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第二章

 しかし、私たちとてつじさんは、それから一ヶ月ほど経った十月のある夕方、思いがけないところで再会を果たすことになった。

 その日、バイトもなく暇だった私とヤイちゃんは、会社帰りのサラリーマンや若者たちが行き交う、梅田のスクランブル交差点の大きな陸橋で、みゆうの露店の店番を手伝っていた。

 陸橋の上は、思い思いのパフォーマンスを行う若者たちで溢れており、さながら売れないアーティストたちの展示場のようだった。目の前では、なんちゃってゆずみたいな二人組がアコースティックギターを抱えて自作の曲を歌い、その少し向こうでは、風船アーティストがミッキーやプードルを作って、カップルや親子連れを沸かせている。そのまた向こうでは、女の子二人組が、ビーズを使った手作りアクセサリーをダンボールの上に広げ、そのさらに奥では、全身を緑色にペイントし、人形のように静止したパフォーマーの周りに、たくさんの人が群がっていた。

 みゆうはその一画で、路上に敷物を敷き、アクリル絵の具で描いた絵に詩が添えられた、手作りのポストカードやポスターを並べていた。

 彼女の作品は、彼女の分身として描かれる黄色いうさぎが、日頃考えていることを詩のスタイルで独白していくという、ユニークな連作もので、中でも私は「他人から押しつけられた/自分らしさに縛られて/わたしは自分を/見失いたくはない」という詩が特に気に入っている。確かにそこに綴られた言葉は、彼女の性格を現すように、ストレートすぎるほどストレートで、今さら何をと思うほど、分かりきったことばかりかもしれない。でも、みゆうの作品には、どこか人を惹きつける不思議な魅力があると、私は思う。出口が見つからないような、心の迷路に迷い込んだ時、その透明感のあるイラストと率直な言葉に出会うと、今まで悩んでいたことが何でもないことのように思えてきて、前向きな気分になれる。だけど残念なことに、なんちゃってアーティストなんて吐いて捨てるほどいるこの世の中には、彼女の才能に気付いてくれる人間が、あまりにも少ないのだ。だから彼女は未だに、この梅田のせせこましい路上から、羽ばたき出せずにくすぶっている。

 歩道橋を行き交う人々は、みな家路を急いでいるのか、足元の作品には見向きもせず、足早に店の前を通りすぎていっていた。私とヤイちゃんはそんな人の流れを、溜息混じりに眺めていた。今日も何の収穫もないかもしれないな……。そう思って諦めかけた時、店の前を通り過ぎていったチノパン姿の人影が、少し行ったところで引き返してきて、私たちの前でピタリと止まったので、私は驚いて顔を上げた。見ると、ストリート系のファッションに身を包んだ若い男の人が、しゃがんで私たちの顔を下から覗き込んでいる。彼は何か思い出せそうで思い出せないような、もどかしい表情で首を捻っていた。

「あの、もしかして、この間、駅前の商店街でお会いした……」

 彼がおそるおそる言うのと同時に、ちょうど私にも一ヶ月前の記憶が甦ってきた。

「あっ、この間の漫画喫茶の!」

 思わず大きな声で叫ぶと、男の人は「そうそう!」と頷き、見覚えのあるくしゃっとした笑顔をこちらに向けた。彼は一ヶ月前に漫画喫茶で出会った、あのてつじさんだったのだ。彼はその日も、一度会っただけの相手とは思えないほどフレンドリーに、私たちに話しかけてくれた。

「久しぶりですね、この間はどうも。いやあ、でも偶然だなあ、こんなところでまた会えるなんて」

「ほんとですよね。あ、あの時はハンカチありがとうございました。ところで今日はお仕事ですか?」

「ええ、ちょっと打ち合わせで。でも、もう終わったんです」

 てつじさんはそう言うと、手に持ったキャリーケースをポンポンと叩いた。すると、一人事情を知らないみゆうが、不思議そうな顔をして「知り合い?」と尋ねてきた。

「あ、この人さ、前に話してた兄弟のお兄さんで、鳥井てつじさん。それでこっちが友人の倉田みゆうです」

「あ、どうも鳥井です、よろしく」

 てつじさんは、この間、私たちにしたのと同じように、彼女にも礼儀正しく頭を下げると、足元に並んだポストカードを手に取って、「これ、全部倉田さんが描いたんですか?」と尋ねてきた。

