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第四章

みゆうが音二郎さんの画廊を訪れてから、約四ヶ月が経った。

 今年の冬は短く、ついこの間、凍てつくような北風がダークグレーに染まった街を吹きすさび、街路樹の葉を残らず落としたかと思ったら、いつの間にか窓の外は、芽吹いた桜や、電柱の下に咲くタンポポなど、春の訪れを告げる植物達が、顔を覗かせるようになっている。

 季節感などまるで意識したこともないこの部屋にいても、日に日にあらわになってゆく春の兆しは、いやが上にも感じられた。窓を開けると、どこからか漂ってくる青くさい草の匂いや、頬に触れる生ぬるい風。それらは例年ならば、やっと寒い冬も終わって過ごしやすい季節がやって来たのだと、歓迎すべきものだったのだが、今年だけはそれらは刻々と迫ってくる時をカウントする、ストップウォッチに過ぎなかった。

 四月のみゆうの個展まで、残り時間はあと一ヶ月を切っていた。日が迫ってくるにつれ、部屋の中はまるで画材屋の倉庫のように、キャンバスやら絵の具やらが散乱していき、もう足の踏み場もないほどになっている。みゆうは毎日、ほとんど外に出ることもなく部屋に閉じ籠って、自分より大きいキャンバスに埋もれるようにして、絵を描き続けていた。

 最近、私はこの部屋に長い間保たれていた均衡が、にわかに崩れ始めるのを感じていた。それは、「みゆう」と「ヤイちゃん・私」の間にできた、溝とでも言おうか。個展が近づくにつれ、みゆうの言葉や態度からは次第に余裕がなくなってゆき、代わりに彼女の周りには、有刺鉄線を張り巡らせたような、ピリピリとした緊張感が漂うようになった。たとえ少しも筆が進まなくても、彼女は片時たりともキャンバスのそばを離れようとはせず、食事すらろくすっぽとろうとしないので、これでは絵が完成する前に、彼女の方が体を壊してしまうのではないかと心配になるほどだった。

 私たちはそんな彼女の邪魔をしないよう、自然と日常生活にも細心の注意を払うようになっていった。ヤイちゃんはテレビの音を消すためにイヤホンを買い、中央にあったちゃぶ台は畳んで壁に立てかけられ、私は蓋をした浴槽の上で漫画を描いた。巨大なスヌーピーはテレビの上に強制移動させられ、食事はみゆうの目について嫌味にならないよう、最近はできるだけ部屋の隅でひっそりととるようにしている。

 もちろん、それらはみゆうから強いられたことではなかった。彼女はむしろ私たちを気遣い、「ほんと私のことは気にせんと、いつも通りにしといてね」と、ことあるごとに言ってくれる。だが、迷惑になると分かっているのに、あえて大音量でテレビを観たり、お腹を空かせた彼女の前でこれ見よがしに食事をする友達がどこにいるだろう。それに、こんな風に部屋の中が誰かを中心に回ることは、例えば私が失恋して落ち込んだ時や、ヤイちゃんのお母さんが大阪に出てきて、うちに泊まった時なんかにもあったことで、長い短いの差はあるにせよ、ある期間を過ぎれば元に戻ることなので、大した問題ではなかった。

 私が心配しているのは、もっと別の精神的レベルでの均衡の問題だった。つまりこの四ヶ月の間で、私たちを見るみゆうの目が、以前に比べて微妙に変化しているような気がするのだ。

 例えば、私やヤイちゃんが昼間テレビを観たり、雑誌を読んだりしてゴロゴロしていると、以前のみゆうならば一緒になって「あー、暇だな」とか言ってくれていたはずなのに、今は背を向けて黙々と絵を描きながら、時々、同情するような目でこっちを見る。それに、今までは自分の年齢など数えたこともなさそうだった彼女が、最近は「私もいつまでもプーでいるわけにもいかないし、将来のことちゃんと考えないと」なんて、やたらと年齢のリミットを意識した発言が多くなったのだ。私は彼女から「チハルはこれからどうするの?」と訊かれるたびに、父や母から訊かれているのと同じような、肩身の狭さを感じてしまう。

