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第三章

 あのパーティーの後、私たちの生活には二つの変化が訪れた。

 一つ目は、ヤイちゃんがてつじさんと付き合い始めたこと。あの日、家に帰ると案の定、てつじさんから彼女にメールがあって、二人は何度かのメールのやり取りの後、一緒に食事に行くことになった。そして、二度目のデートで告白され、現在は交際約一ヶ月。目下ラブラブ期間中だ。

 ヤイちゃんは、彼氏ができてからどんどんきれいになる。以前は出かける時でも、ジャージに毛の生えたようなヨレヨレのジーンズを穿いていたくせに、今はたかだか近所のスーパーに行くだけでも、アイロンのかかったスカートを穿き、お化粧も以前の三倍は時間をかけるようになった。おかげで最近は、もともと造りのよかった顔だちがいっそう際立って、街を歩いていてもすれ違う男の人がいちいちふり返るくらいだ。私はそういうヤイちゃんを見て、彼氏の効果ってすごいんだなと思うと同時に、こんな短期間で、劇的に彼女を変えてしまったてつじさんに、軽い嫉妬さえ感じてしまう。

 もう一つは、みゆうがついに個展を開くと決意したことだ。彼女はてつじさんに「倉田さんも個展をやってみたら?」と言われてから、そのことをずっと真剣に考えていて、折りに触れては私たちやてつじさんに相談を持ちかけていた。だが、とうとう一週間前のある日、いつものように梅田の歩道橋から帰ってくると、彼女は開口一番、「決めた。私、個展をすることにする」と、高らかに私たちに宣言したのだ。きっかけは何だったのかは分からない。でも、相変わらず自分の絵に見向きもせずに通り過ぎてゆく人の波と、毎日足を運んでも中身が減らないバッグを見ていたら、ふとこのままの状態を続けることに不安を感じたのかもしれない。

 彼女は一度決断すると、行動が早く、迷いがない。翌日には、彼女は早速、必要な資料をかき集め、個展を開く場所探しを始めた。パチスロに費やされていたお昼の時間は、ほとんどギャラリーの下見に当てられ、午前中にインターネットや雑誌でめぼしい場所を見つけては、そこを訪ねていくというのが、彼女の新たな日課になった。だが、それだけ努力を重ねても、条件に合った場所というものは、そう簡単に見つかるものではなかった。

 まずは、お金の問題。個展を一つ開くとなると、費用は場所代だけで済むわけはなく、チラシ代やDM代、新しい絵を描く画材代など、それに付随する費用がかさんでいき、自然にその額はどんどん膨らんでいく。そうなると、ただでさえギリギリの生活費でやりくりしているみゆうの予算では、最初の時点で候補がかなり絞られてしまうのだ。しかも彼女が、どうせなら大阪市内の便利のいい場所で、何とか文化センターとか、そういう公共施設以外の場所がいいとか贅沢を言い出すもんだから、選択肢はさらに狭まる。

 まあ確かに、初めての挑戦だし、大切なチャンスだから最良の条件を揃えたいっていうみゆうの気持ちは分かるんだけど、それにしてもやっぱり妥協は必要だ。結局、彼女は何十件とギャラリーを見て回っているにも関わらず、どことも話がまとまらないようで、毎回帰ってきた彼女から聞かされるのは、「今日も駄目だったわ」という無駄足の報告ばかりだった。しかし、人間そういう八方塞がりの時って、思わぬところから助け舟が現れたりするものだ。

 きっかけは、父が私にかけてきた一本の電話だった。内容は「元気か?」とか、そういういう他愛もないものだったと思う。いつもは一言二言、会話を交わしたら、それで電話を切ってしまう親不孝な私なのだが、その日はみゆうが場所探しに苦労していることもあり、だめもとのつもりで父にギャラリーをやっている知り合いがいないか尋ねてみた。大阪の印刷会社でサラリーマンとして働く父は、私と同じく美大を卒業しており、それなら同級生に画廊に携わる人が一人や二人いたっておかしくはないと思ったからだ。すると、意外なほどあっさりと、「ああ、それなら一人いるよ」という返事が返ってきた。

