの番狂わせがあるんじゃないかって不安がいつもあったから、無事にここまでこぎつけられたのが、まだ信じられない気分」
「でも、始まったらあとは終わるばかりっていうのが、ちょっと寂しいけどね」
私が言うと、みゆうは「まあね」と答えて微笑んだ。
「でもさ、考えてみれば就職したからって、全く時間がなくなるわけじゃないし、そりゃ今までのようにはいかないにしても、細々と自分の好きなこと続けていって、たまにこうやって個展すればいいのかなって、最近はそう思えるようになった。それに、仕事で何か新しい可能性が見えてくるかもしれへんしね」
みゆうはすっかり吹っ切れたみたいに、晴れ晴れとした顔で言った。
「もう個展できないかもって悩んでたくせに」
私はそう言ってからかったが、本当は嬉しかった。小さなことでウジウジ悩まずに、何でもすぐにポジティブに転換できるところが、彼女の強みなのだ。
そうやって私たち三人がしばらく話をしていると、「おお、やってるな」と言いながら、下の事務所から音二郎さんが上がってきた。
「へえ、もうほとんどできてるやんか。作業早いな」
音二郎さんは今日も愛用の木彫りのパイプを吹かし、顔の半分くらい隠れそうな大きなサングラスをかけ、ド派手な真っ赤のアロハシャツにジーンズという個性的ないでたちをしている。それがいかにも昔の映画に出てくる麻薬のブローカーのようだったので、私たちは思わず吹き出してしまった。
音二郎さんは、その濃いサングラス越しに、展示された作品の一つ一つをじっくり眺めると、私たち三人をぐいっと引き寄せ、
「最高、最高、バッチグー! 俺が見てきた中でも、三本の指に入るほどの出来やね、ようがんばった!」
と、彼にしては精一杯ナウな言葉を使って、私たちを褒めちぎった。相変わらずどこからが本心でどこからがお世辞なのか分からない、調子のいい音二郎さんだけれど、不思議とそう言われて悪い気はしなかった。
「ところで、あんたらお昼はちゃんと食べたんか? もう三時やで」
「あ……」
言われてみて初めて気がついた。そういえば、朝ここに来てから何も食べていない。
「もしよかったら、外で何か食べてきたら? その間、俺がここで留守番しといてやるから」
音二郎さんは、「私はいいですよ。来たばっかりだから」と遠慮するみゆうの言葉を無視して、「まあまあ、ここのことは俺に任せとけって」と、半ば強引に私たちを扉の外へ押しやった。
「じゃあ、ゆっくりしてきーや。くれぐれも、ゆっくりな」
そう念を押すと、音二郎さんはいつにも増して、やけにニヤニヤしながら、私たちを送り出したのだった。
私たちは御堂筋に面した、テラスのあるカフェテリアでお昼を食べることにした。ちょうど午後の休みの時間帯で、きれいに化粧をしたOLたちがこじゃれた飲み物を手に談笑する中で、作業用のTシャツとチノパン姿の私たちは、明らかに周りの風景から浮いている。しかし、何でもいいからとにかくお腹に入れたい私たちにとっては、そんな人の目など些細な問題でしかなかった。私たちは横文字の飛び交うメニューの中から、一番安くて早く出来そうな、「日替わりパスタ」を注文し、やっと一服するようにソファに体を伸ばした。
「お父さんの具合、どう?」
私はまず、このところゆっくり話もできなかったみゆうに、気になっていたお父さんの病状のことをおそるおそる訊いてみた。
「うん、まだ入院してるんやけどね。暇を持て余してるのか、口が減らなくてさ。こっちが世話してやってんのに、やれ服の着せ方が乱暴だの、水の飲まし方がなってないだの細々といちいちうるさいの」
みゆうが思ったよりも明るく話したので、私はホッした。冗談混じりに話すということは、そんなに病状が深刻でないという、何よりの証拠だ。それから話は引越しのことになり、みゆうは個展が終わって少し落ち着いた四月下旬頃には、実家に帰るつもりだと話した。
「でもさー、私がいなくなると、あの部屋もだいぶ広く使えるんとちゃう?」
「確かに広くはなるけど、その分、家賃も高くなるんやってば!」
私が言うと、隣で水を飲んでいたヤイちゃんの手が、急に止まった。
「あのー、それがさ……」
彼女は目を私の頭上あたりに泳がせながら、おずおずと話を切り出した。
「私も実は、みゆうの個展が終わったら、あの部屋を出ようかと思ってるんだよね。てつじさんに、一緒に住まないかって誘われてて……」