 ヤイちゃんはそんな変化に気付いているのかいないのか、最近はてつじさんの部屋に入り浸りで、家を空けることが多くなった。でも、私には逃げ場所がない。私はみゆうと狭い部屋で二人きり、ひたすら彼女の変化に気付かないふりをして、以前と変わらず馬鹿話を続けるしかなかった。でも、いくら表面では「お互いいい歳してプー太郎だね」なんて笑い合っていても、その言葉はどこか空回りして虚しかった。

 そして、破綻は突然に訪れた。空気を詰め込みすぎた風船が、パチンと弾けるように。

 その日、みゆうは個展に出す中でも、一番大きな、畳一枚ほどもあるキャンバスの作品に取りかかっていた。私は少し離れた場所で、留守中のヤイちゃんのイヤホンを借りて、お昼過ぎのワイドショーを観ているところだった。だが、番組がCMになった時にふと見回すと、さっきまで窓際でキャンバスと睨み合っていたみゆうがどこにもいない。どこに行ったのだろうと不思議に思っていると、しばらくして、描きかけの原稿の束を両腕に抱えたみゆうが、バスルームから恐い顔をして私のところへやって来た。

「また、お風呂場で漫画描いてたやろ。気ぃ遣わなくっていいって言ったやん」

 彼女は原稿をどさっと床に置くと、すばやい動作で散らかった自分の画材を隅に寄せ、壁に立てかけてあったちゃぶ台を組み立て始めた。

「いいって、いいって。今、みゆうは大事な時なんやから、思う存分、部屋を使ってくれたらいいねんって」

 私は彼女の方に駆け寄り、足が半分立てられたちゃぶ台を元に戻そうとした。だが、みゆうはそれを遮って、喝を入れるように私に言った。

「あかんって。私が大事な時期やったら、チハルだってそうなはずやん。こうやって私に遠慮してる間にも、時間なんてすぐに過ぎて、二十八が来て、二十九が来て、あっという間に三十になっちゃう。チハルももっと頑張らないと」

 チハルももっと頑張らないと――?

 彼女の何気ない言葉に、私はカチンときた。以前のみゆうなら、「私たちも頑張らないと」とは言っても、「チハルも頑張らないと」とは言わなかったはずだ。その言葉の裏には、「私もこんなに頑張ってるんだから」という、ある種の優越意識が隠されているような気がして、私は反発を覚えた。みゆうにしてみれば、私のことを思って言ったことなのに、そんな風に取られて心外だと思うかもしれないが、善意から出た言葉の方が、むしろ余計に始末が悪い。

「それ、どういう意味?」

 私はとげのある口調で言った。すると、彼女はそんな反応など思いもよらないという風に、「どういう意味って、どういう意味?」と、きょとんとした顔で訊き返してきた。

「だーかーらー、みゆうのさっきの言い方はさ、『チハルも私みたいにがんばらないと、駄目人間になっちゃうよ』っていう風に聞こえたんやけど」

「そんな、私はそんなつもりじゃ……」

「そんなつもりでなくても何でも、私にはそんな風に聞こえたの。そりゃみゆうが一生懸命頑張ってるのは認めるよ。でもさ、だからってそんなに急に上からものを言うようにならなくってもいいじゃない? 働いててもそうでなくても、どっちが偉いってわけでもないって、前に言ってたのはみゆうでしょ?」

 私は自分の口から、堰を切ったように不満が溢れ出すのを止められなかった。みゆうは最初こそ我慢強く耳を傾けていたものの、私の言い分のあまりの理不尽さに、途中からみるみる不機嫌になっていき、ついには私の顔をキッと睨みつけて、こう言い返してきた。

「いつ、誰が上からものを言った? 私はチハルにも漫画家になって欲しいから、『チハルも頑張ろう』って言っただけやん。そんなの勝手な思い込みやわ」

「あっ、今また『チハルにも』って言ったでしょ。それってもう自分はできてるって前提で話してない? そりゃ、みゆうはいいよ。自分のやりたいことはっきりしてるから。でも、私は何か始めるたびに、本当にこれが自分に向いてるのか、本当にこれが自分のやりたいことなのか、自信がなくて、頑張りたくても何に対して頑張ったらいいのか、それすらも分かんないんやもん。みんなが自分と同じだなんて、勝手に決めつけないでよねっ!」