「ほんまに? どこで、どんなギャラリーやってる人? その人、頼んだら安くしてくれへんかな?」

 私が熱心に訊いてくるので、父は驚いて「お前、画廊なんかに興味あったっけ?」と、電話の向こうで不思議がった。

「違う、違う。一緒に住んでるみゆうがさ、個展をやりたいって言ってるんやけど、ほら、私たちって貧乏やん? だから予算に合うギャラリーがなかなか見つからなくて困ってるんよ」

 事情を説明すると、父は「ふーん、そうか」と納得し、私にこんな提案をした。

「じゃあ、安くしてくれるかどうかは分からんけど、一ぺんその友達と一緒にそこに行ってみるか? 大学の同級生の村上音二郎って奴がやってる、本町の『ギャラリー和音』ってとこなんやけど、そういうことやったら、お父さんから村上に連絡しといてやるわ」

「ほんまに? そうしてもらえると助かる!」

「いいよ。久しぶりにあいつの顔も見てみたいし、今度の日曜あたり一緒に行くか?」

「うん、OK。みゆうにも言っとく」

 こうして私たちは、その週の日曜、父とともに『ギャラリー和音』を訪ねることになったのだった。


 当日はなぜか、ヤイちゃんまでもが、私たちにくっついてやって来た。いつもなら友達そっちのけでデートばっかりしているくせに、今日に限って一緒に行きたいなんて言い出すもんだから、どういう風の吹き回しかと思っていたら、どうやらてつじさんが東京出張でこっちにいなくて、家で一人で寂しい思いをしたくないらしい。全く、現金なヤイちゃんだ。

 父は揃って駅にやって来た私たちを見て、「やあ、やけに大所帯やな」と、その人数の多さに驚いていた。だが、若い女の子三人に囲まれて悪い気はしなかったようで、「そんな大人数で押しかけたら向こうもびっくりするで」と戸惑った顔をしながらも、目尻と口元は何となく綻んで見えた。

 本町は、繊維問屋やアパレルメーカーが密集する、ファッションの街として知られると同時に、ギャラリーが多く建ち並ぶアートの街でもある。「ギャラリー和音」はそんな中でも、昭和初期に建てられたという、レトロな雰囲気で異彩を放つビルの二階にあった。一階は舶来物を扱う昔ながらの洋品店になっており、私たちはその片隅に見える「ギャラリー和音 事務所」と書かれた古ぼけた扉をノックした。すると、奥からいかにも画家くずれといった風貌の、中年のおじさんが出てきた。

「おお、ヒデやん、久しぶりやな」

 英明という父の名をあだ名で呼ぶのを見て、私はすぐ、この人が例の音二郎さんなのだと分かった。彼はぼさぼさの長髪を隠すようにベレー帽を被り、民族衣装のような柄のチュニックに破れたジーンズという無国籍ないでたちをしていた。口ひげの下にパイプを吹かしている姿がいかにも怪しい。私は真面目で堅物だと思っていた父に、こういう友達がいたというのが、ちょっと意外だった。

 音二郎さんは「まあ、立ち話もなんだから」と言って、五人入ればいっぱいになってしまいそうな狭い事務室に、私たちを招き入れた。部屋の中はダンボール箱や積み上げられた書類の束などで雑然としていて、ただでさえ小さいスペースをさらに狭めている。

「どうも旅行に行くたびに荷物が増えちゃってね」

 音二郎さんはそんなことを言いながら、大雑把にそれらを壁際に寄せると、空いたスペースにパイプ椅子を置いて私たちを座らせた。

「また、どっか外国に行ってたんか?」

 父が訊くと、音二郎さんは「ああ、ちょっとインドの方に二週間ばかり」と言って、フーッと天井に紫煙を吹き上げた。

「でも、このギャラリーを継いでからは、なかなか昔みたいに長い旅はできへんなあ」

「お前は学生の頃から、大学にも行かずにふらふらと旅行ばっかりしてたもんなあ」

 そういえば、いかにも事務所然とした味気のない白壁やスチールの棚の上には、アフリカかどこかのものだろうか、不釣り合いにエスニックなお面や置き物が飾られている。私がそれらのものをぼんやりと眺めていると、それに気付いた音二郎さんが、「お嬢ちゃんも、アフリカに興味あるんか?」と声をかけてきた。