「ええ、そうですけど」

「へえ、すごいな。今流行りの路上アーティストってやつだ」

「別に流行ってるからやってるんじゃありませんよ。好きだからやってるんです」

 みゆうはムッとして言い返した。どうやら彼女はそのへんのミーハーと一緒にされたと思って、気を悪くてしてしまったようだ。こういう時、本当に彼女はその場の状況を見て合わせる柔軟性がないから困る。おかげで、その場の空気が急に気まずくなってしまった。てつじさんはすっかり萎縮してしまって、次の言葉を考えあぐねるかのように、目を宙に泳がせている。

「そ、そういえば、てつじさんってポスターとかを作ってるデザイナーさんらしいよ」

 私は慌てて横からフォローを入れた。すると、「デザイン」という言葉に反応したのか、彼女は少し態度を和らげて、「そうなの?」と興味を示すように身を乗り出してきた。

「仕事だけじゃなくって、趣味でアートの真似事なんかもしてますよ。だから倉田さんの作品に興味を持ったんだけど、ちょっと言い方が悪くて、誤解されちゃったみたいですね」

 てつじさんはきまり悪そうに頭を掻くと、その場の空気を変えるように、パッと表情を明るくしてこんな提案をした。

「あ、そうだ。もしよかったら、これからうちに見に来ませんか? この間のお礼もしたいと思っていたし。それでその後に、みんなでお好み焼きパーティーでもしましょうよ」

「えー、いいんですか?」

「どうぞ、どうぞ。どうせ今日はもう仕事もないし。いつも勇気と二人で寂しい食卓だから、女の子が三人も入ってくれたら、華やかでいいですよ」

 てつじさんの思いもかけない誘いに、私たちはにわかに沸きたった。だが、その時、向かいで彼がヤイちゃんに熱っぽい視線を送っているのを、私は見逃さなかった。そこには私やみゆうを見る時とは違う種類の優しさと、微かな色気が含まれていて、私は思わずにやりとしてしまった。家に誘ったのは、てっきりみゆうに気を遣ったのだと思っていたけれど、目的はどうやらそれだけではなさそうだ。

 しかし、肝心のヤイちゃんはといえば、「わーい、私、お好み焼き大好きなんだよねー」と無邪気にはしゃぐばかりで、そのことに全く気付いている様子はなかった。


 てつじさんの自宅は、十三駅から十分ほど歩いたところにある、外観が打ちっぱなしのこじゃれたマンションの十一階にあった。エントランスをくぐると、吹き抜けになった開放的なロビーが広がり、外壁と同じ打ちっぱなしの壁に施された間接照明が、マンションというよりはどこかのバーのような大人びた雰囲気を演出している。てつじさんはエレベーターで上に昇ると、シックな黒色のドアが連なる見渡しのいい廊下を進み、その一番奥にある扉を開けた。

「散らかってるけど、どうぞ」

 てつじさんはそう言ったが、私はこれほどまでに片付いていて、しかも統一感のある部屋を見たのは、これが初めてだった。玄関を入ってすぐに広がる、十二畳のLDKは、中央の大きなソファセットやビーンズ型のダイニングテーブル、仕事用のパソコンラックやそのほか小さなアイテム至るまで、すべてモノトーンで統一されていて、まるで雑誌かパンフレットから抜け出してきたようだ。その先に伸びる廊下の両脇には、勇気とてつじさん、それぞれの部屋があり、このマンションは現在、兄弟だけの二人暮らしだということだった。

「勇気ももうすぐ帰って来ると思うから、ちょっと待ってて下さいね」

 てつじさんはソファで待つ私たちのために、コーヒーを入れてきてくれた。私はそれを飲みながら、壁に飾られた数枚の不思議なアート作品に目を奪われていた。おそらくこれがてつじさんの言っていた、趣味でやっているというアートの真似事なのだろう。パソコンで描かれたそれらの作品は、絵というよりは、万華鏡を覗いたような極彩色の幾何学模様で、よく見ると、一つひとつの模様は数字やアルファベットなど、無数の記号が集まってできている。タイトルの付けられていない、それらのランダムな記号の集合体は、見方によっては花のようにも、人の顔のようにも見えた。

「何だか不思議な絵ですね。これって全部、てつじさんが描いたんですか?」

 隣で私と同じように、壁のアート作品に見入っていたみゆうが尋ねた。すると、てつじさんは「ええ、まあ」と、照れくさそうに頷いた。

「仕事でパソコンを使ってるから、その延長って感じで、倉田さんみたいな手描きのものとはだいぶ質が違いますけど。こういうデジタルアートって興味あります?」

 頷きながらも私が、「あ、でも正直、何が描いてあるのかはよく分からないです」と言うと、てつじさんはハハハと笑って、「じつは描いた僕もよく分かってないんですよ」と頭を掻いた。

