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第一章

 部屋の隅では誰がどこで買ってきたのか、巨大なスヌーピーのぬいぐるみが埃を被って笑っている。もしかしたら、誰かがどこかで貰ってきたものかもしれない。いずれにせよ、うちに来てから放ったらかしで、誰もしまったり、処分したりしようとしないので、邪魔になってしようがない。十畳一間の部屋には、私、ヤイちゃん、みゆうの三人が煎餅布団をくっつけて雑魚寝をしていて、床は新聞の折り込みチラシだとか、私の描きかけの漫画の原稿だとか、食べかけのお菓子の袋だとか、誰かが脱ぎ捨てたブラジャーだとかパンツだとかTシャツだとか、CDや雑誌やDVDの類が散乱していて足の踏み場もない。真ん中に置かれた唯一の家具らしい家具であるちゃぶ台の上には、昨日三人で飲んだビールの空き缶や、食べかけのスルメやピーナッツやインスタントラーメンのカップがそのままの状態で放ったらかされていて、器の底に残ったラーメンの汁が、油っこい臭いを放っている。部屋の一角に申し訳程度に設置されているシンクの流しには、一週間の間でたまった、洗っていない食器類が山のようになっていて、周りをたかる小バエがブンブンとうるさい羽音を立てていた。

 私は布団の中でもぞもぞと寝返りを打ち、枕元の目覚まし時計に目を遣った。時計は正午を指している。起き上がると、昨日のお酒が残っているのか、頭が少しズキズキと痛んだ。テレビを点け、「笑っていいとも」のオープニングが流れる画面をぼんやり見つめていると、音がうるさかったのか、隣で寝ていたみゆうが目を覚ました。

「んっ、ううん……」

 窓から射し込んでくる光に、眩しそうに目を細めた彼女は、二日酔いと低血圧ですこぶる機嫌が悪そうだ。「今、何時?」と訊く声が、ひどく擦れていた。

「もう十二時やで、みゆう」

「十二時? まだ早いやん……」

 そう言うと再び枕に顔を埋めて眠ろうとしたので、私はその骨ばった華奢な体をゆすって、彼女を起こした。みゆうは鬱陶しそうにショートカットの髪をくしゃっとさせながら起き上がると、タンクトップにショーツという格好のまま、のそのそと這うように洗面台に向かい、床にべったりと座り込んで歯を磨き始めた。

「あはごはん、もうはめた?」

 歯ブラシを突っ込んだまま喋るので、「朝ごはん、もう食べた?」と聞くみゆうの声は、ひどくくぐもっている。私が「まだ」と答えると、彼女はやっとウーンと伸びをしながら立ち上がり、軽く口をすすいだ後で、「じゃあ、何か買ってこようか」と、こっちを振り返って言った。

「ほんまに? じゃあ頼んでもいい?」

「いいよ。何がいい?」

「そうやなぁ……、サンドイッチとかおにぎりとか。あとヤイちゃんの分もお願い。ヤイちゃん、何がいいんかな……?」

 私は隣でまだすやすやと寝息を立てている、もう一人の同居人の顔を覗き込んだ。お酒が飲めないくせに私たちに付き合って、真っ先に潰れてしまった彼女は、全く目を覚ますそぶりもなく熟睡している。

「まあ、何か適当に買ってきて。たぶん何でも大丈夫やと思うし」

「オッケー、じゃああたしが行ってる間に、チハルはヤイ子起こしといて」

「分かった。ありがと」

 みゆうはそこらへんに脱ぎ捨てられてあった、薄汚れたTシャツと短パンを拾って着ると、アパートから一番近いコンビニにへと出かけていった。

 彼女が出ていった後で、私はもう一度、自分の隣で眠っている、おそろしく顔立ちの整ったヤイちゃんの寝顔を見る。柔らかくウェーブのかかったロングヘアの下から覗く、まつげの長い大きな目。上品にスッと通った鼻筋の下には、桜の花びらのような薄桃色の、厚みのある唇がくっついている。女優にでもなれそうなくらい完璧な顔の造りは、同じ女でこんなにも違うものかと、神様に嫉妬してしまいたくなるほどだ。

 さて、この眠り姫を、一体どうやって起こしてやろうか――。

 童話に出てくる意地悪な魔法使いにでもなったつもりで、あれこれ考えを巡らせながら辺りを見回していると、ふとテレビの横に置いてある、埃とり用のはたきに目が止まった。

 私はそれを彼女に気付かれないよう、そうっとテレビの横から取ってくると、ツンと尖った彼女の鼻先に、猫じゃらしのようにちらつかせてみた。だが、彼女はちょっとくすぐったそうなそぶりをしただけで、相変わらず象のように熟睡している。

 面白い――。

 私は調子に乗って、さらに彼女の首筋から肩にかけてのラインに、はたきを這わせてみた。首筋をこそばして彼女が払いのければ次は頬に、頬も払いのければ次は鼻先にと、執拗に意地悪な動きを繰り返すうちに、さすがのヤイちゃんも、だんだん自分が何をされているか分かってきたらしく、布団の中から寝ぼけ混じりの不機嫌な声が聞こえてきた。

「もお、何すんの……」

 彼女はそれでも、しばらくは夢から醒めきっていない様子で、気持ちよさそうに布団の上をゴロゴロと転がっていたが、だんだん意識がはっきりしてくると、「あっ!」とこっちがびっくりするような大声を上げ、布団から飛び起きたかと思うと、慌ただしく洗面所に駆け込んでいった。