「はあ……。でも、私はアフリカどころか、海外旅行すらあんまり行ったことがなくて……」

「そうか、それはもったいないなあ。いいぞ、旅は! 若いうちは、いろんなところに行って広い世界を見にゃあ!」

 そう言うと、音二郎さんは昔を懐かしむような遠い目で、自分が経験した旅の話を始めた。昔は直行便があまりなくて、飛行機を乗り継いでいろんな国に渡ったことや、エジプトの砂漠で迷子になったこと、ギリシャで出会った世にも美しい女性についてなど……。音二郎さんの話はいつ終わるとも知れないほど広がっていくので、さすがにこれでは夜になってしまうと思ったのか、父は途中で「あの、言ってたギャラリー貸してほしいってことなんやけど……」と、遠慮がちに個展の話を切り出した。

「ああ、そう、そうやったな。すまんすまん。つい話し込んじゃって」

 音二郎さんはそう言ってガハハと笑うと、「で、どの子が個展をしたいんやって?」と私達の顔を交互に見遣った。

「あ、私なんですけど。倉田みゆうといいます、よろしくお願いします」

 大切なオーナーを前に、緊張気味のみゆうをよそに、音二郎さんはぐいっと彼女の手をとって握手をすると、「みゆうちゃんか、よろしく」と、いきなり「ちゃん」付けで彼女を呼んで、私たちを驚かせた。

「しかし、ほんま感心やなあ。若いのに自分でお金出して、人に作品観てもらおうなんて。今の若い子は無気力で忍耐がないなんて言うけど、こうやってチャレンジ精神旺盛な子がいるってことは、ええこっちゃ」

「あの、でも私、あんまりお金がなくて……、その、こちらはおいくらぐらいで借りられるんでしょうか……」

 みゆうがおそるおそる聞くと、音二郎さんは彼女の心配を吹き飛ばすように、「あー、いいのいいの」と言って、ぶんぶんと首を大きく横に振った。

「お金のことなんて、ほんまに気にせんでええよ。うちはご覧のとおり、もうけは二の次でやってるから。他のところでやったらばか高いやろ? そんなん、これから売り出そうっちゅう貧乏な画家の卵にとっては、殺生な話やわなあ。だからな、俺はそんな金がなくても可能性を持ったフレッシュな若者のために、安くて個展ができる場を提供してあげたいわけよ。だって新しい才能がうちを足がかりにビッグになってくれたら、こんな嬉しいことはないやんか。俺なんかそれが好きやから、ギャラリーやってるようなもんやもんなあ」

 音二郎さんは人懐っこい笑顔を浮かべて早口に話すと、また一息、フーッとパイプの煙を天井に吐き出した。

 音二郎さんは、てつじさんとはまた違ったタイプの親しみやすさを持った人だった。てつじさんのそれが、ある程度の距離感を保ちながらも、相手をリラックスさせるよう巧妙に計算された都会的なものであるのなら、音二郎さんのそれは、会ったその時から相手との距離をグイグイ縮めてしまう、押しの強い下町的なものだ。しかし、たとえ少々なれなれしくされても、死語を連発されても、そのちょっと抜けたキャラクターゆえに、なぜか憎めない。私たちも知らず知らずのうちに、その独特なペースに引き込まれてしまい、いつの間にか彼のことを、まるで古くからの知り合いのように、「おっちゃん」と気安く呼ぶようになっていた。

 さて、その「おっちゃん」は、ひとしきり自己紹介が終わると、「じゃあこんなところで長話もなんだから、とりあえず上に行ってギャラリーを見てみるか?」と、さっきの自分の長話などとうに忘れた様子で、そう提案した。

 私たちは音二郎さんの案内で、いったん事務所を出て、その脇にある細くて急な階段を二階へと上っていった。

「ねえ、大丈夫かな?」

 みゆうが私の耳元で囁いた。正直、私も不安を隠せずにいた。だって、こんな個性的な音二郎さんが経営するギャラリーだもの、内装もとんでもなく常識はずれだったらどうしよう。頭の中で、アフリカのお面やアジアの仏像が並ぶ、エキセントリックな空間の想像が膨らんだ。