「でも、何も意味がないっていうのも、一つの意味じゃないかと思うんですけどね、僕は。つまり、観る人の価値観によって、百人いれば百通りの見方ができる、そういう絵があってもいいんじゃないかと思うんです。だって、例えば誰が見ても花と分かるものを描いたんなら、観た人は『ああ、きれいな花だ』で終わってしまうけれど、普段伝達手段としてしか使われていない記号をこんな風に絵のように配置したら、みんな何に見えるか考えて、いろいろ想像が膨らむでしょ? 紙の上じゃなくて、観た人の頭の中で、作品のイメージが完成するんです。それって、面白いことだと思いませんか?」

 するとてつじさんは、壁にかけられた作品の一つを指差して、私たちに「あれは何に見えます?」と尋ねてきた。それは、黄色やベージュ、茶色の記号が、一枚の紙の中で不規則に混ざり合った幾何学模様で、ヤイちゃんがそれを見て、「私、あれサファリパークにいる動物に見えるな。5がキリンでさ、横になった3がチータ」と言うと、みゆうは「えー、あれは秋になって落葉した公園のいちょうやろ」と反論し、私はその隣で「オーブンに入れる前の型抜きしたクッキーに似てる」と感想を洩らした。

「ほらね?」

 てつじさんは私たちの答えを聞いて、いたずらっぽく笑いかけた。

「たったこれだけの人数でも、もうこんな風に意見が分かれるでしょ? 要は会話と同じで、アートもコミュニケーションなんですよ。固定した価値観を一方的に与えられるんじゃなくて、人と作品が出会って、そこから生まれる偶発的な感情によって、初めて作品が完成するんです。まあ、こういう考え方は、僕のオリジナルじゃなくて、ずっと昔からいろんな人が言っていることなんですけどね――」

 てつじさんの話は、進むにしたがって専門的になってゆき、コンセプチュアルアートとか、パフォーマンスアートとか、耳慣れない言葉が頻出する頃になると、私とヤイちゃんはすっかりちんぷんかんぷんになっていた。

 だが、そんな中でみゆうだけは、てつじさんの説明に熱心に耳を傾けていた。彼女はどんどん熱が込もって観念的になっていく話題に一生懸命ついていき、彼から何かを吸収しようとするように、いろいろと難しい質問を投げかけていた。

 それは私が初めて見る彼女の一面だった。いつもみゆうは自分の意志をしっかり持っているけれど、その代わりに人の意見を素直に聞き入れない頑固なところもあって、こんな風に自分から人の意見を求めるなんて珍しいことだった。どうやら彼女はてつじさんと話しているうちに、その作品や考え方に強く影響されて、眠っていたアーティストの血がにわかに沸きたち始めたようだ。でも、それを横目に見ながら、私は今まで味わったことのないような焦燥感が湧き上がってくるのを感じていた。彼女がてつじさんと私の知らない話題で盛り上がるのを見るたび、私はみゆうの存在が急に遠くなったような気がして仕方がなかった。

 だが、ちょうどその時、ふいにガチャリと音がして、玄関の扉が開いた。勇気が帰ってきたのだった。彼はリビングの私たちに気付くと、「あれ?」と驚いた顔をして、無言で問いかけるようにてつじさんに視線を送った。

「お帰り、勇気。憶えてるか? この間、駅でお金を貸してくれたお姉さんたちだよ」

「憶えてるよ。でも、何でここにいるの?」

「梅田の陸橋で偶然会ったんだよ。それで、この間はちゃんとお礼もできなかったから、夕食に誘った。今日はみんなでお好み焼きパーティだ」 

「へえ、賑やかで嬉しいな」

 しかし、勇気の表情は言葉とは裏腹に、それほど嬉しそうではなかった。一ヶ月ぶりに再会したというのに、彼は何の感慨もあらわすことなく、ランドセルを床に乱暴に放り出すと、ふーっと深く溜息をついて、リビングのソファにもたれかかった。瞼を閉じて今にも眠り出しそうなその顔は、ひどく疲れているように見える。彼は今日も学校にも行かずに、あの漫画喫茶の片隅で黙々と時間を潰していたのだろうか。ふと、そんな思いが脳裏をよぎった。