「あ〜っ、しまった! 昨日、化粧したまま寝ちゃったよー!」

 鏡を睨みながら叫ぶヤイちゃんの顔には、まるで世界が終わったかのような悲壮感が漂っている。私が「大丈夫やって、そんな大げさな」となだめても、全く耳に入っていない様子で、「サイアクー、お肌が……」とか何とか呟きながら、バシャバシャと夢中で顔を洗い始めた。

 やれやれ、朝はいつもこんな感じだ。

 私たち三人は、この十畳ワンルームで同居を始めてもう半年になるが、一度だって朝日を浴びながらトーストにコーヒーなんていう、爽やかな朝を迎えたためしがない。晩はたいがい二時や三時まで、お酒を飲むかビデオを観て夜更かしをし、お昼を過ぎた頃にやっと一人、二人と布団からのそのそと起きだしてくる。そんなことを繰り返しているうちに、昼夜逆転の生活がすっかり染みついてしまった。こんな風に私たちの生活が怠惰への一途をたどっているのは、三人が三人ともだらしないという性格的な要因とともに、誰も定職についていないために、仕事による時間の拘束が極端に少ないという、環境的な要因も大きいと思う。

 私たちは三人とも、今年でもう二十七歳になるが、みんな揃いも揃って、金なし、職なし、男なしのトリプルパンチで、限られた若さと時間をいささか持て余しながら暮らしている。 

 みゆうは昼間はパチスロで小銭を稼ぎながら、夜は路上で自作の詩が入ったイラストを売るアーティストもどきで、一般職OLだったヤイちゃんは、勤めていた会社を辞め、失業保険でぬる〜いプー太郎生活を満喫中、私は漫画家を目指しながら、週に三〜四日の喫茶店のバイトで収入を得るフリーター生活と、それぞれやっていることは違っているが、良識ある大人たちが見れば目くじらたてて怒りそうな、駄目な若者の典型であることに変わりはない。

 そんな私たちがどうして一緒に住むことになったのかというと、話は八ヶ月前の美大の同窓会まで遡る。それまでは友達を通じて顔を知っている程度で、そんなに仲がいいというわけでもなかったのだが、近況を話し合っているうちに、お互い境遇が似ているもの同士意気投合し、どうせみんなお金がないんだったら、いっそのこと一緒に住んじゃう? というノリになったのだ。最初のうちは飲みの席での話だから、どうせ実現しないだろうと思っていたのだけれど、一緒に部屋を見に行ったりしているうちに、どんどんその気になってゆき、いつの間にか部屋も決まり、引越し日も決まりと、とんとん拍子に話が進んでいった。そして現在は家賃七万円のこの部屋を、光熱費も含めてすべて割り勘でシェアしている。友達と同居することについては、例えばこっちが寝ているのにテレビを消さないだとか、洗濯物の畳み方が汚いとかで我慢しないといけないことは多少はあるけれど、私は何をするにも安上がりで、いつも誰かがそばにいてくれるこの生活が、結構気に入っている。

「ただいまー」

 そんなことをしているうちに、みゆうが大きなビニール袋を提げて、コンビニから帰ってきた。彼女は空き缶やラーメンのカップをちゃぶ台の端に寄せると、空いたスペースにサンドイッチやおにぎり、ペットボトルのお茶などをどさっと広げ、私たち三人はテレビを見ながら遅い朝食をとった。

 チャンネルを変えるとワイドショーがやっていて、そこでは「現代若者ファイル」などと題して、東京都内のぼろアパートで三人暮らしをするニートの生活が、親のインタビューなんかも交えながら、ドキュメンタリーで紹介されていた。スタジオではコメンテーターたちが「情けない、親が泣いている」とか「これからの日本は思いやられる」とか言って、鼻息を荒くしている。ありがちなTVプログラムだ。

 こういうのを見ると、本当に私達って世の大人たちに嫌われているんだなあとつくづく思う。でも、犯罪者ならいざ知らず、善良な市民である私達が、どうしてこんな親でもない大人たちから、こんなにボロクソに言われないといけないんだろうか。

「やっぱうちらって、ちゃんと働いてる大人から見たらムカツク存在なんかな」

「またー、チハルはそうやってウジウジしたこと言って」

 みゆうは私の杞憂をあっけらかんと笑い飛ばすと、コメンテーターたちの言葉などまるで意に介さないように、ズバッとこう言い放った。

「働きたい人は働いて、働きたくない人は働かんで、それでいいやん。別にどっちが偉いとか、そんなんじゃないやろ。働かなくても生活していける環境があるっていうのも、生まれ持った才能の一つやと思うし」

 「才能」という言葉をみゆうが使ったので、私は思わず吹き出してしまった。「それ、絶対言葉の使い方間違ってるって」、と私が笑って否定しても、彼女はそれを認めるどころか、逆に真顔でこう返してきた。