 しかし上に着いてみると、私たちのそんな心配は、いい方に裏切られた。

「ちょっと狭いけど、そこは我慢してや」

 そう言って音二郎さんが開け放った扉の向こうに広がっていたのは、イノセントな世界に迷い込んでしまったような、白い、真っ白な空間だった。広さは十平方メートルぐらいでそれほど大きくはないが、天井が高いために空間には伸びやかさがある。天井にほど近い、高い位置にある窓からは、柔らかい陽光が差し込んでいて、無機質な白い壁に、暖かな明るさを投げかけていた。そして、一歩踏み出せば、足音さえも耳に響いてくるような奥行きのある静寂。ここには、飾られた作品を特別なものに見せてくれる、空間と音響の魔力が存在していた。

「わー、すごい。めちゃくちゃ、いい感じやん」

 みゆうは一目でここが気に入ったようで、トントントンと駆け足で中央に歩み出てゆくと、全てを視界に収めようとするかのように、ぐるりと部屋の中を見渡した。それはあたかも何もない壁に、自分の作品が飾られたところを、頭の中でシミュレーションしているかのようだった。

「今、活躍してる作家でも、若い頃、よくここで個展してたりしててんで」

 みゆうは音二郎さんの言葉に熱心に頷くと、頭の中であとからあとから溢れ出してくるアイディアを、堰を切ったように話し始めた。やっぱりこれだけ空間を使ってやるんだから、今までよりもっと大きな作品をいっぱい描かなきゃねとか、あの窓からの光を使って何かできないかなとか、目を輝かせて話す彼女は、水を得た魚のように生き生きとしていた。

 しかし、私とヤイちゃんはそんな彼女のことを、離れた場所からどこか白けた気分で見つめていた。親友として、夢に一歩踏み出した彼女を応援すべきなのは分かっているのだけれど、なぜか素直に喜ぶ気になれない。このまま彼女が私たちを置いて、一人で遠くに行ってしまう気がして、寂しい気持ちが波のように押し寄せてくるのだ。

「いいな。みゆうやチイちゃんには、やりたいことがあって」

 ヤイちゃんが隣でポツリと呟いた。いつも人のことをボロクソ言っている彼女にしては、珍しく弱気な発言だった。

「どうしたん? 急に」

「うん……、何か、てつじさんと付き合うまではそんなこと考えたこともなかったんやけどさ。あの人もみゆうみたいに絵が好きで、暇があったらパソコンいじって何か描いてるような人やから、時々ポツンと置いてきぼりにされたような気分になるんだよね。ああ、この人は人生の半分を、絵を描くことに捧げちゃってる人なんや。この人がいなくなったら、私には何もなくなっちゃうけど、私がいなくなっても、この人は私の半分しか傷付かないんやろうなって思ったら、何だか悔しくって」

「まだ付き合ったばっかりやのに、何もう別れた時のこと考えてんの?」

 私は笑った。しかし、ヤイちゃんは相変わらず浮かない顔のままだ。

「ほら、前にさ、みゆうが生まれ持って与えられる才能の話をしてたことがあるやん? その時さ、じゃあ私には何があるかなーって考えてみたら、何もなかったんよね。私って昔から、勉強でも運動でもそれなりにはこなせたんやけど、これって熱中できるものが一つもなくて。何がしたいのか、したいことがあるのかさえ分からないまま、ここまで来ちゃったの。だから、みゆうみたいに自分にはこれしかないっていうものを、はっきり持っている人って、正直羨ましいと思う」

 ヤイちゃんには、その恵まれた美貌があるやん、その顔で誘ったら、億万長者だってイケメンモデルだって、どんな男だってついてくるよ、と私は心の中で思ったが、口には出さなかった。

 ヤイちゃんは「何がしたいのか分からない」と言ったけれど、それは彼女が何も持っていないからじゃなくて、いろいろなものを持ちすぎているから、選べないだけなのだと私は思う。神様は変に分け隔てがないから、よほどの天才を除いて、お前はこれをやるべきだなんて、偏った才能の与え方はしない。なまじっかどれもそつなくこなせるような、平等な能力の分配のされ方をしているから、私たちは何をしていいのか分からなくて迷ってしまうのだ。どうせなら、他に何もできなくてもいいから、何か一つ飛び抜けた才能を与えてくれたらいいのに。私は思ってもしようがないことを分かっていながら、妙に律儀な神様の采配を恨めしく思った。