 私はさっきてつじさんが言っていた、アートとコミュニケーションの話を思い出していた。てつじさんの作品が「コミュニケーションするアート」なら、勇気のはいわば「一切のコミュニケーションを排除したアート」だろう。彼の創作活動はたった一人でひっそりと行われ、誰の目にも触れることもなく自己完結してゆく。途方もない時間と労力をかけながら、何も「創り出さない」その果てしない作業の先には、いったい何があるのだろうか。ひょっとしたらそこには、虚無感と疲労感の砂漠ばかりが広がっているのかもしれない。そう思うと、少し切ない気持ちになった。

「じゃあ、俺はこの人たちに手伝ってもらって準備しとくから、お前は宿題とかあるんだったら、その間にさっさと済ませてこいよ」

「分かった」

 勇気はおもむろに腰を上げ、兄の顔をチラリと見やると、冷やかすように言った。

「すごいね、兄さん」

「何が?」

「両手に花じゃない」

「だろ? 両手じゃ持ちきれないよ」

 てつじさんは勇気の方を向いて、ニッと歯を見せて笑った。

 その軽快なやりとりを見ている限り、二人は仲の良い兄弟そのもののように思える。しかし二人は、お互いがお互いに言えない秘密を持っているのだ。学校に行っていないことを兄に内緒にしている弟と、それを知っているのに知らないふりをしている兄。そして、たった一度しか会ったことがないのに、双方の秘密を知ってしまった、第三者の私――。

 そういう色眼鏡で見ると、てつじさんが弟にかける優しい言葉や、勇気が兄に向かって投げかける冗談も、どこか空々しく響くような気がして仕方がなかった。ランドセルを引きずりながら部屋へ引っ込んでゆく勇気の背中が、どこか疲れて見えるのでさえ、嘘のプレッシャーに耐える苦痛のせいなのではないかと、勘ぐってしまいたくなるほどだった。


 それから私たちは早速、台所でお好み焼きの準備を始めた。役割分担は、自然にというか必然的に振り分けられていった。てつじさんがキャベツを刻み、私が生地を作り、みゆうが烏賊や海老などのトッピングを準備し、ヤイちゃんが食器を用意する。最初、「やっぱり包丁を使うことは女の子にやってもらわないとね」と言って、てつじさんは私たちに包丁を握らせていたのだが、そのあまりの危なっかしさに見ていられなくなり、「やっぱり、こっちは僕がやりますよ」と交代して、自分でキャベツを刻み始めたのだった。

 てつじさんの包丁さばきは料理人のように正確で、次々とまな板の上に積もってゆく千切りキャベツは、まるで機械で切ったかのように大きさが揃っていた。私たちがそれを見てほーっと感心していると、てつじさんは「いや、勇気と二人暮らしだと、やっぱりご飯作るのは俺の役割になりますから」と、照れくさそうに言った。

「なんかてつじさんって、勇気のお父さんみたいですよね」

 私は今まで二人を見て感じていたことを、思い切って口に出してみた。すると、てつじさんは「はは、そうかもね」と言って、はにかむように笑った。

「まあ、確かに歳が離れてるから、昔から僕があいつを守ってやらなきゃっていう意識は、普通の兄弟より強いかもしれませんね。実際、今は親父がいないから、僕が父親代わりでもあるし」

「え?」

 生地をかき混ぜていた私の手が、一瞬止まった。「どういうことですか?」と、おそるおそる訊く声が、緊張で震えた。

「実は、半年前に両親が事故で亡くなったんです。僕は実家が長野でしてね。勇気は両親とずっとそっちに住んでたんですけど、事故があってから、こっちに越してきたんです。だからあいつ、まだアクセントが大阪弁っぽくないでしょ?」

 最後に大阪弁の話題を出して茶化したのは、辛気くさくなってはならないという、てつじさんの配慮だろう。でも、だからといって「ハハハ、そうですね」と、笑う気にはなれなかった。

「すいません、何か余計なこと訊いてしまいました」

「いや、全然いいんですよ。でも両親が亡くなって、一番かわいそうなのは勇気なんです。まだ甘えたいさかりの年頃なのに、寄りかかれる人間を一度に二人も失ったんですから。その上、友達とも離れてこんな慣れない土地で暮らすことになるなんて、本当に不憫ですよ」

 私はあの生意気そのものに見えた勇気に、そんな辛い過去があったと知って驚いた。もしかしたら彼が学校に行っていないのも、そのことと関係があったりするのだろうか。

「勇気が学校に行っていないのも、やっぱり急に環境が変わったせいなんですか?」

「えっ?」

 てつじさんは一瞬、どうして知っているのかとでも言いたげな、当惑した表情で訊き返したが、私が「ほら、この間言ってたじゃないですか」と言うと、その時のことを思い出したように、「ああ、そうでしたね」と表情を和らげて頷いた。