「何で? 顔がきれいとか、頭がいいとか、そういうのと一緒やん、お金がある家に生まれてくるっていうのも。よく人間みな平等なんていうけど、あれって私、絶対嘘やと思う。だって実際、美人とか不細工とか、貧乏とか金持ちとか、みんな生まれた時から何らかの差がついてるわけなんやから。結局、与えられたものをどううまく生かして、自分の納得する生き方をしていくかってことしかないわけやん? で、私はきれいでも秀才でもないけど、絵と詩を描くのが好きで、なおかつ家が経済的にそんなに困っているわけでもないから、絵を描く時間を作るために、ちょっとぐらい親に援助してもらってどこが悪いっていうん? そりゃ家が貧乏で食うに困ってるっていうんなら話は別やけどさ」

「はあ……」

 みゆうのあまりに堂々とした主張に、私は返す言葉もなく口ごもってしまった。でも、私はみゆうのこういう、妙に開き直ったところが好きだ。理屈の通っていないことでも、彼女がその自信に満ちた口調で理路整然と説明すると、なぜか正しいことのように思えてしまうから不思議だ。確かにみゆうの意見には一理ある。私たちの生活は、裕福とまではいかなくとも、親がそこそこお金に余裕があるからこそ成り立っているわけで、もし片親とかでギリギリの生活だったら、こんな風にフラフラしているわけにはいかないだろう。そういう意味ではなるほど「生まれ持った才能」を享受していると言えるのかもしれないけれど、私はみゆうのように、自分は自分、他人は他人と割り切って考えることができない。まっとうに働いて、それなりの収入を得ている同年代に対して、やっぱりどこかしら後ろめたさを拭いきれずにいるのだ。

「ごちそうさま」

 一足先に朝食を終えたみゆうは、花柄の古着ワンピにストライプのジャケット、オレンジのタイツにレース編みのニット帽という、彼女にしかできない個性的なコーディネイトに着替えると、画材のいっぱい詰まったトランクを持って、いつものように出かける準備を始めた。彼女はこうしてお昼過ぎに出かけていって、夕方までパチンコ屋に籠り、その後は梅田の大きな歩道橋の上で自作のアートを売るというのが、お決まりのパターンなのだ。

「じゃあね、行ってきます。九時ごろには戻ると思うから、ヨロシク」

 彼女がいなくなった後、少し広くなった部屋には、私とヤイちゃんの二人きりになった。

 ふと見ると、ヤイちゃんはちゃぶ台に肘をついて、昨日の残りのスルメをつまみながら、始まったばかりの「ごきげんよう」を観て笑っている。彼女は毎日、ご飯を食べるかお風呂に入っている時以外は、ほとんどこうやってテレビの前に齧りついているんじゃないだろうか。よくもまあ、大して変わりのないプログラムを、こう毎日飽きもせずに観続けていられるものだと思う。彼女にしてみれば、いずれ嫌でも働かないといけなくなるんだから、黙っていてもお金が入るこの時期くらいは、面倒くさいことは考えずにボーッとしていたいということなのだろうが、誰でもできる単調な仕事に追われて、若い時間を浪費するのは嫌だと言って会社を辞めたヤイちゃんは、皮肉なことに退職後の現在は、仕事よりもさらに単調な生活で、時間を浪費している。

 私はそんな彼女を横目に見ながら、床に落ちていた描きかけの原稿を拾い上げ、ちゃぶ台で続きに取りかかり始めた。今やっているのはネームといって、大まかなコマ割りやセリフを鉛筆で描いていく、いわば下書きの下書きみたいな作業だ。

 しかし、いつものことながら、ネームを描く私の筆は思うように進まなかった。頭で考えている時は、どんどんイマジネーションが膨らんで、楽しくてしようがないのに、いざそれを紙に落としてみると、なぜか急にその展開が白々しく思えてきたり、設定に無理が生じてきたりして煮詰まってしまうのだ。そして今日も、私は数コマ進んだだけで行き詰まってしまい、続きが描けずにいた。

「何描いてるん?」

 私が原稿の上で石のように固まったままでいると、いつもは興味なさそうにしているヤイちゃんが、珍しく声をかけてきた。

「うーん、SFものなんやけどね。宇宙飛行士の女の子が、ブラックホールに飲み込まれてタイムスリップして、自分のひいおじいちゃんと恋に落ちてしまうっていうストーリー」

「……へえ」

 ヤイちゃんが苦しそうな表情で相槌を打った。口には出さなくとも「面白くなさそう」と顔に書いてある。

「でも、なかなか続きが思いつかなくて」

「ねえ、いつも思ってたんやけど、チイちゃんの描いてる漫画って、一体いつになったら完成するわけ?」

 ズバッと痛いところを突かれた気がした。ヤイちゃんは普段はボーッとしてるくせに、時々ふいをついて、ものすごいカウンターパンチを浴びせてくる。確かに彼女の言う通り、私は自慢じゃないがこの半年で、一度も原稿を完成させたことがなかった。いつも描いているうちに途中で断念してしまって、本当は漫画家を目指していると言いながら、どこかの新人賞に送ってみたことすらないのだ。

「え、そりゃ……、初めて描いてるから時間がかかるんやって!」

「えー、でもさ、大学の頃はCMの制作会社に入って、CMディレクターになってゆくゆくは映画を撮りたいとか言ってたくせに、次会った時は、やっぱ制作の現場は向いてないから脚本家になりたいって言って、一本も書かないうちに今度は漫画家でしょ? チイちゃん、夢変わりすぎ。それってさー、もしかしてやってみると難しくて実現しそうにないから、他の夢に逃避してるだけなんとちゃうん?」