「……いいかげんにしてよ」

 みゆうは私の子供じみた言いがかりを、ひどく冷めた口調で一喝した。彼女の顔には怒りを通り越して、もはや軽蔑の色さえ現れているように見えた。

「チハルは私が、今まで何の迷いや不安もなく突き進んできたって、本気でそう思ってるわけ? そりゃ、やりたいことを見付けるのが早い人もいれば遅い人もいるのは、私にも分かるよ。でも、チハルはそれを盾に言い訳をしているとしか思えない。結局、チハルは結論を先延ばしにして、いつまでもぬるま湯に浸かっていたいだけなんとちゃうん? 何の責任もないモラトリアムから、本気で抜け出すつもりなんてないんやわ」

 みゆうの言うことは一言一言いちいち筋が通っていて、返す言葉が見付からなかった。しかし今の私には、それを素直に聞き入れる精神的な余裕などなかった。

「そんなことないもん! 私だって早くこんな状況何とかしなきゃって、本気で考えてる。何にも分かってないくせに、好き勝手なこと言わないでよっ!」

 私はヒステリックにそう叫ぶと、何か言い返そうとするみゆうを押しのけ、荒っぽくドアを開けて、ついに部屋を飛び出してしまった。背後から「ちょっと、チハル、どこ行くの!」と、呼び止めるみゆうの声が聞こえた。だが、その声はアパートの外まで追いかけてくることはなかった。

 私は入り組んだ住宅街を夢中で走り抜け、大通りまでやって来ると、やっとそこで少し歩を緩めた。きれぎれになった息を整え、少しずつ冷静さを取り戻し始めると、それと同時に後悔が洪水のようにどっと押し寄せてきた。

 どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。私がみゆうにぶつけた言葉は、自分への怒りを転嫁した言いがかりにすぎない。結局、私は友人の挑戦を応援するようなふりをして、陰ではそれをうとましく思い、挫折を願っていたのだ。私は自分の心の醜い部分を鏡で見せつけられた気がして、ひどい自己嫌悪に陥っていた。

 気が付くと、私はいつの間にか、ネオンの消えた昼間のピンク街の中に紛れ込んでいた。通りの向こうには、勇気と出会ったあの漫画喫茶が見えている。「一時間四百円 漫画読み放題」と窓に描かれた文字を見ながら、私は半年前の、あの日の出来事を思い出していた。思えばあそこで勇気と出会ったことが、全ての始まりだった。あの時、私が興味本位で彼に声をかけたりしなければ、今でも私たちはあの十畳の部屋でいつもと変わらない生活を続けていただろう。ヤイちゃんは彼氏が欲しいとか言いながらテレビに齧りつき、みゆうはパチスロで稼いだお金を画材に注ぎ込んでは、売れない絵を描いて歩道橋で露店を出していただろう。なのに、この半年で、私たちを取り巻く環境はめまぐるしく変わってしまった。そして私だけが、その変化の波に乗り切れずに立ちすくんでいる――。

 勇気に会いたい。

 ふと、心の奥からそんな衝動が湧き上がってきた。勇気に会いたい。あの漫画喫茶の陰気くさい机の上で、出会った時と同じように、カリカリと規則的にペンを走らせる勇気の姿が見たい。他のものが全て刻々と変化を遂げてゆく中で、彼だけはただ一人、変わらずにあの場所に留まり続けているのではないか、ふとそんな気がした。私は彼に会い、彼の存在を確認することで、自分の居場所を確かめたかった。

 私は通い慣れた階段を上り、カランカランと安っぽい鈴の音がする扉を開けた。煙草の煙と古本の匂いが籠る店内は、相変わらずどことなく殺伐としていて、私はその風景に不思議な懐かしさを覚えた。