「実は勇気が学校に行かなくなったのは、これが初めてじゃないんです。ここに越してきて、最初に入った学校でも、勇気は一週間も経たないうちに、登校をぐずるようになりましてね。その時は担任の先生にも来てもらって、一生懸命二人で説得したけど、やっぱり無理でした。そのことがかえって、あいつを頑なにさせちゃって。だけど、今度の学校では、毎日機嫌よく家を出て行くんで安心してたんです。ある日、担任の先生から『勇気君が学校に来ていない』って連絡があるまでは。その時は本当にびっくりしましたよ。だって、俺は毎日あいつがちゃんと学校に行ってるとばかり思い込んでたんですから。それで次の日、こっそりあいつの跡をつけてみたら、あの漫画喫茶に入っていって……。きっとあいつ、俺に相談したらまた先生とか呼ばれると思って、学校に行ってないこと秘密にしてると思うんですよ。だから俺、正直、どうしていいか分からなくて……」

 そう言うと、てつじさんは深い溜息をついた。その話を聞いて、私の脳裏には、ふと甦ってくる幼い頃の記憶があった。私もそんなに長い間ではないが、小学校の頃いじめにあって、学校に行くのを嫌がったことがある。その時、理由を尋ねられて、両親にいじめのことを相談すると、二人はすごい剣幕で怒り出し、学校やいじめた相手の家に怒鳴り込んでいきそうになったので、必死で止めたのを憶えている。

 それから私は、たとえ外でいじめにあっても、両親には相談しなくなった。今思うと、きっとあの時、私は両親に問題を解決して欲しかったのではなく、ただそっと話を聞いて欲しかっただけなのだと思う。自分の辛さを誰かに分かって欲しかっただけなのだと思う。その時の自分が、今の勇気の姿と重なった。

「でもね、絶対どこかに解決方法はあると思うんです。だから僕はそのために、できるだけのことをしてやるつもりですよ。両親がいないからって、あいつには絶対、寂しい思いをさせたりはしない。こっちでも友達をたくさん作って、楽しい学校生活を送らせてやらないと、あいつを僕に託して死んだ両親に、申し訳が立たないじゃないですか……」 

 てつじさんはそう語気を強めると、包丁を持つ手に力を込めた。ザクッ、ザクッ、と潔い音を立てて刻まれてゆくキャベツを見ながら、私の頭の中では、一ヶ月前「今日ここで僕に会ったこと、兄さんには言わないでほしいんだ」と囁いた、怯えた子犬のような勇気の顔が浮かんでは消えた。私はどうして彼がてつじさんに学校に行っていないことを言えないのか、その理由が少し分かった気がした。


 パーティーは、それから間もなく始まった。私たちはテーブルの中央に置かれたホットプレートで、めいめいに好きなトッピングを載せて、一枚ずつお好み焼きを焼いていった。すると、リビングはあっという間に、ジュウジュウと生地が焼ける香ばしい匂いと、食欲をそそる甘辛いソースの香りでいっぱいになった。お好み焼きのいいところは、特に料理の技術がなくても、たいていは上手く焼けるところだ。だが、私たちが次々とふっくらと形の整ったお好み焼きを完成させていく中で、勇気のお好み焼きだけは、プレートの上で生地がバラバラになって空中分解を起こしていた。

「うわ、何それ。きったなーい」

 相変わらず言葉をオブラートに包むということを知らないヤイちゃんは、見たままの感想を率直に述べて、勇気をムッとさせた。

「何だよ、見た目が悪くったって、どうせ味は同じだろ」

「どうせ味が同じなら、見た目がいい方がいいに決まってるやん。どう? 見て、私の」

 ヤイちゃんは自分の焼いたお好み焼きを、勇気にひけらかすようにしながら口に運んだ。すると隣にいたみゆうまでもが、

「生地を薄く広げて、大きいのを焼こうとするから、うまく引っくり返されへんねんて。もっと中央に寄せるようにして、厚めに生地をひいたらきっとうまく焼けるはずやで」

と、失敗の理由を冷静に分析したりしたので、勇気はますます不機嫌になった。

「何だよ、みんなして僕のこと馬鹿にして!」

 彼はとうとうかんしゃくを起こすと、みんなの皿にバラバラになったお好み焼きを無理やり載せて回って、大ひんしゅくを買った。

「ちょっとー、人に押し付けんと、自分で責任とって食べなさいよ!」

「い・や・だね。だいたい、下準備ほとんど兄さんにやらせてたくせに、えらそうに言うなよ」

 しかし、こんなにつんけんしたやりとりを交わしていても、話しているうちに少しずつお互いの警戒心が薄れてきて、気がつけばちょっと打ち解けていたりするから不思議だ。勇気は出会った時よりも、数段解きほぐれた表情を見せてくれるようになっていて、私は彼との距離が徐々に近づきつつあることを感じていた。