 頭の中でカンカンカンと、ノックアウトのゴングが鳴った。完璧なヤイちゃんのKO勝ち。でも、彼女にだけは「逃避」とか言われる筋合いはないと思うんだけど。

「よっ、余計なお世話っ! 今度こそ本当に本当なんやから、水を差すようなこと言わないでよっ! ヤイちゃんこそ、そんなテレビばっかり観てないで、資格の勉強でも始めたらどう?」

「んー、失業保険切れてから考えるわ」

 人にはズバズバ言うくせに自分には甘いヤイちゃんは、私の反撃などものともせず、しれっとそう交すと、さっき起きたばっかりだというのに、また布団の上でごろごろと寝っ転がり始めた。私はそんな彼女のことは無視して、原稿の続きに集中しようとしたが、前日のアルコールが残った頭では、やっぱりいいアイデアは浮かんでこない。そのうちに、なんだかこうやって机に向かっていること自体が途方もない時間の無駄のように思えてきて、私はおもむろにペンを置いた。

「あー、ヤイちゃんが変なこと言うから集中力切れちゃった。今日はやめ。ねえ、どっか出かけへん? 」

 そう言って原稿を床に放り出した私に、ヤイちゃんの冷たい視線が突き刺さる。ちゃぶ台の向こうから、「またぁ?」という、気乗りのしない返事が聞こえてきた。


 それからしばらくして、私たちは駅前の漫画喫茶に出かけた。

 「出かけた」というよりも、「漫画喫茶ぐらいしか行くところがない」と言った方が正しいのかも知れない。何せ、お金がない私たちが行ける場所は、ごく限られているのだ。だって、コーヒー一杯四百円はするこのご時世にあって、一時間四百円程度で漫画や雑誌が読めて、しかもドリンクまで飲み放題なんてところが、他にあるだろうか? しかも、場所によっては、インターネットやDVDまで観られるところもあり、その気になれば千円程度で一日中でも時間を潰していられる。お金がなくて時間だけは持て余すほどある私たちにとって、漫画喫茶は何よりも重宝な存在なのだ。

 玄関の扉を開けると、九月といってもまださんさんと照りつける陽射しが、蛍光灯に慣れきった私の脳を刺激して、一瞬目が眩んだ。

 平日の午後の住宅街には、まるでここだけ時間の流れを引き伸ばしたような、長閑な雰囲気が漂っている。一軒家の前の路上では、五歳ぐらいの小さな男の子と、二十歳代前半くらいの若い母親がバトミントンをして遊んでいて、ポーン、ポーンとゆるやかに弧を描くシャトルを見ていたら、同じ時間帯、そう大して遠くない場所に、コンクリートの箱に閉じ込められて、せわしなく働いているサラリーマンがいるなんてことが、とても信じられないくらいだ。時間に追われて過ごす彼らと、時間を持て余す私たち、一体どちらが幸せなんだろう。そんなことを考えながら住宅街を抜けていくと、いつの間にか駅前商店街の賑やかな喧騒が近づいてきた。

 私たちが住んでいるのは、十三といって、大阪でも随一のピンク街として知られている場所だ。大阪の中心地・梅田からは電車で五分ほどのところにあり、飲食店や洋品店が建ち並ぶ商店街の周りには、キャバクラやファッションヘルスなどの風俗店がこれでもかというぐらいにひしめいている。そうかと思えば少し行くと、北野高校という関西屈指の進学校がぽつんと建っていたりして、まるで社会の明と暗をごった煮にしたような不思議な街なのだ、ここは。でも私はこのでたらめで、どこか胡散臭さの漂うこの街の雰囲気が、なぜかあまり嫌いではない。

 昼間のピンク街は、夜の賑わいに備えて仮眠でもしているかのように、ひっそりと静まり返っていた。私たちはその中にぽつりと佇む、一軒の雑居ビルの中に入っていった。狭いエレベーターで二階まで上がると、「漫画喫茶 二十四時間」という看板が目の前に現れ、入口でいつも見かける中年の店員が声をかけてきた。

「いらっしゃいませ。毎度ありがとうございます」

 彼は私たちを見ると、「今日もいつものコースでよろしかったですか?」とにこやかに尋ねてきた。私は漫画喫茶でこうやって店員に覚えられるのもどうなのだろう、と思いながらも、二時間の料金で三時間まで漫画が読み放題という「いつもの」三時間コースを選んだ。

 店に入ると、早速、窓際の日当たりのいい席を陣取って、最新のファッション誌を読み耽るヤイちゃんをよそに、私は一人、本棚の間をぶらぶらとさまよっていた。まるで大きなドミノ倒しのように、狭い間隔で並んだ殺風景なスチール製の本棚には、少女漫画や少年漫画、カルトからアダルトに至るまで、あらゆるジャンルの漫画が、何万冊という単位でびっしりと並んでいる。しかし、それらに順に目を走らせていっても、私は興味をそそられる本を見つけることができずにいた。もしかしたら、あまりに通い詰めてしまったせいで、好きな本はあらかた読み尽くしてしまったのかもしれない。そう思うと私は我ながら、自分の暇人ぶりに呆れずにはいられなかった。