 受付を済ませると、私は足早に狭い本棚の間や、規則的に並べられた長机の列や、甘い匂いを漂わせるドリンクバーを、勇気の姿を求めてさまよい歩いた。だが、すれ違う客の顔を覗き込むぐらいに捜しても、店内に勇気の姿は見当たらなかった。読書席では以前と変わらず、フリーターや、ヤンキーやサラリーマンやおたく青年が熱心に読書に耽っている。しかし、その風景から勇気の姿だけがぽっかりと抜け落ちていた。

 私はひどく惨めな気持ちになった。もう、ここに勇気はいない。彼が座っていた隅の席には、積み上げられた漫画本や、びっしりと線で埋められた白いノートや、足元のランドセルの代わりに、前の客が置きっぱなしにしていった、空のグラスがあるだけだった。私はついに、あれほどまでここに根を張っていそうに見えた彼にさえも、置いてけぼりを食らわされてしまったのだ。

 私は店を出ると、疲れた足取りで当てもなく街をさまよい始めた。みゆうが絵筆を走らせる私たちの部屋にも、父や母が待つ実家にも、どこにも帰る気になれない。私は賑やかに人が行き交う商店街の中で、大海にぽつんと放り出された小舟みたいに、悲しいくらいに一人だった。でも、本当は最初から一人だったのかもしれない。ただ、今まで私はいろんな人に囲まれて過ごしてきたから、そのことに気付かなかっただけなのだ。

 いつの間にか周りの風景は、ごちゃごちゃしたピンク街から、個人商店が建ち並ぶ下町へと、様を変えていた。当てもなくぶらぶら歩いているうちに、ずいぶん駅から離れたところまで来てしまったようだ。目の前には、緑色のフェンスに囲まれた小学校の広いグラウンドが見える。偶然にも、そこは勇気が通っている小学校だった。ちょうど下校時間と重なっているのか、門からは授業を終えた生徒たちが、あとからあとから駆け出してきていた。その絶え間ない人の流れをぼんやりと眺めていると、ふと門のところによく見知った顔が現れて、私はハッとした。他の生徒たちが友達と楽しそうにお喋りをしながら出てくる中、たった一人誰とも喋らずに、とぼとぼと元気のない足取りで下校してくるその子――。

「勇気!」

 私は向かいの通りから大声で叫び、彼の方に駆け寄っていった。勇気は私に気付くと、手に持ったノートのようなものを、とっさに後ろに隠して言った。

「何してんの? こんなところで」

 彼は相変わらず、こんなところで偶然会っても、笑顔ひとつこぼさずに淡々としている。いつもならむかつくほど度の過ぎた冷静さだが、今日ばかりはそんな態度も無性に懐かしく思えて仕方がなかった。

「ちょっとね、散歩してたら偶然辿り着いて。でも、こんなところで勇気に会えて嬉しい」

 偶然の再会に涙を浮かべんぐらいに喜ぶ私を見て、勇気はかなり気味悪がっているようだった。

「何か悪いものでも食べたんじゃないの?」

 真顔でそう尋ねてくる彼の戸惑いぶりがおかしくて、私はまた「ふふふ」と笑った。

 しかし、こうやって近くで見ると、彼の様子がいつもと少し違っていることに気付く。遠くから見た時は分からなかったのだが、いつもはガラス玉を埋め込んだみたいに涼しげな目元が、泣いた直後のように赤く腫れているのだ。そういえば校門から出てくる時の表情も曇っているように見えたし、学校で何か嫌なことがあったのだろうかと、私は心配になった。

「どうしたん、何かあった?」

 ちょうどその時、校門から出てきた生徒と勇気とがぶつかって、その拍子に彼が後ろに隠していたものが、バサリと地面に落ちた。それは思っていた通り、A4サイズの薄いノートで、風でペラペラとめくれていくページを見て、私はごくりと唾を飲み込んだ。つい半年ほど前、びっしりと緻密なコマ割りで埋め尽くされていたあの模写のノートが、見る影もなく黒いフェルトペンで乱暴に塗り潰されていたからだ。

「見るな!」

 勇気はさっとノートを取り上げると、鋭い視線で私を睨み上げた。その目には、「何を訊かれても、絶対に何も言わない」という強い意志が感じられて、私は口をつぐんだが、彼が学校でいじめに遭っているらしいということは、誰の目にも明らかだった。「学校に行っていない」と漫画喫茶で聞いた時から、うすうすは感づいていたけれど、悪い予感は敵中してしまったようだ。

