服部早苗
その女性は、服部早苗と名乗った。今日はサークルの勧誘活動のために、昼休み中食堂のエントランスホールでビラを配る予定だったそうだ。そのため昼休み前に食事を済ませようと早めに来たところで、俺たちを見かけ声をかけたという。ちなみに学年は七年生。なかなかモラトリアムを満喫してらっしゃる部類のようだ。
そんな服部先輩と離れるタイミングが見つからず、今は流れで一緒に昼食を食べていたりする。俺は月乃の特殊な経歴がばれないかと少しひやひやしているのだが、当の月乃は目の前の食事に夢中でそれどころではないようだ。その月乃が食べているのは、服部先輩が頼んだ御雑煮だった。
メニューに御雑煮は確かになかった。しかし、服部先輩は注文カウンターへ行くと、すでに顔見知りになっているというパートのおばさんに「学長メニュー一をください」と元気にのたまった。はいよ、と笑顔で答えたおばさんがしばらくして持ってきたのが、大きな器に入った御雑煮である。それを見た月乃が今すぐにでも食べだしそうになるのを止めるのに苦労した。
それにしても、こんなメニューにない料理の存在を知っていることに俺は驚いた。さすが七年生、年の功というより学年の功と感心してしまう。つか、学長メニューって何だ。しかも一って言う事は、二や三もあるという事ではないだろうか。侮りがたし、大学の学食。
そんな考えをしていたせいか、月乃の御雑煮に俺は知らず知らず視線をやっていた。そのことに気づいたのだろう、向かいに座る服部先輩が声をかけてきた。
「このメニューが気になる?」
気さくな雰囲気の、耳触りのいい声だった。話しかけれれた相手が嫌がっていたとしても、つい答えてしまうような、そんな不思議な力が宿っている気がした。
「えっと、そうですね。これ、ショウケースにはないメニューでしたから」
「それはねー、この学食の裏メニューだよ。まだ他にもいくつかあって、物によってはない日もあったりするんだけど、御雑煮は基本いつでも食べられるから裏メニューの定番なんだよね」
うれしそうに話す様子は、友人と秘密を共有し合うような雰囲気だった。人を引き付ける笑顔と話し方。コミュニケーション能力の高い人物のようである。
「よくこんなメニューがあることしってますね」
「そりゃこの学校にいるのが長いからね。でも、他にもいるよ、裏メニューの存在を知っている学生」
他にもいるってことは、知っている学生はそんなに多くないという事ではないだろうか。まあ、だからこそ裏メニューなんだろうけど。とりあえず、この早い段階でこのメニューの存在を知れたことはいいことかもしれない。わざわざ家で餅を買いこまなくても、月乃に餅を食べさせてあげることはできそうだ。
「ところで二人は、みたところ一年生?」
服部先輩が話題を転換してくる。月乃はその問いかけに首をかしげたが、俺はすぐさまうなずいた。
「はい、この学校に入ってまだ一年目です」
「やっぱり! どこか初々しいもんなー。でさ、二人はどこかサークルとか入る予定はある?」
やっぱりか、と俺は心の中で呟く。サークルの勧誘が目的で食堂に来たのなら、俺たち二人は完全なターゲットだろう。
正直、俺はサークルに入る気はほとんどない。やりたい趣味はあるし、それに関連するサークルもあるため、絶対に入りたくないというわけではない。しかし、俺の趣味は別段サークルに入らなくてもできる事である。そもそも、一人でやる趣味だとさえ俺は思っている。しかも、サークルに入れば先輩に対する気遣いや、周りに合わせて自分の思い通りにできないこともたくさん出てくるはずだ。多少人に合わせるのはいいとしても、自分のやりたいことを、人に合わせずやりたいようにできるのが、大学の特徴なのではないだろうか? それこそ正しいキャンパスライフの過ごし方だと俺は思っている。
だから、俺は服部先輩の誘いを断ろうとした。しかし俺が口を開くよりも早く、月乃が疑問を発した。
「サークルって、なんですか?」
その疑問に、俺はあわてた。大学に来てサークルも知らないなんて、いまどきあまり考えられない。多少わからなくても、どんなものかは大体想像がつく。それを校もストレートに聞いてしまうと、服部先輩も疑問に思いいろいろとまずいのではないだろうか。
必死にごまかすための文句を考える俺だったが、それよりも先に服部先輩が口を開いた。
「サークルっていうのはね、趣味が合う人同士が集まって一緒にわいわいするところ、かな」
笑顔でなんの疑問も持たずにそう説明する服部先輩。どうやら怪しまれずにすんだみたいだが、なおも月乃は首をかしげている。ここまで来るとなかなか口をはさめず、はらはらする俺だったが、服部先輩はそんな月乃の様子を見て鞄の中をごそごそ探りだした。
「例えばうちのサークルだと、こういう絵を描いたりしてるんだ」