「ええっ、そうやったん?」
私はびっくりして、つい店内に響くような大声で叫んでしまった。周りにいたOLたちの何人かが、白い目でこっちを振り返った。
「ごめんね、ずっといつ言おう、いつ言おうって考えててんけど、みゆうもチイちゃんも個展の準備で忙しそうやったから、なかなか言い出せなくて」
ヤイちゃんはそう言って、申し訳なさそうに手を合わせた。
「でもさ、てつじさんと暮らすってことは、あの勇気とも一緒に暮らすってことやろ? あんな扱いにくいガキと一緒で、ヤイ子大丈夫?」
口の悪いみゆうが、そう言ってヤイちゃんをからかった。
「うん、でもね、あの子ああ見えてけっこう繊細やし、かわいいところもあるんやって。ねー、チイちゃん?」
「うん……」
頷きながらも、私は自分の気持ちがうまく整理できずにいた。確かに、このところずっとてつじさんの家に入り浸っていたヤイちゃんだから、こうなるのは自然の流れといえばそうだ。でも、私たちの同居生活が、こんな形であっけなく終わりを迎えてしまうなんて、私にはにわかには信じられなかったのだ。
しかし、その別れは予想していたよりもずっと、穏やかで淡々としたものだった。正直、私はもし私たちが離ればなれになる時が来たら、もっと大きな波のような悲しみが押し寄せてくるとばかり思っていた。だけど、今私の胸に去来しているのは、悲しみよりももっと漠然とした諦観のようなものだった。私たちはこうして人生の大きな節目を、ちょうど緩やかな直線がゆっくりカーブに差しかかるように、それと気付かずにいくつも通り過ぎていくものなのだろうか。もちろんそこに、一抹の寂しさが従うのは確かだ。けれど、私たちは意外と、新しい変化を柔軟に受け入れてしまうことができるのかもしれない。
私はまた、居酒屋で父の言っていたことが少し分かった気がした。
パァン、パン、パァン!
ギャラリーに戻ると、扉を開けるやいなや、勢いのいいクラッカーの破裂音が、部屋中に鳴り響いた。奥ではてつじさんと勇気が「おめでとう」と手を叩いて私たちを出迎え、その隣では音二郎さんが、突然のサプライズに言葉も出ない私たちを見て、ニヤニヤと笑っていた。
「お疲れさま、これ僕と勇気からのお祝いです」
てつじさんはそう言うと、抱えていた大きな花束をみゆうに渡した。
「うわー、私こんなのもらったの初めて。ありがとうございます!」
「いえいえ、これくらいしかできないですから。でも、ほんと倉田さんの個性がよく出た、いい作品が揃ってますよね。短い時間でよくこれだけ頑張りましたよ」
みゆうはてつじさんの言葉に、感極まって涙をこぼした。それを見ると、私たちの胸にもぐっと熱いものが込み上げてきて、私たちは長いようで短かった今までの道のりをお互いに称えるように、みんなで抱き合った。
それからは、てつじさんや勇気も作業を手伝ってくれ、私たちは準備作業の最終仕上げに取りかかった。事務所から長机を持ってきて、二階に上げ、受付を用意する。てつじさんはその合間にも、ヤイちゃんの頭をコツン小突いたり、「やよい」とさりげなく彼女を名前で呼んだりしていて、アツアツぶりを見せつけていた。私はそれを見て、からかうように言った。
「聞きましたよ、ヤイちゃんと一緒に住むんですって?」
するとてつじさんは、「ああ、そのことですか」と言って、アンケート用紙の準備をしながら、照れくさそうに笑った。
「いやー、勇気のこともあるからどうかなって思ってたんですけど、当のあいつが応援してくれたから、それに背中を押されたって感じですかね」
「へー、勇気がそんなことを?」
私は驚いて尋ねた。
「そう。ある日、スーパー袋いっぱいに粉々の紙くずの山を持って帰ってきたかと思ったら、『もう僕は大丈夫だから、兄さんも自分のこと考えなよ』って。弟に心配されるなんて、ふがいない兄ですよね。でも、ずっとあいつのことかわいそうで守ってやらなきゃいけない存在だと思っていたけど、今考えると、それは僕が見くびってただけなのかもしれないって気がしますよ。本当はあいつは、僕が思っているよりもずっと強い。最近はよくそう思うようになりましたね」
勇気は、僕が思っているよりもずっと強い。
そう言うてつじさんの表情は、嬉しそうでもあり、どこか寂しそうでもあった。私はあの公園でノートを破いた日のことを思い出し、クスクスと一人で笑った。てつじさんはそんな私を見て、何がおかしいのか分からずに、不思議そうに首を傾げていた。