「今のは見なかったことにしろよ。もし兄さんに言ったりしたら、承知しないからな」

 私は全てのことを一人で背負いこもうとするかのように、きゅっと固く口を結んだ勇気の気迫に押されて、思わず「うん……」と頷いてしまった。だが、彼はそれでも安心できないようで、「約束だぞ!」と念を押すと、私に指切りをさせた。交わした小指は思っていたよりも華奢で、心なしか少し震えているように思われた。 


 国道沿いの自動販売機から、ゴトッ、ゴトッとたて続けに出てきた二つの缶を取って、私は日暮れの近づいた公園へと急ぐ。向こうではブランコに乗った小さな影が揺れていて、私は昼間の熱気と夜の冷気が混じり合ったぬるい風を頬に感じながら、腕に抱えたホットのミルクコーヒーと冷たいカルピスソーダを見比べ、このセレクトは我ながら正解だと一人で満足していた。

「ほら。これ、私の奢り。どっちでも好きなん取り」

 二本の缶ジュースを差し出すと、ブランコに座っていた勇気が顔を上げ、黙って私の手から、カルピスソーダを抜き取った。私は隣のブランコに腰かけると、プシュッと勢いよく缶を開け、シロップのように甘いコーヒーを喉に流し込んだ。

 公園前の国道は、時間が経つごとに交通量が多くなり、眩しい車のヘッドライトが波のように連なって、私たちの前を通り過ぎていっている。だが、それとは対照的に、薄暗い公園の中は、小学生や親子連れも引き払って閑散としていた。

「学校、行ってたんやね」

 沈黙を破って私が言うと、その声は静寂の園内に、水面に広がる波紋のように響いていった。勇気は返事の代わりに、ただ黙って頷いた。

「いつから?」

「さあ。あのお好み焼きパーティーがあったすぐ後ぐらいかな。いつもみたいに漫画喫茶で時間を潰して帰ろうとしたら、ある日、店の外に兄さんが立ってたんだ。兄さんは悲しそうな顔で僕に言ったよ。『勇気、ごめんな。俺が何とかしてやるから』って……」

 私はあのパーティーで聞いた、てつじさんの言葉を思い出していた。「僕は弟のためにできるだけのことをしてやりたいんです」、そう言った時、すでにてつじさんは、そうすることを心に決めていたのかもしれない。

「兄さんは僕が学校に馴染めるように、いろいろしてくれたよ。クラスメートを家に呼んでバーベキューを開いたり、クリスマスパーティーを開いたり、でも、結局そんなことをしても、ほとんど何も変わらなかったんだけどね……」

 勇気の言葉を聞くだけで、私にはその風景がありありと思い浮かぶようだった。きっとあの人のことだから、本当に弟のためにあらゆる手段を尽くしたのだろう。でも、それはきっとほとんどが骨折り損で終わったに違いない。子供は子供にしかないデリケートな目線で、自分たちとは毛色の違った人間を見分け、巧妙に排除していくものだ。おそらくそれは、外部から大人がどんなに働きかけたところで、嫌いなものを好きと言えないように、根本からは変えることはできない。そしてそのことを、勇気もまたよく分かっている。

「学校が嫌なのは、いじめに遭ってるから……?」

 私が訊くと、勇気は自分の内側を覗き込むように、一瞬、暗い眼をして言った。

「……僕がみんなに嫌われるのは、本当は僕が誰も必要としていないからだ。きっと僕は、仲間に入れてって頼んでる時でも、その子と本当に仲良くなりたいから言ってるんじゃなくて、一人にならなくてすむ適当な場所を探しているだけなんだ。だから、そういう本心から出ていない言葉って、きっと相手に伝わっちゃうんだよ」

 「誰も必要としていない」、私は彼の言葉に、何か引っかかる違和感を覚えた。まるで他人事のように語る彼は、むしろそう思い込むことで、自分から一人になろうとしているように見えたからだ。