「おっちゃん、決めた。私、ここで個展するよ」

 向こうでは、ついに理想の会場を見つけて、意気込むみゆうの声が聞こえてくる。音二郎さんは親指と人差し指をくっつけて「OK」というサインを作ると、彼女にニッと微笑みかけた。

 私はこの時、もし人間をグループ分けする神のチョークがあったのなら、みゆうがいる場所と私とヤイちゃんがいる場所に、くっきりと白い線が描かれたような気がした。目指すべきゴールに向かって、一歩踏み出したみゆうと、未だ袋小路で立ち往生しているヤイちゃんと私。その隔たりは、思っているよりも、きっと大きい。

 みゆうはそれに気づいているのかいないのか、向こうから「おーい、ごめんね、退屈させて」と、私たちににこやかに手を振ってきた。窓から差し込む光に照らされた彼女の顔は、いつもより数倍輝いているように見えた。

 光と影――、ふとそんな言葉が胸中に去来して、私は眩しそうに目を細めながら、窓辺に佇む彼女に、控えめに手を振り返した。


 ギャラリーからの帰り、私はヤイちゃんやみゆうと別れた後、父に誘われて二人で本町にある居酒屋に飲みに行った。入ったのは赤提灯のかかった、カウンターだけのこぢんまりとした店で、扉を開けると同時に、恰幅のいい主人の、「いらっしゃい!」という威勢のいい掛け声が飛んできた。まだ早い時間帯だったせいか、店内は他に客はなく、私たちはカウンターの一番奥の席に座ると、父は焼酎を頼み、私はビールとおつまみを何皿か注文した。

「お疲れさん」

 私たちは会社帰りの上司と部下みたいに、そう言って照れ混じりの乾杯をした。

「ああ、うまい」

 父は待ちわびたように、グビグビッと豪快に焼酎を喉にかき込んだ。すると、浅黒い皮膚に深い皺が刻まれたその顔は、みるみるうちに、熟れた桃のように赤味を帯びていった。

 いつの間にか、月に一度、あるいは二ヶ月に一度、父とこうして飲みに行くのが、私の習慣の一つになった。兄がいた頃は、男同士二人でよく飲みに出かけていたのだが、兄が東京に出てしまった今、母があまりお酒を飲めないうちでは、父の相手はもっぱら私の役目になっている。

 父は酔うと、少し饒舌になる。家ではむすっとして真面目なことしか言わないくせに、お酒が入ると気が緩んで、しょうもない親父ギャグを言ったり、スケベな話をしたりもする。そういえば父の初恋の話や、結婚前に付き合っていた女性の話を聞いたのも、どこかの居酒屋のカウンターだった。私は二十歳を過ぎてから、父という人を本当の意味で知ったような気がする。

「ああ、やっぱりこうやってチハルと飲む酒はいいなあ。お母さんは酒が飲めないから、家で一人で飲んでても、いまいち盛り上がらへんねんなあ。別にそんなに遠いわけでもないんやから、チハルも下宿なんかやめて実家に戻ってきたらええのに」

「うん、そうやね……」 

 私は曖昧に返事をした。実は私の実家は、同じ大阪府内で電車で一時間もあれば行き来できるところにあり、地方から出てきているみゆうやヤイちゃんとは違って、どちらかというと、積極的に親元を離れる必要はない。でも、それでも私が家を出ることを選んだのは、家庭という狭小なコミュニティから生じる、息の詰まりそうな閉塞感から逃げ出したかったからだった。些細な諍いから募る相手への不満。これが社会という開かれた環境ならば、結局最後は他人ということで割り切れるのだろうけれど、家庭という閉鎖的な環境では、それは出口を見出せずに、家族の間を巡りめぐって、やがてはお互いのことが許せなくなるまで関係が煮詰まってしまう。私はそんな負の連鎖から、一抜けたをしたかったのだ。今、父とこうして笑ってお酒を酌み交わせるのも、やっぱり適度な距離があってこそのことだと思う。