勇気は私たちから少し離れて、壁際の一枚の絵の前で立ち止まっていた。私が肩を叩いて「よっ!」と声をかけると、彼は振り返って、相変わらず無愛想に「おう」と返事をした。
「この絵、好きなん?」
「別に。ちょっと気になったから見てただけ」
その絵はみゆうが最後に描いていた、あの畳一枚ほどの大作だった。それは「道のり」というタイトルがつけられていて、個展に出した中でも、彼女が最も力を入れたと言えるものの一つだった。
いつもうさぎをモチーフにしている彼女にしては、珍しく人を描いた作品。そこには、海を思わせるブルーの背景に、三頭身の輪郭線と顔の表情のみにデフォルメされた人たちがたくさん、水の中を漂流するかのようにふわふわと所在なく描かれている。彼らの目はあの漫画喫茶で出会った人たちのように、どこか物憂げに宙を漂っているように見えた。
この絵には次のような詩が添えられていた。
私たちは浮遊している
可能性の海の中
広がる未来を目の前にして
全てのものに手が届くのに
何ものにもなれないと
君は嘆く
誰かの決めた幸福を
押しつけられたくなくて
旅路についた
しかしその道が正しいのかと
人に聞かれるたび
私は迷う
私たちは恐れている
命綱のない自由を
足跡のない新開地を
自分の存在意義を求めながら
誰かに像を与えられなければ
自分が自分であることが
時々、あいまいになる
私たちは浮遊してゆく
理想と現実のはざま
幼さと成熟の境界
架空の未来に
安住の地を求めて
私は今までのみゆうの作品の中で、これが一番好きだった。そして、みゆうもまた、私たちと同じように、迷っていたのだと思った。いつだって意志がはっきりしていて、ためらいなんてなさそうに見えたみゆう。そんな彼女でさえも、うわべでは分からない不安や焦りを抱えていたのだ。結局、そんなものなのかもしれない。みんな他人の中に自分にないものを見て羨ましがるけれど、本当のところは、しょせん本人にしか分からないのだ。
「ねえねえ」
くい入るように絵を見つめていた私を、勇気が呼んだ。見ると、彼はいつの間にか小脇にスケッチブックのようなものを抱えて、私の前に立っていた。
「描いたぞ」
彼はそう言うと、スケッチブックをめくって、中身を私に見せてくれた。開かれたページには、緻密なコマ割りや背景の代わりに、どこかの漫画にでも出てきそうな、剣を持ったヒーローの姿が、ぽつんと描かれている。その絵は久しぶりに描いたことが一目で分かるくらい、線もたどたどしく、あまり上出来とは言えなくて、思わず吹き出してしまった。
「なんだよ、せっかく一生懸命描いたのに」
「下手くそ。全然、人のこと言えへんやん」
勇気は「何だと、あんたよりマシだろ」と、顔を真っ赤にして怒り出した。私はそれを見て、さらに笑った。ムキになっていつものポーカーフェイスを崩した彼の顔は、意外に子供っぽく、ひまわりのような無邪気さが、ひしゃげた表情の中に時折顔を覗かせている。
窓の外を見ると、強い突風に吹かれた桜の枝が、乱舞のように花びらを舞い散らせていた。この花もあと一週間もすれば、風と雨に晒されて、貧相な地肌が姿を現すようになるだろう。そう思うと、少し寂しい。
なあ、チハル、花だって遠くから見てるときれいだけど、近くで見たら汚い部分も見えてくる、現実なんてそんなもんじゃないか――?
また、父の言葉を思い出した。父は花を人生に例えて、現実を受け入れろと私に言った。ならば、目の前の光景も、一つの人生の縮図と言えるんじゃないだろうか。満開に咲き誇った桜も、やがては散って、一年の後にまた美しい花を咲かせるように、私たちもまた、何かを掴んだと思っても、決してそれはゴールではなく、一つの花を咲かせたに過ぎないんじゃないだろうか。開花と落葉を延々と繰り返す木々のように、私たちもきっと、希望と失望の間を行ったり来たりしながら、絶えず新しい目標を追い求めて、走り続けてゆくのだ。
「なんだよ、ボーッとして。もしかして、落ち込んだ?」
すると、ぼんやりと窓の外を眺めていた私の顔を、勇気が心配そうに覗き込んだ。
「まさか」
私はそう言って勇気の額を軽く小突くと、作業を残していた受付の机のところに戻った。
明日からいよいよ、みゆうの個展が始まる。