 みゆうはさっきの続きで、てつじさんとアートの話で盛り上がっていた。特に彼女は、てつじさんが「昔、個展をしたことがある」と言うと、そのことに強く興味を示していて、場所の借り方やらお金はいくらぐらいかかるのかなど、具体的なことをいろいろと質問していた。

「いいなあ、個展ができるなんて。いろんな人に作品を見てもらえて、きっと世界が広がるんでしょうね」

 みゆうが羨ましそうに呟くと、てつじさんは「倉田さんもやってみればいいのに」と、事もなげに言った。

「ええっ、無理ですよ。私なんか開いても誰も来ないし。第一、ギャラリー借りられるような貯金もないですもん」

「でも、そんなに高くないギャラリーだってありますよ。倉田さんの作品って魅力あると思うし、観たい人だってたくさんいるんじゃないかなあ」

「そうですかねえ……」

 それでもまだ自信がなさそうなみゆうに、てつじさんは背中を押すように言った。

「肝心なのは自分のモチベーションですよ。作品を見てもらいたいって強い気持ちがあれば、あとは何とかなるもんですって。少なくとも、僕はいつもそう思ってますよ」

 するとてつじさんは、ふっと壁に目をやり、隅っこに貼られた一枚の写真を指差した。五年前の日付が刻まれたその写真には、まだ小さな勇気と、柔和な表情のお母さんとお父さん、そしててつじさんの家族四人が、コテージ風の丸木小屋をバックに揃ってフレームに収まっている。

「これはね、うちの両親が始めた、夢の結晶みたいなペンションなんです。絵を描くのが好きだった二人は、昔から自分たちと同じ趣味を持つ人のために、美しい自然に囲まれた環境で、のんびり風景画でも描けるような場所を作りたいって言ってましてね。十数年かけてやっとお金を貯めて、高原の空気のいい場所にペンションをオープンしたんです。その両親がいつも言っていたのが、がんばればいつか夢は叶うっていうことでした。僕が大阪に出てきて、それなりにデザイナーとしてやっていけているのも、この言葉のおかげだと思うんです。残念ながらその両親は、半年前に事故で亡くなってしまったんですけどね」

 するとその場にいたみんなが、しんみりと感慨深い溜息をついた。そこには、二つの感情が含まれていたと思う。大切なことを身をもって子供に教えた、てつじさんの両親への深い感嘆と、もう彼らはここにはいないのだという、運命へのやり切れない思い。しかしそんな中で、勇気だけが一人、冷めた顔で素知らぬふりをしているのが、不自然に思えて仕方がなかった。

「母親は湖が見える窓辺に座って、油絵を描くのが好きでしてね。勇気はその頃まだ小ちゃくて、隣で母親にちょっかいをかけては、よく怒られていたもんですよ。なあ、勇気?」

「兄さん、その話はもうやめようよ」

 てつじさんの隣で、勇気がぶっきらぼうに言った。

「でもその影響か、こいつも昔からすごく絵が好きでしてね。前の学校では、学級新聞の四コマコーナーに漫画を描いたりもしてたんですよ。確かそれ、どっかに置いてあったんじゃないかな?」

 てつじさんが立ち上がって、その学級新聞を探しに行こうとすると、ふいに勇気が、リビングに響き渡るような鋭い声で叫んだ。

「もうやめろって!」

 私たちを威圧するように睨みつけた彼の顔は、実の兄であるてつじさんさえ、一瞬たじろがせるほどだった。

「どうしたんだよ? いきなり」

「別に。ただあんなボロいペンションを、そんなによく言う兄さんが不思議だと思ってさ。馬鹿みたいだよ、父さんも母さんもいい歳して『夢は叶う』なんて言って、あんな狭い小屋を必死で守ろうとするなんて――」