「お母さんも寂しがってるで。チハルはこのまま結婚も就職もしないつもりなんやろうかって、心配してる」

「うん……。でも帰ったら帰ったで、けんかばっかりしてしまうからなあ」

 私は溜息をつきながら、もうだいぶ髪に白いものが混ざり始め、目尻や口元にも皺が目立つようになった、老けた母の顔を思い浮かべる。私とは水と油のように、百八十度違った価値観を持つ母。もしかしたら私が今のように結婚や就職に憧れを抱かなくなったのは、この母の影響かもしれない。 

 母はちょうど今の私と同じ歳の、二十七歳で父と結婚した。結婚前に好きな人もあったようだがうまくいかず、祖父にすすめられるまま父とはお見合いで一緒になり、結婚と同時に仕事も辞めて、専業主婦になった。「そういう時代だったのよ」と母は言う。

 しかし母は、自分で決断したこの選択を、心のどこかで後悔しているようなところがあった。

「私は家事と育児で自分を犠牲にしている」

 母は私が幼い頃、父と喧嘩をすると、よくこんな言葉を洩らしていた。その言葉がふすまの向こうから聞こえてくるたび、私は自分の存在が母の足かせになっているのだと、意味もなく罪悪感を抱いていたのを憶えている。それが母の自己弁護に過ぎないと気付き始めたのは、一体いつごろのことだっただろうか。

 しかし母はそのくせ、「犠牲」にした「自分」を取り戻すために、何かを始めることはしなかった。代わりに彼女がしたことといえば、夫や子供のために自分を「犠牲」にすることが、「正しい」ことなのだと、自己を正当化することだった。そして母はその見返りを、父や兄や私に求めた。

 家庭を愛し、妻を愛し、誠実な夫であるということ。親を敬い、勉強を頑張り、従順な子供であるということ。母はそんな絵に描いたような家族に恵まれた、幸せな主婦でなくてはならなかった。何よりも家族全員がいつも母を気にかけ、愛情あふれる感謝の言葉をかけることを彼女は求めていた。

 しかし、いくらその希望に応えるように努力をしても、母は決して満足してはいないようだった。

「私はこんなにあんたたちに尽くしているのに、あんたたちはその半分も愛情を返してくれない」

 母は私や兄が外で遊んできて家を空けることが多くなると、決まってそんな風に文句を言った。しかし本当のところ母は、私たちに何をして欲しいのか、自分でも分かっていなかったのではないかと思う。ひびの入ったコップに水を入れても、決して一杯になることがないように、まず彼女は自分の足元に目を向けて、その亀裂を修復するところから始めるべきだったんじゃないだろうか。

「そんなに不満なら、離婚して新しく人生をやり直せばいいじゃない?」

 私は一度、母に本気でそう言ったことがある。もちろん父と母が別れることを望んでいたわけではないが、母が本当に自分の望む人生を手に入れるには、もう家庭の束縛から解放してあげるしか方法がないのではないかと、その時は思ったのだ。だが彼女はそれを聞くと、不思議そうに首を傾げて、こう言い返してきた。

「何を言ってるの、そんなことをしたら、あんたたちが困るんじゃないの――?」 

 その時、私は悟ったのだ。ああ、この人は本気で現状を変える気など、さらさらないのだ。今のぬくぬくとした状態を捨てる気などないくせに、子育てや家事といった大義名分を盾に、自分は被害者ぶって愚痴をこぼし続けるのだ、おそらく一生――。

 今も母は私を見ると、「あんたは好き勝手できていいわねぇ。私の時代だったらとても考えられないことよ」と、皮肉っぽく洩らす。私はそのたびに、言葉の裏に透けて見える彼女の弱さとずるさに、眉をひそめてしまう。

「私はね、お母さんみたいになりたくないの。だってそうやろ? あの人を見てたら、いつも何かしら不満ばっかりで、全然幸せそうじゃないんやもん。別に将来に対する保証書はいらないから、私は自分のやりたいことを、精一杯やったって言える人生がいいの。十年後、二十年後に、後悔を他人に押しつける人生なんてまっぴら」