 何となく手持ちぶさたになって、読書コーナーを見渡してみると、そこには平日の昼間にもかかわらず、ぽつりぽつりと客の姿があった。営業中にサボっているのか、スーツ姿のサラリーマン、いかにもオタクといった感じの、メガネででっぷりと太った男の人、黄色いジャージの上下を着たレディースヤンキー二人組、首にヘッドホンをぶら下げた、ひげ面の職業不明のお兄さん。みんな不思議と雰囲気が似ている。与えられた時間の使い方に戸惑っていて、ここにいる必然的な理由もないのに、他に行く場所もないから留まっているような、そんなふわふわとした感じ。私たちもきっと端から見たら、この雰囲気に違和感なく溶け込んでいるんだろうなあと、ぼんやりと考えていると、隅に小学生らしい男の子が座っていて、私は思わず目を止めた。学校帰りだろうか、ランドセルを足元に置き、机の上に漫画を積み上げて、何やら一心不乱にペンを動かしている。

 宿題でもしてるのかな。それにしても、こんなところで小学生を見かけるなんて珍しいな……。

 私は何となくその小学生に興味を惹かれて、彼が座っている席に怪しまれないようにそうっと近づいていった。そして彼が熱心に書いているペンの先にあるものを、後ろからこっそり盗み見てみた。

 そこに書かれていたのは、想像していたような数式や漢字の列ではなかった。机の上にあったのは、少年たちの間で人気の冒険漫画と、その開かれたページを、作者がもう一度描き直したかのような緻密さで、そっくりそのまま模写した白いノートだった。

 私は目を見張った。もちろん絵の巧さが小学生とは思えないほど特出していたこともあるけれど、それよりも何よりも、彼があるシーンだけを抜き出して描くのではなく、コマ割りや背景もそのままで、ページを丸ごと描き写していることに驚かされたのだ。しかもそのスピードが半端ではなく、彼はロボットのように恐るべき速さで、ただの白いノートを漫画本のコピーへと変えていっていた。

「漫画描くの、好きなん?」

 思わず後ろから声をかけていた。すると少年は、カリカリと規則的な動きを続けていた手をピタリと止め、鋭い目つきで私を見上げた。マシュマロのような白い肌に、能面のような無表情を張りつかせたその顔は、どこか大人びていて陰りがある。彼は不機嫌に「別に」とだけ言うと、すぐにまた何事もなかったかのようにノートに視線を戻した。

「別にって、そんなことないでしょ。そんなに一生懸命描いてんねんから。ねえ、その漫画何ていうんやっけ? 確かテレビアニメでもやってた、『シン』とか何とか……」

 すると少年が、私の言葉を遮るようにピシャリと言った。

「『シヴァ』だよ、『シヴァの大冒険』! お姉さん、ちょっとうるさいんだけど!」

 初めてまともに聞く少年の声は、思ったよりも明瞭で、はきはきとしていた。アクセントが標準語に近いので、どうやら関西の人間ではないようだ。

「ごめん、ごめん。君みたいな小学生がこんなところにいるなんて珍しくて、つい気になって。でもさあ、どうしてこんな風にページ丸ごと写してるん? 面倒くさくない?」

「別に。だってこうした方が時間が稼げるから」

「時間を稼ぐってどういうこと?」

 私は少年の言葉の意味を計りかねて尋ねた。しかし、彼はこんなお喋りをしていても時間の無駄だとでも言わんばかりに、押し黙ったまま何も答えてはくれようとはしなかった。

「実はお姉さんも、漫画描くの好きなんやけどね……」

 私は仕方なく、話を他のことに反らそうとペンを取り、ノートの端に自分の漫画に出てくる主人公の絵を描いてみた。すると意外にも、彼はそれを見て、いきなり甲高い声を上げて笑い始めた。

「アハハ、お姉さん、下手だなあ。これなら僕の方がよっぽど上手いよ」

 私は少年の、何の遠慮もない笑いにムッとした。だが、ムッとすると同時にホッとした。少年の顔からは先ほどまでどこかしら漂っていた陰影の色が消え、年相応の幼さと明るさが戻っていたからだ。

「何よ、そんなに笑うんなら、あんたも何か描いてみなさいよ」

 すると彼は「仕方ないなあ」ともったいをつけながら、腕時計の液晶画面をストップウォッチに切り替えると、「ちょっと見ててよ」と言ってこっちに目配せをし、スタートボタンを押して、いきなり猛烈なスピードで漫画を写し始めた。彼は百分の一秒単位でめまぐるしく時を刻むストップウォッチを追い抜こうとでもするかのように、ぐんぐんノートを描き進めていき、あっという間に一ページを写し終えると、二分〇四秒三五と表示された液晶画面を、「どう?」と得意気に私に示して見せた。

「今は二分ちょっと超えちゃったけど、調子のいい時は一分台で描けることもあるよ。こんなに線がいっぱいあるのに、それだけの時間で描けるなんてすごくない?」

「はあ……」

 私は呆気にとられて、何も言うことができなかった。この少年は少し変わっているという最初の印象は、ますます強くなった。「時間」「記録」「速度」、彼の言葉は、常にそういう目に見えるもののみで構成されていて、彼自身の考え方や好き嫌いといった人間らしい部分が、全く透けて見えてこないのだ。それは彼の能面のような表情にも言えることで、私はこの少年は一体どんな時に人間らしい側面を覗かせるのだろうかと、訝しがらずにはいられなかった。