「違う、違うよ。勇気がみんなと打ち解けられへんのは、誰も必要としていないからじゃない。誰にも本心を見せようとせえへんからやわ。だって勇気は何があってもそうやってぎゅっと口を結んだまんまで、感情を表に現さないでしょ? たぶんそれが他の子から見たら、何を考えてるか分からないように見えるんとちゃうかなあ。そのノートだってさ、漫画本のコピーみたいで、勇気の個性が何にも出てないやん。みんなが勇気のこといじめてしまうのは、分からないものに対する怖さの裏返しなんだよ、きっと」

「何だよ、偉そうに」

 勇気はぶっきらぼうに言うと、飲みかけの缶を置き、勢いよく地面を蹴ってブランコを漕ぎ始めた。その放物線の間で、私の「当たり前やん、大人やねんで、こっちは」という言葉が、ぶつける先を見つけられず宙を漂っている。それに応える「じゃあ、どうすればいいんだよ」という勇気の言葉も、上へ下へと気まぐれに揺れていた。

「自分の絵、描いてみれば? そしたらさ、クラスの子とも話が広がるかもよ」

「……描けるもんなら、描きたいよ」

 勇気は空を仰ぎながら、吐き捨てるように言った。そして、地面に足を突き出して荒っぽくブランコを止めると、うつむいたきり黙り込んでしまった。

「どうしたの……?」

 彼は私の言葉など耳に入っていないかのように、焦点の合わない目で通りを過ぎてゆく車両の流れを見つめていたが、しばらくすると、何かを決意したように顔を上げて、重々しく口を開いた。

「うちの両親が死んだのは……事故じゃないかもしれないんだ……」

 今まで緩慢に流れていた公園の空気は、その言葉で一瞬にしてピンと張り詰めていった。彼は声を震わせながら、言葉を続けた。

「あの事故があった日、母さんは出かける前に、『もし、お母さんやお父さんがいなくなっても、勇気は大丈夫よね?』って訊いたんだ。前から欲しがっていた漫画も買ってくれたりして、妙に優しいのが気にはなってた。そしたら、駅まで父さんを迎えに行くって車で出た帰り、山道のカーブでスリップして、車ごと崖に転落したんだ」

「……」

 私は何と言っていいか分からなかった。「そんなの、ただの偶然かもしれないじゃない」、そう言いたかったけれど、勇気の思い詰めた表情には、安易な慰めの言葉を許さない何かがあって、私は言葉を飲み込んだ。

「どうして? だって勇気のご両親は長年の夢を叶えて、理想のペンションを建てたって、てつじさんも言ってたじゃない?」

「……兄さんは知らないんだ。十八でこっちに出てきて、あんまり実家には帰って来なかったから。本当は三年ぐらい前から、うちのペンションはうまくいってなかった。はっきり聞かされたわけじゃないけど、家に知らないおじさんたちが来て、お金を返せって言ってきたりするから、僕にも何となくは分かったよ。その頃から、仲の良かった父さんと母さんの言い争いも多くなって、二人は自分たちの夢を守り続けていくことに、疲れているみたいだった。だから、あの事故の知らせを聞いた時、僕はピンときたんだ。ああ、父さんと母さんは、お金とか仕事とか、そういう現実的なものに追いかけられない世界に行くことを選んだんだって……」

 勇気はそこまで話すと、深い溜息をついた。いつの間にか、辺りは墨をこぼしたような濃い闇に包まれ、冬のように冷たい夜風が肌を刺している。

「……辛いね、大好きな人がそうやって目の前で苦しんでいるのを見るのは、辛いね……」

 私は搾るような声で、小さく呟いた。すると、耳元にしゃくりあげる声が聞こえてきて、顔を上げると、隣で勇気が泣いていた。顔を真っ赤にしながら、今までこらえていた感情が一気に溢れ出したかのように、彼はぽろぽろと大粒の涙をこぼしていた。

「僕は怖いんだ。あんなに楽しそうに夢について話し合って、頑張ってきた父さんと母さんが、その夢のせいで不幸になっていくのを見てしまったから。自分もいつか何かを叶えたいと思った時に、同じようになってしまう気がして怖い。そうしたら、あんなに好きだった漫画も、いつの間にか描きたいと思わなくなってた……」