 私はほわんとした酔いの勢いまかせて、父に不満をぶちまけた。父は残り少なくなった焼酎をちびちび舐めながら、そんな私の話をつくでもなく否むでもなく、曖昧な微笑を浮かべて聞いている。この顔は父の十八番だ。気の強い妻と娘に挟まれて、何か揉めごとに巻き込まれそうになった時、父は決まってこういう顔をする。愛嬌を振りまきながら、嵐が過ぎ行くのを素知らぬ顔で待っていれば、自分はとばっちりを食わずに済むとでも思っているのだろう。私は父のそういう優柔不断な態度が、無性にむかつく時がある。

「で、そのチハルのやりたいことっていうのはどうなんや? 漫画とやらは順調に進んでるんか?」

 すると、父がいきなり話の腰を折るようにそんなことを訊いてきたので、私は一瞬たじろいでしまった。

「うん、まあ……ね」

 私は言葉を濁す。父の一言で、形勢は一気に逆転してしまった。軽快に回っていた私の舌は急に勢いを失い、まるで足かせをはめられたように、一言一言が重くなった。今度は私が愛嬌を振りまきながら、嵐が過ぎゆくのを黙って待つ番だ。

「でも、漫画ってのはあれやろ、売れたらすごい儲かるけど、そうなれる人間っていうのは、ごく一握りなんやろ」

「うん、まあ……」

 私はまた曖昧に返事をする。父の矢継ぎ早な質問を、愛想と沈黙で拡散させようとでもするかのように。もちろん、何歳までにデビューしたいとか、どんな漫画を描きたいとか、将来のおぼろげなビジョンはないわけではないけれど、今私がそれを話せば、ミュージシャンを目指すプー太郎が言い訳をするがごとく、言葉にすればするほど嘘っぽく聞こえるのは目に見えている。

 私は苦し紛れに「すいません」と店主を呼び、追加でビールの中瓶を一本注文した。ついでにつまみの追加もいらないか、父に訊いてみる。別に親孝行な娘を演じたかったわけではなく、その隙に話が別の方向に反れることを、密かに狙っていたのだ。するとその作戦が功を奏したのか、ビールが来て二度目の乾杯をした頃には、父はそれっきり漫画の話題は口にしなくなっていた。

「昔な……」

 グラスのビールが半分ほどに減った頃、父はそんな言葉で、唐突に昔話を始めた。それがあまりにも前の話題と繋がりがなかったので、私は思わず「えっ?」と訊き返してしまった。

「昔、俺が子供の頃、うちの親父が大事にしてた箱があってな。三十センチ四方ぐらいの、黒い塗りの小さな箱なんやけど、決して誰も中身が見られんように、いつも蝶番に鍵がかかってたんや。『中身は何や』って訊いても、『子供は知らんでいい』の一点張りで、絶対に教えてくれん。それで気になって気になってしょうがなくてなあ」

「……へえ」

 私はとりあえず小さく相槌を打った。正直、父がなぜ今、何の前ぶれもなくこんな昔の話を持ち出すのか、わけが分からなかった。

「こっちは好奇心旺盛な子供やろ、見るなと言われれば、よけいに見たくなる年頃やんか。それである日、こっそり中身を見てやろうと思って、親父の留守中に部屋に忍び込んだんや。そしたら机の引き出しに、その箱のものらしき鍵を見つけた」

「で、中身は見れたの?」

 私が訊くと、父は笑ってかぶりを振った。

「いや、それが今から開けようっていうまさにその時に、すごいタイミングで親父が帰ってきてなあ。部屋に入ってきた親父は、俺を見て激怒したよ、『どうしてこんな泥棒みたいなことをするんや』って、げんこつで頭殴られて、結局見れずじまいやったんや。それ以来、親父が怖くて箱の中身を見ようとするのはやめたんやけど、子供心に思ったよ、親父がこんなに怒るのは、きっと中にすごいものが入っているからに違いない。高価な宝石とか、そうでなかったら代々伝わる家宝とか。長い年月の間にどんどん妄想が膨らんでいって、高校生になる頃には、あの中には家の隠し財産が入ってるんだって、そう思い込んで疑わなかったな」