 少年は、私が感心するでもなく褒めるでもなくぽかんとしていると、不満そうに口を尖らせた。

「何だよ、そっちが描けっていうから描いてやったのに……」

「うーん、でも何か……」

 私は自分が感じた違和感を、できるだけ正確に表現できる言葉を探した。

「何か、フェアじゃないような気がするんだよね」

「フェアじゃないって?」

「だって、君のは他の人のコピーやん? それで『どう、すごいでしょ』って言われても、なんか納得できへんのよね」

「……じゃあ、どうすれば納得するわけ?」

「なんか、自分で考えたキャラクターとか描いてみてよ。それで私より上手かったら、納得する」

 そう言うと、少年は今までの自信満々な態度が一転して、急に逃げ腰になった。

「嫌だ。そっちが勝手に声をかけてきたくせに、何でそんなことしなくちゃならないんだよ」

「いいやん、別に。そんなに自信があるんやったら、自分の絵を描くのだって簡単なことやろ?」

 しかし、少年の態度は頑なだった。私が何を言っても、「とにかく、嫌だったら嫌なんだ」の一点張りで、絶対に自分の絵を描こうとはしない。私はさっきまで自分の絵の腕を誇示していた彼が、どうしてこんなに態度が豹変してしまったのか不思議に思った。そしてふと、ある考えが思い浮かんだ。

「……あ、分かった。自信がないんやろ?」

「え?」

「人の絵は上手く描けるけど、自分の絵は下手なんとちゃう? それで自信がないから、見せたくないとか言って、突っ張ってるんやろ?」

「ち、違うよ!」

 しかし否定しながらも、少年の顔は上気して真っ赤になっていた。目は口ほどにものを言うというけれど、今、彼の顔は本当に雄弁に全てを物語っていて、私は一目で自分が言ったことが図星だったと確信した。

「あ、ごめん。ほんとやったんや」

 さっきの仕返しのように意地悪く言うと、少年はさらに興奮して声を荒げた。

「もう、うるさいなー、お姉さんのせいで手が止まっちゃったじゃないか。早くどっか行ってよ」

 彼は最後の砦に逃げ込むかのようにノートに視線を戻すと、シッ、シッと、人を病原菌みたいに手で追い払う仕草をした。それからは、何を言っても無駄だった。少年は私の言葉どころか存在すら目に入っていないみたいに、ノートに視線を戻して無視を決め込んだのだ。

 私は仕方なく「はいはい、ごめんね、邪魔して」と言って、その場を離れることにした。途中で振り返ると、少年はもう何事もなかったかのように、再び漫画の模写に没頭していて、その姿は他の客と同じように、周りにたくさんの人がいるのに、どこか人を寄せつけないような、孤独なバリアを張り巡らせているように見えた。


「お帰り、遅かったね」

 席に戻ると、ヤイちゃんは本も何も持たずに帰ってきた私を見て、不思議そうに首を傾げた。

「あれ、読む本探しに行ったんじゃなかったの?」

「ちょっとね、さっき面白い子供見つけちゃって」

「子供?」

「うん、それがさー」

 私がヤイちゃんに少年のことを説明しようとした、その時だった。カウンターの方から、厳しい口調で怒鳴る店員の声が聞こえてきて、私は思わず口をつぐんだ。

「ちょっと、僕、黙ってたら分からないだろ。早くお父さんかお母さんの連絡先を教えなさい!」

 カウンターを見ると、何と店員が怒鳴りつけている相手は、さっき話したあの少年だった。彼は自分よりも頭二つ分くらい背丈のある店員の目を、臆することなくじっと睨みつけたまま、だんまりを決め込んでいた。

「あのね、こっちだって我慢の限界があるんだよ。いつまでもそうやって黙ったまんまなら、警察に連絡してもいいんだよ!」

 店員の脅すような言葉に耐えられなくなった私は、思わず立ち上がって、カウンターの方に歩み寄っていった。「ちょっと、やめときなって」と止めるヤイちゃんを振り切り、「あの、すいません」と二人の間に割って入ると、突然の部外者の出現に、店員は訝しげな顔で私を睨んだ。

「この男の子のお知り合いの方ですか?」

「いや、知り合いっていうか……、あの、何かあったんですか?」

 すると、店員はさもこちらが被害者であるというような、媚びた口調で、

「いやね、会計したらこの子が、財布の中に百円しか入ってないって言うもんでね。こっちも商売ですから、お金を貰わないと帰すわけにいかないんで、家の電話番号教えなさいって言ってるんですけど、さっきからこんな感じで黙ったまんまで。ほとほと困ってるんですよ」

と言って肩をすくめた。

 少年の方に目を移すと、きまりが悪そうにポケットに手をつっ込んで俯いたまま、こちらと目を合わせようとしない。どうやら予想に反して彼は、私の出現をあまり快く思っていないようだった。

 私は困ってしまった。今さら私には関係ないことですと引き下がるわけにもいかないし、店員は「しゃしゃり出てきたんだから、お前が何とかしろよ」と言わんばかりの目でこちらを睨んでいる。

 私は仕方なく「分かりました。じゃあ私が代わりに払います」と言って、ポケットから財布を取り出した。

「あ、そうですか。すいませんねぇ」

 店員はそうと分かると、打って変わった調子のいい態度になり、「坊や、よかったな」と言って少年の頭を撫でた。私はその豹変ぶりに半ば呆れながらも、財布を開けて小銭を準備しようとした。だが、店員から告げられたのは、思わず目を丸くしてしまうような予想外の金額だった。