 どこか挑発的に話す勇気の目は、一切の感情を排するかのように、ぞっとするほど冷めていて、さっき私たちと軽口を叩いていた彼とは、まるで別人のようだった。てつじさんは彼の口から飛び出す、耳を疑うような言葉にいたたまれなくなって、とうとう最後には「いいかげんにしろよ!」と、大声で怒鳴って彼を遮っていた。

「なあ、勇気。お前どうしちゃったんだよ。あのペンションはお前だって大好きな場所で、父さんと母さんのことだって、ずっと尊敬してたじゃないか。それをどうしてそんなに急に、ばかばかしいとか言うんだよ?」

 弱々しく訴えるてつじさんの口調は、もはや懇願しているようでさえあった。勇気はそんな彼を辛そうに見つめながら、低い声で呟いた。

「……兄さんは知らないんだ」

「知らないって何のことだよ?」

 だが、勇気は首をうなだれたまま、何も答えようとはしなかった。彼は「宿題が残っている」と言って席を立つと、とうとう黙りこくったまま自分の部屋へ引っ込んでしまった。

「なんか、ごめんね。変な雰囲気になっちゃって」

 てつじさんは、ヒヤヒヤしながら成りゆきを見守っていた私たちに、そう言って謝ると、空気を変えるように明るい口調で、「あっ、そうだ。勇気の学級新聞を見せるって言ってたんだよね」とポンと手を叩き、ラックに立てかけてあるファイルをごそごそと探し始めた。

 しばらくすると彼は、「あった、あったよ」と言いながらこっちに戻ってきて、私たちに日に焼けた一枚のわらばん紙を見せてくれた。

「三年一組 すくすく新聞」

 右上にタイトルの書かれたその学級新聞には、クラスのニュースや、給食の人気メニューのアンケート結果、教室で育てているウサギの観察日記などと一緒に、左下の方に小さく四コマ漫画が載せられていた。

「『サイバーロボ 風神』  鳥井ゆうき」

 それは紛れもなく、勇気が描いたオリジナルの四コマ漫画だった。中身は正義の味方のロボット「風神」が、困っている人を助けようとしてドジを踏んでしまうというギャグ漫画で、少しギャグが滑っている部分はあるにせよ、小学生にしては画力・内容ともに、上手いと言える出来栄えだった。

 何だ、ちゃんと自分の絵、描けるんじゃない――。

 私は漫画喫茶で、頑なに自分の絵を描くことを拒否していた彼のことを思い出し、不思議に思った。目の前の未熟な四コマ漫画は、彼が描く緻密な漫画の模写よりも何倍も魅力的なのに、あえてそれを隠そうとする彼の真意が解せなかった。


「勇気って変わった子やんね」

 帰り道、私たちの話題は、危うく兄弟喧嘩が勃発しかけた、さっきのパーティのことで持ちきりだった。中でも初対面だったみゆうは、人当たりがよくて話もうまいてつじさんと、パーティーの間中しかめっ面を下げていた無口な勇気とが兄弟だとはとても信じられないようで、何かというと二人を比べては、世の中似てない兄弟もいるもんよねーと、感心したように呟いていた。

「何がどう変わってるのかっていうのは、うまく説明できへんねんけど、変に大人びてるっていうか、全てのことに対してやけに冷めてる感じがするんよね」

「しかも、嘘もうまいしね」

 隣でヤイちゃんが付け加えた。

「嘘?」

「そう。初めて会った時のことなんやけど、本当は学校に行かずに漫画喫茶で時間潰してて、チイちゃんにお金を借りたくせに、てつじさんには学校帰りに参考書買うお金がないから借りたって嘘ついてさ。それが事情を知ってるうちらが聞いても、真実なんじゃないかと思うくらいすらすらと喋るから、本当にびっくりしちゃった」

「そうなんや。そんな子には見えへんかったけどな」

 みゆうが意外そうに言った。

「でもさ、そのことてつじさんも気付いてるみたいだよ。勇気には知らないふりをしてるだけで」

「え、そうなん?」

 今度はヤイちゃんも驚いてこっちを振り返った。

「うん。何か前の学校でも同じことがあって、その時は担任の先生とかも出てきて説得したけど逆効果やってんて。だから、今はてつじさんも慎重になってるみたい」

「ふーん、そんなことがあったんや」

 それを聞いたみゆうが、ポツリと呟いた。

「何か、普通の仲のいい兄弟みたいに見えたから、そんな秘密を抱えていたなんて意外。そう思うと、家族なんて他人が端から見たぐらいじゃ、本当のところは分からなかったりするんやろうね」