「へえ、あのおじいちゃんがねえ」

 言いながら私は、子供の頃にしか会ったことのない、祖父の姿を思い浮かべた。父そっくりの、バカ正直で堅物のおじいちゃん。申し訳ないが、隠し財産を持つような度量の大きいイメージはない。

「それで、結局その箱の中身っていうのは分かったの?」

「ああ。まあ、大人になる頃には、俺もその箱のことはすっかり忘れてたんやけど、三十五で親父を亡くした時に、荷物を整理してたら、たまたまあの箱が出てきてな。そういえば何が入ってたんやろうって気になって、もう怒る人間もいないし、思い切って開けてみたんや」

「で、何が入ってたの?」

 私が訊くと、父は遠い昔のことを懐かしむような、自己完結的な笑いを一瞬浮かべた。

「別に何てことない、ただの短編小説が三編、入ってただけやったわ。親父が若い頃に書いたもんで、恋愛小説なんやけど、これが素人目にも分かるほど、ひどい代物でなあ。でも一生懸命書いたもんやから捨てるわけにもいかんし、かといって子供たちに見つかって物笑いの種にされるのも親父のプライドが許さへん、だからあんな風に鍵をかけて、誰にも見られないようにしとったんやろうな」

「へえ……」

 私はあの真面目を絵に描いたようなおじいちゃんが、真剣に机に向かって、愛だの恋だのについて、つらつらと書き綴っている姿が想像できなかった。きっとできた作品は、読んでる方が赤面してしまうような、くさいセリフのオンパレードなのだろう。私に芸術的才能がないのは、もしかしたら遺伝なのかもしれない。

「なあ、チハル」

「ん?」

 父は手先で割り箸の袋をいじりながら、ろれつの回らない舌で、ぼそぼそと独り言のように話を続けた。

「何か俺はな、大人になるっていうことと、この箱を開けることは、どっか似てるような気がするんや。長い間、温めれば温めるほど、人間の理想なんて膨らんでいくもんやけど、蓋を開けてみれば、現実なんてしょうもないもんや。花だってそうやろ。遠くで見てたら、ああ、なんてきれいなんやって思うけど、近づいてみたら虫食いの穴があったり、ところどころ枯れてたり、汚い部分も見えてくる。きっとそうやって一つ一つの理想を打ち砕かれていって、人は自分にできることとできないことを理解していくもんなんや。お前は若いからそんなのつまらんって思うかもしれんけど、そうやって現実を受け入れるのも、それはそれで、悪いことばっかりやない気がするけどなあ……」

 私は父が不器用ながらも諭そうとしていることが何なのか、少しは分かるような気がした。だけど、それを認めると、自分の今までしてきたことが、ガラガラと音を立てて崩れていく気がしたので、あえて分からないふりをして黙っていた。

 気がつくと、先ほどまでガラガラだったカウンターには、少しずつ人が埋まり始め、店内はおでんを炊くダシの匂いと、魚を焼く香ばしい煙がいっぱいに立ちこめていた。私は有線で流れる坂本冬美の艶っぽい演歌を聞きながら、空になった父のグラスに、二杯目のお酌をした。

「で、どうなんや、生活の方は。金は足りてるんか?」

「うーん、何とかやってるけど、やっぱりちょっと苦しいかな」

 私は下心を見透かされないように、なるべく控えめな、かわいい娘を演出した口調で答えた。すると父は「お母さんには内緒だぞ」と言いながら、のろのろとした動作でポケットから財布を取り出すと、中から五万円を抜いて私に渡してくれた。口では現実を受け入れろなんて言いながら、娘には甘い。言ってることとやってることが一致しないのが、父のいいところでもあり、悪いところでもある。

「ほんとにいいの、ありがとう」

 私はさも思いがけないおこづかいに心から驚いているという風に、大切そうにそれを財布にしまうと、大して減っているわけでもないのに、しらじらしく父のグラスにビールを継ぎ足した。父はそれでもにこにこしながら、溢れ出しそうなビールの泡に、愛おしそうに口をつけた。

 これだから父と飲みに行くのはやめられないのだ。



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