「じゃあ、二千四百円です」

「二千四百円!?」

 どうせ数百円のことだろうと高を括っていた私は、思わず声が上ずってしまった。この店は最初の一時間は四百円で、そのあと三十分の延長ごとに、二百円ずつ加算されていく仕組みなので、二千四百円といえば、計六時間もいたことになる。今は四時過ぎだから、彼は午前中から学校にも行かずに、ここで黙々と模写をして過ごしていたのだろうか――? ふと、さっき少年が話した「時間を稼ぐ」という言葉が脳裏をかすめた。

 私はおそるおそる、財布の中身を確認してみた。思ったとおり、中には千円札が三枚しか入っていない。しかもこれは、私が今日から一週間食べていくための大切な生活費なのだ。だけど、今さらお金がないから払えませんなんてみっともなくて言えるはずもなく、渋々、私は身を切るような思いで、その全財産をレジのトレーに叩きつけた。もうこうなりゃヤケだ、持ってけドロボー!

「ありがとうございましたー」

 私はチンというレジの音とともに差し出されたおつりの六百円を、

やけくそのように財布の中に投げ入れた。財布の中で小銭がチャリチャリと虚しい音を立てる。頭の中で、まるで漫画の世界のようにお札に羽が生えて、遥か彼方に飛んでゆく映像が浮かんだ。これから一週間どうしよう……。バイト代が入るまで、おかずも買えない切りつめた生活のことを思うと、私の心の中ではすでに、出すぎた真似をしたことに対する後悔が芽生え始めていた。


「お金を払ってもらったからって、お礼なんか言わないからな。だいたい頼んでもいないのに、何でしゃしゃり出てくるんだよ」

 店を出るなり、少年はそう言って私に毒づいた。思わず、握っていた私の拳に力が入る。せっかく助けてやったのに、なんてかわいくないんだろう。つい、さっきの支払いは取り消して、二千四百円を取り返してきてやろうかと、あらぬ思いが脳裏をよぎる。

「あっ、そう。悪かったわね、出すぎた真似して。じゃ、さよなら。もう二度と困ってても声なんてかけないから」

 私は沸き上がってくる怒りを懸命にこらえながら、できるだけ平静を装ってそう言い返すと、くるりと踵を返して店に戻ろうとした。だがその時、思いがけず「ちょっと待って」と少年に呼び止められて、私は振り返った。

「お金、返すよ。ないと困るんでしょ、お姉さん」

 少年は相変わらず舐めたような目つきで私を見上げると、「だって、さっきお札を出すお姉さんの手、震えてたもんね」と意地悪く付け加えた。

 私は助けてやった相手から馬鹿にされることに屈辱を感じながらも、お金が返ってくるという言葉につられて、つい「え、返してくれるの?」と、低姿勢で少年ににじり寄った。

 少年はちらりと私を横目に見ながら、「ああ、いいよ」と借りがあるとは思えないほど横柄な態度で返事をした。

「僕、家がこのすぐ近くなんだ。だから兄さんに言ったら、お金を持ってきてくれると思う」

 そう言うと、少年はポケットから携帯を取り出し、自宅らしき番号に電話をかけた。そして、その兄らしき人と何やら会話を交わして、このビルの下に来てもらうようさっさと話をまとめてしまった。

 電話が終わると、少年は私に向かって「うまくいった」というように、親指と人指し指で小さな丸を作って見せた。

「よかった。兄さん、家にいたよ。今から二十分ぐらいで、こっちに来るって」

 私たちは心配して外に出てきてくれたヤイちゃんも含めて、三人で雑居ビルの下で少年の兄を待った。外はもう夕方に近く、強い西日が辺りの景色を黄金色に染めている。周りの雑居ビルや電信柱は切り絵のように長い影法師を落とし、少年を真ん中に挟んで立つ私達の影も長く伸びて川の字のようになっていた。そこに、ぽつぽつと灯り始めたピンク街の派手なネオンの明かりが色を差す。

 その時ふと、右腕に重力を感じて隣を見ると、少年が私の袖を掴んで、何か言いたげな目でこちらを見つめていた。

「何?」

「あのさ、今日ここで僕に会ったこと、兄さんには言わないでほしいんだ」

「いいけど、何で?」

 すると、少年はモジモジと落ち着きなく体を揺すりながら、小さな声でぼそりと呟いた。

「……僕、学校行ってないんだ」

 私はどう言っていいか分からず、ただ、「……そう」と曖昧に相槌を打った。頭の中で、さっき少年が頑なにレジでだんまりを通していたことと、出会った時に彼が言った「時間を稼ぐ」という言葉が、一本の線で繋がった気がした。おそらく、少年は家族の誰にも話していないのだろう。自分が学校に行かずに、ここで黙々と時間を過ごしていることを。

「いい? 約束だよ」

 少年が袖を掴む手に力を込めて、再び念を押した。緊張のために引きつった顔には、先ほど店の中で見かけたのと同じ暗い影が差している。それを見ていると、誰にも言えない秘密を一人で抱え込んでいる彼が無性にかわいそうに思えてきて、私は「分かった」と、彼の目を見て大きく頷いた。すると、少年はやっと安心したように、私の袖から手を離した。