 私は今初めて、彼が頑ななまでに自分の殻を守る理由が分かったような気がした。彼は長年温めてきた夢に挫折した両親を見てきたからこそ、そうなるまいとして感情を介さずにものを見ようとしているんじゃないだろうか。何にでも無関心を装っているのも、時間や記録といった目に見えるものにしか興味を示さないのも、彼の必死の防衛本能なのだ。でもそんな彼でも、自分の好きなものへの愛着を、完全に封印することはできなかった。漫画喫茶で黙々と模写を続けていたのは、そんな抑えつけられた自我の、無意識の抵抗だったのかもしれない――。

 「夢とは何だろう」と、私は時々考える。世の中ではそれを持っていないと人間扱いされないくらい、重宝がられている代物らしい。綿菓子のようにふんわりと甘い誘い文句で、私たちを魅了する夢。だけど、中に入ってみると、そこは茨の蔓に彩られた急勾配の岩山だ。その頂点を目指そうとして、どれだけ多くの人が傷を負い、辛酸を嘗めて、深い挫折感を味わいながら、途中退却を余儀なくされることか。しかし、世間で取り上げられるのは、氷山の一角の成功者ばかりだ。私たちは彼らの「夢は素晴らしい」という美辞麗句につられて、とても登れそうにもない山を登ろうとする。もしくは、登れると勘違いしてしまう。夢にはそんな罪深い一面もあるのだ。

「ねえ、勇気。うちの親はさ、若い頃に自分のやりたいことをできなかったって、ずっと後悔してて、それに比べたら、やりたいことを叶えられた勇気のご両親は、その分幸せだったんじゃないかなって思うけど……。でも、どうなんやろうね。本当のところはよく分かんないや……」

 勇気は返事をせず、遠い記憶を思い出すように、空を仰ぎ見ていた。頭上には、透き通った早春の夜空に、ふたご座が輝いている。二等星のカストルと一等星のポルックス。性質の違う二つの星が、同じように輝いて見えるように、私と勇気も全然違うようでいて、どこか似ているのかもしれないと思った。

 なりたくないものは分かっているのに、何になりたいのかが分からない――。行きも戻りもできなくて、立ち往生しているところが、私たちはよく似ていた。

「勇気、さっきのノート出しな!」

 私が威勢よく言うと、勇気は濡れた瞼をこすりながら、「はあ?」と怪訝そうに顔をしかめた。

「いいけど、何すんだよ」

「これ破るんだよ、今から。あんたが!」

「はあ?」

 勇気はさらに呆れた顔で訊き返した。

「何でそんなことするんだよ?」

「だって、いい機会やと思わへん? この塗り潰されたノート破ってさ、勇気を悩ませてる辛い記憶とか、学校でのいじめのこととか、そういうのぜんぶ蹴散らしちゃおう!」

「……あんた、僕よりも幼稚だな」

 勇気はやれやれと肩をすくめたまま、ちっとも相手にしようとしないので、私は仕方なく彼からノートを奪い取ると、それを半分にちぎって片方を彼に渡した。

「一緒にやるんやったら文句ないやろ。『せーの』で破るよ」

 私はそう言って、強引に彼をたきつけた。

「じゃ、せーの!」

 ビリッ。勇気も気乗りしないながら、しぶしぶ私につられてノートを破った。黒く塗り潰された紙の束は、私達の手の中で小気味よい音を立てながら、二つ、四つ、八つとみるみるうちに細かくちぎられていった。

 勇気を縛っている嫌な思い出から、早く彼が自由になれますように、ビリッ。勇気がもう一度、自分の漫画を楽しんで描けるようになりますように、ビリッ。勇気が早くクラスメートと打ち解けることができますように、ビリッ。私は頭の中で掛け声をかけながら、夢中でノートを破ってゆき、薄暗い公園には紙の裂ける音が、楽器のリズムのように軽快に響いていった。

 気が付くと、私たちは途中から元々の理由も忘れ、どこまで小さく破ることができるか、そのこと自体に夢中になっていた。足元にこんもり積もった紙吹雪の山を見ながら、私と勇気は顔を見合わせてクスクスと笑った。