そう言って服部先輩が差し出した一枚のコピー用紙には、可愛い女の子が描かれていた。いわゆる萌え系の絵で、ヘッドホンをかけた猫耳少女が笑顔で立っているという、ただそれだけの絵だ。しかし、その絵を見て俺の口からは感嘆の声が漏れた。一目で、その絵がなかなかレベルの高いものだと分かったからだ。
まず線の書き方がうまい。線の太さを変えることで女の子の肌の柔らかさがよく出ているし、服などの素材も手にとって見れるのではないかと錯覚しそうになってしまう。おそらくペンもいくつか違う種類を使って書いたのだろう。漫画家のような書き込み具合だった。
また、構図のバランスもいい。女の子の周りをヘッドホンのコードが取り巻くようにうねっている構図は、ただ立っているという絵をぐっと魅力のあるものにしている。
そして色遣い。服とスカートの色の組み合わせは見ていて飽きることがなく、お互いに主張し過ぎていない。女の子のピンク色の髪の毛ともよく合っている。さらに、わずかに赤く塗られた女の子の頬は、かわいらしさをあげることにも一役買っている。
プロの絵士ではないためどれくらい上手いのかはっきりした事はわからない。それでも多少こういった絵に興味がある俺からすれば、この絵はとても上手かった。下手をすればプロとそん色がないのではないだろうか。
隣を見ると、月乃もこの絵に感心して見いっていた。俺のようにいろいろな分析はできていないだろうが、それでもこの絵には、見る者の目を引き付ける魅力がある。そんな力に、月乃は引き寄せられているようだった。
そんな俺たち二人の反応を見て、服部先輩が少し満足そうに微笑む。手ごたえあり、と思われたようでしゃくだったが、実際興味を引かれたのは事実なので素直に認めるしかない。
「お二人さん、こういう絵を見ても蔑んだ目で私を見ないという事は、多少こういうものに興味があると見えるね。どう? うちのサークルにちょっと興味でてきた?」
服部先輩が笑顔で迫ってくる。確かに感心したし、多少どころかけっこうこういった絵に興味があるのは事実だが、ここで素直に認めるとサークル入会を断りにくくなってしまう。ただ見入っていたのはしっかりと確認されているため、興味がないと否定することも難しい。俺が断る口実を考えていると、またも先に月乃の口が開いた。
「びっくりしました。これ、早苗さんが書いたんですか? すっごくきれいで、かわいらしくて、私、一瞬で大好きになってしまいました!」
月乃が夢中なあまり身を乗り出して言う。その予想以上の反応に、服部先輩は一瞬驚いていたが、すぐに笑顔を取り戻した。一方俺は逃げ道がなくなって頭を手で押さえる。
「ありがとー。そんなに喜んでもらえると見せた甲斐があったよ。どう、うちのサークル入ってこういう絵、一緒に描かない?」
「こんなきれいな絵が私にも描けるんですか?」
驚いて聞き返す月乃の手を、服部先輩ががっしりと握る。その手が俺には手錠に見えた。
「すぐには無理だけど、練習すればちゃんと描けるようになるよ。だから、一緒に頑張ろう」
「はい! 私、こんな絵を描いてみたいです!」
その月乃の返事に、俺はがっくりとうなだれた。月乃がああいった以上、俺に選択の余地はない。月乃の正体がばれないよう、また、寂しさで死んでしまわないよう、俺は月乃と一緒にいる必要がある。俺だけサークルに入らないという事は不可能だろう。
「ところで、そっちの君もどう? こういう絵以外にも、小説描いたり、漫画描いたり、音楽作ってる子もいたりするんだけど」
その誘い文句に、俺の脳が少し反応する。小説や漫画に、音楽やさっきの絵。もしかしてこの人、俺が興味を引かれたサークルに所属しているのではないだろうか? 大学入学当初、廊下の掲示板でたまたま見かけたある一枚の勧誘ポスター。少しは入ってみてもいいかなと一瞬思った、そのサークル。
「名前はCCA。Club of creation activityの略称で、創作活動サークルだよ」
目の前に差し出されたのは、廊下で見かけたのと同じポスター。装飾フォントで描かれたサークル名と、いくつかの絵。そしてビラの一番下には、部室の場所と活動時間が書かれている。
「ねえ、せっかくだからこっちの子と一緒に来てみない? 見学するだけでもいいし」
「直人さん、私、こういう絵が描けるようになりたいです」
服部先輩と月乃、両方から迫られて、俺は後ずさる。そりゃ、俺も興味はあるけどこういうのって別にサークルに入らなくてもできるし。あまりサークルに入る意味を見いだせないんだが……。 最後の抵抗とばかりに、俺の頭がフル回転で断る理由を探す。
「じゃあ、見学だけとりあえず」
しかし出てきた言葉は、そんなありきたりな妥協案だった。月乃の心をとらえられた時点で、俺に断るという選択肢はほとんどなくなっている。この妥協案も、実際のところ見学だけで終われるとは思えないものだった。
こうして俺は、予期せずして創作活動サークル、CCAに見学へ行くことになったのである。