 しばらくして、やって来た少年の兄という人は、思ったよりも大人だった。「ああ、ごめん、遅くなって」と言いながら、小走りに駆けてきたその人は、私たちと同じか、下だとしてもせいぜい一歳か二歳ぐらいしか違わないように思われた。人気のスポーツブランドのスウェットに、ぶかぶかのジーンズを履き、目深に被ったニット帽の下から、肩ぐらいまでの長髪が覗いている。どこからどう見てもフリーターといった風貌だが、それにしても、ずいぶん歳の離れた兄弟だなと思った。

「兄さん、遅いよ」

「ごめん、ごめん。ちょっと場所探しちゃってな。ところでこの人たちは?」 

 彼が私とヤイちゃんを交互に見ながら訊くと、少年はあらかじめ言うことを考えていたかのように、学校帰りに塾で使う参考書を買いに本屋に寄ったら、レジでお金が足りないことに気付き、困っているとこのお姉さんたちが親切にお金を貸してくれたんだよと、淀みない口調で説明した。

 私たちは顔色ひとつ変えずにすらすらと嘘を並べたてる少年を、呆気にとられた表情で眺めていた。少年の兄は「そうなのか」と疑う様子もなくあっさり納得すると、ジーンズのポケットから財布を取り出し、そこから千円札を三枚取り出して私に渡してくれた。

「お釣りはいいです」

 彼の財布を見ると、それが高価なブランドのもので、中身も分厚く膨らんでいたので、私は少し意外な感じがした。

 それから彼は「あ、僕こういう者です」と言って、自己紹介代わりに私たちに名刺を渡してくれた。普通とは反対に、黒がベースになったそのおしゃれな名刺には、白いゴシック体の文字で「デザイナー 鳥井てつじ」と書いてあった。

「すごい。デザイナーさんなんですか?」

「ええ、そうなんです。フリーでフライヤーとかパンフレットのデザインなんかを手がけてまして。あ、こいつは弟の勇気です。どうもこの度は弟がご迷惑をおかけしまして」

 てつじさんは勇気の頭を押さえて強引におじぎをさせると、自分も丁寧に頭を下げた。彼はそのプー太郎風の外見とは裏腹に、けっこう礼儀正しい人のようだ。

「ずいぶん歳が離れてるんですね」

「あ、それよく言われます。僕が二十六でこいつが十歳だから、十六歳差かな。でも異母兄弟とかじゃないですよ。ハハハ」

 てつじさんは顎に生えた不精髭を撫でながら、豪快に笑った。彼は同じ兄弟でもしかめっ面の弟とは違って、物腰も柔らかくてとっつきやすい人だった。話すたびに、そのワイルドな風貌が笑顔でくしゃっと崩れ、人のいいお兄さん的な素顔があらわになる。しかし、彼はそうやって初対面の人ともすぐ仲良くなれる親しみやすさを持ちながらも、相手にずうずうしいと感じさせない、適度な距離感をを保つことも忘れない人だった。訊くと、彼はこの年齢ですでにキャリアは六年で、大阪のデザイン会社で五年間働いた後、一念発起して今のマンションに一人で事務所を構えたらしい。年齢以上の落ち着きと人当たりの良さは、こういう何の後ろ盾もなしに、一人で社会と対峙している経験から来るのかもしれなかった。いずれにせよ、彼はみゆうやヤイちゃんといった、私の周りにいる人たちとは、全く違った雰囲気をまとった人だった。

「じゃあ、よかったら事務所にも遊びに来て下さいよ。あんまり仕事もなくて暇ですから」

 てつじさんは、そんな見えすいた謙遜を口走りながら、私たちに手を振って、勇気を連れて商店街の向こうにあるマンションへと帰っていった。遠ざかる二人の後ろ姿は親子ほど身長差があり、夕日を受けて伸びる長短二本の影は、歩く度にリズムを打って左右に小さく揺れている。ふと、もうこの二人とは二度と会うことはないんだろうなと思うと、自分でも思いがけないセンチな感情が胸に迫ってきた。

 だがその時、視界の中で小さくなりかけていたてつじさんが、踵を返してこちらに戻ってきたので、私は驚いた。彼は駆け足で私たちの前までやって来ると、息を切らしながら、私にこう耳打ちをしてきた。

「勇気、本当はあの漫画喫茶にいたんでしょ? これ、迷惑かけたほんのお詫びです」

 そう言うとてつじさんは、ポケットからリボンで飾られた、ハンカチのような紙の包みを取り出して、私の手に握らせた。そしてまた駆け足で勇気のところに戻ると、今度こそ本当に、二人で商店街の奥へと去っていった。

 その場に取り残されたヤイちゃんと私は、何がなんだか状況がよく飲み込めないまま、呆然とそこに立ち尽くしていた。ただ一つ分かったのは、てつじさんは勇気が学校に行っていないことを知らないのではなくて、知っているけれど知らないふりをしている、ということだった。ここに来るのが遅くなったのも、本当は場所を探していたのではなく、私に渡したこの包みを買っていたからなのかもしれない。

 いつの間にか、太陽はすっかり西に落ちて、辺りは紺色のフィルターがかかったように薄暗くなり、ピンク街のネオンはますます毒々しさを際立たせていた。私はもらった包みを握りしめたまま、二度と会うことのないであろう兄弟の秘密を思って、二人が去っていった後のアーケードをぼんやりと眺めていた。

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