 家に帰ると、部屋は誰もおらず真っ暗で、点けっぱなしのテレビだけがぼうっと鈍い光を放っていた。辺りを見回しても、みゆうの姿はどこにもない。今日はどうしてこうもすれ違いが多いのだろう。そう思っていると、カーテンの陰から煙草の煙が一筋上っているのが見えて、私は急いでベランダへ出ていった。

「みゆう!」

 振り返った彼女は、さっき喧嘩をしたことなどすっかり忘れてしまったかのように、穏やかな表情で煙草を吹かしていた。

「さっきは、ごめんね」

「もうええよ、気にしてへんし」 

 みゆうは私に笑顔を見せると、ふうっと空に向かって紫煙を吐き出した。私は彼女の隣にそっと歩み寄り、夜風で冷え切ったアルミサッシの手すりに、肘をついてもたれた。ぴたりと沿わせた素肌から、冷たさが体の芯まで伝わってくる。

「私もさ、つい気負いすぎて、周りが見えてなかったんやと思う。ずっとチハルやヤイ子が我慢してくれてたのにも気付かずに、こっちこそごめんね」

 彼女の顔には久しぶりに、以前のような余裕が戻っていて、私はそれが嬉しかった。そして、安心すると急に笑いが込み上げてきた。

「そうやで。無理しすぎて体を壊したりしたら、元も子もないんやからね。これをきっかけに、またいろいろチャンスがあるかもしれないんやし」

 そう言うと、なぜかみゆうは急に真面目くさった顔で押し黙ってしまった。不思議に思って「どうしたの?」と訊いてみると、彼女は「それがさ……」といつになく歯切れの悪い口調で、話を切り出した。

「今まで言ってなかったんやけど、一週間ほど前に実家から電話がかかってきて、うちの父親、入院したんやって。それが結構難しい病気らしくて、治るまでけっこう時間がかかるみたい……」

「ええっ、大丈夫なん?」

 私はびっくりして身を乗り出した。するとみゆうは、「あっ、でも命に関わる病気じゃないから大丈夫やで」と慌てて付け加えた。

「ただ、しばらくは仕事を休まないといけないから、その間の家のこととか考えたら、もうこういう生活してられへんかなって。だから私さ、個展が終わったら、地元に帰って就職することにした。そうなったら、今までみたいに絵ばっかり描いてられへんと思うし、こうやって力を入れて個展とかするのも、もしかしたら最初で最後かも……」

「……みゆうは、それでいいん?」

 私は訊かずにはいられなかった。だってあんなに一生懸命がんばっていたみゆうが、こんなにもあっさりとやりたいことを諦めてしまうなんて。無理をしているとしか思えなかったからだ。 

「うん……、でも、お母さんに苦労させたくない……」

 いかにも、みゆうらしい答えだった。結局、彼女は大切なものを犠牲にしてまで、自分のエゴを通すことはできない人だ。私は彼女がアートと同じ真剣さで仕事に打ち込んで、立派な社会人になってゆく姿を、容易に想像することができた。それは生活をともにした仲間としては嬉しい気もするし、少し寂しい気もする。でも、だからといって、今、私にできることは何もない。できることといえばせいぜい、彼女の決断を肯定的に受け止め、新しい一歩を後ろから笑って見送ってあげることぐらいだ。

「そっか、地元に帰っちゃうのは残念やけど、仕方ないよなあ。でもさ、個展はがんばろう! あと一ヶ月やし、お父さんの看病とかで手が回らない分は、私にできることやったら何でも手伝うよ!」

「……ありがとう」

 みゆうの顔から笑顔がこぼれた。彼女は短くなった煙草を手すりに押しつけて揉み消すと、「よし、がんばるぞー!」と言って空に向かって大きく伸びをした。

 私たちは何となく部屋に入りたくなくて、そのまま外でぼんやりと空を眺めていた。部屋の奥からは、点けっぱなしになったテレビの音がとぎれとぎれに聞こえてくる。ちょうど天気予報がやっているところで、カーテン越しに洩れる淡々とした気象予報士の声が、明日から吹き始める、今年最初の南風の到来を告げていた。



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