 その言葉を聞いて、私の脳裏には、もう一つ思い浮かぶ家族の姿があった。結婚三十年目の円満な家庭。しかしその実は、「愛している」という言葉を交わすのを聞いたことすらない、経済力と家事の交換条件でつながる共依存夫婦。見慣れた実家の風景だった。

 その時、ヤイちゃんが唐突に、ポケットから携帯電話を取り出して、私たちにこんなことを訊いてきた。

「ねー、ところでさ、私、さっきてつじさんから電話番号とメルアド訊かれたんやけど、みんなも訊かれた?」

「え、マジ?」

 私とみゆうはびっくりして身を乗り出した。今まで勇気一色だった話の流れは、その一言で一転した。

 ヤイちゃんはその反応にちょっとひるんで、「あれ? みんなは訊かれてない……の?」と、おそるおそる訊き返した。

「訊かれてない、訊かれてないよ!」

「ちょっとー、ヤイ子にだけ訊くってどういうこと? これって差別やと思わへん、チハル?」

 私たちが冗談半分で文句を言うと、ヤイちゃんは「ちょっと、ちょっと」ときまり悪そうに言い訳をした。

「たぶん時間がなかったから、私にしか訊かなかったんとちゃう? ほら、私に言っといたらきっとみんなに教えると思ったんやって……」

 すると、みゆうが「分かってないなー、ヤイ子」と言って、諭すように彼女の肩に手を回した。

「それはどう考えても、てつじさんがヤイ子のこと気に入ってるってことやん。勇気を出して訊いたその男心を分かってあげなさいな」

「でも、私あんまりアートのこととか詳しくないし、どちらかというとみゆうの方が、あの人と話が合ってた感じじゃない?」 

 だが、みゆうは「そんなことないって」と言って、大げさにかぶりを振った。

「確かに話が弾んでいたように見えたかもしれないけど、それは私がいろいろと訊くから、親切に答えてくれてただけやって。本当はヤイ子と、もっと違う話もしたかったと思うよ。 だからわざわざ、帰り際に電話番号を訊いたんじゃない。もし、ヤイ子がいいと思うんやったら、そんなに自信なさそうにしないで、がんばってみたら?」

「そうやなー、どうしよう……」

 ヤイちゃんはまだ自分の気持ちを計りかねるように、てつじさんの番号が入った携帯を片手に持ったまま悩んでいた。

「お、悩んでるよ。このモテ子が」

 それを見てみゆうが、嬉しそうに彼女をからかった。

 この時、みゆうがどういう気持ちだったのかは、本人に訊いたわけではないので、私には分からない。もしかしたら、ヤイちゃんが感づいていたように、少しはてつじさんに対して憧れのような気持ちを抱いていたのかもしれない。だが、たとえそうでも、この電話番号の一件を聞いたことで、彼女は自分の中に芽生えた淡い感情は胸にしまって、潔く身を引くことを決めたようだった。そういうところがみゆうらしいと、私は思う。

 ふと気付くと、私たちは阪急電車の踏切を超えて、キャバクラやピンサロのぎらついたネオンがひしめく、ピンク街の真っ只中にいた。通りではマイクロミニのスカートをはいたキャバ嬢やホストたちが呼び込みに精を出し、ほろ酔いのサラリーマンたちは快楽の渦に飲み込まれていくように、次々と薄汚れた雑居ビルの中に姿を消していく。路地に建ち並ぶ立ち飲み屋では、日雇い労働者たちが稼いだわずかな日当で酒をあおり、コンビニの前では髪を金色に染めたヤンキーたちが、集団でわいわい騒ぎながら煙草を吹かしていた。夜の街は、さながらカーニバルのように、妙に浮かれた賑わいをみせている。

 私はその影を作らない、不自然なネオンの明かりに、不思議な安心感を抱いていた。

 この街は優しい。この社会で居場所があるのかないのか分からない、中途半端な存在の私たちに優しい。闇の中にぽうっと浮かび上がった、この竜宮城のような明るさの中にどっぷりと浸かっていれば、私たちはいつまでも見たくないものから、目をそらし続けていられるのだ――。

 見上げるとネオンの一つに、黄色い電飾で月が描かれた、「FULL MOON」という、ラブホテルの看板があった。それは、三日月、半月、満月と順番に明かりが灯っていき、最後には中心から円周にかけてパッ、パッと、花火のように点滅を繰り返す仕組みになっている。よく見ると、ところどころ電球が切れていたりして、いかにも安っぽい月だ。だが、そんな目玉焼きの黄身のような、平面的な月を見ていたら、なぜか無性に泣きたい気分になった。


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