正体
開いた口がふさがらない、という体験を初めてした気がする。まるでハンマーで思いっきり頭を殴られたように、俺の意識は完全にフリーズしてしまっていた。
月の、凹凸がない。もう、完全な球体になっている。ピンポン玉が真っ暗な空間に浮かんでいるようだ。宇宙にあらわれた新手のオーパーツみたいになってしまっている。
本日何度目になるかもわからない現実逃避的な思考が頭を埋め尽くしていく。今日はバイトの面接に行っただけのはずで、それだけで終わるはずだった一日なのに、なんでこう俺の常識を揺さぶることばっかりおこるかな。ルート分岐選択で何か間違えたか? 今日バイトの面接入れたっていう、それがフラグだったのか? いやいや、どんなクソゲーでももう少しましなイベント入れるぜ。ありえないだろ。
「直人? 大丈夫?」
耳にあてたままのケータイから姉の声が聞こえてきて、俺はようやく現実世界への回帰を果たす。
「あ、ああ、なんとか」
「ちょっと、これってどういう事だと思う? ねえ? 現役大学生のお兄さん、何かわかるでしょ?」
「文系男子に地学の問題出されてもわからねえよ」
最近の大学生を舐めてもらっちゃ困る。分数の計算がまともにできない大学生もいるんだぜ? つか、あんたも現役女子大生でしょ。
「あの……」
「うわっ!」
いきなり声をかけられて、俺は思わず飛び上がる。振り返ると、いつの間に後ろに回り込んでいたのか、先ほどの女の子がうかがうようにこちらの顔を覗き込んでいた。俺は思わず後ずさるが、テレビに阻まれてそれ以上後ろに行けない。ちょっと、顔が近い顔が。
「一体、誰とお話しされているのですか?」
月の一件ですっかり存在を忘れてしまっていた。そういえばこの子がいたんだった。
「ん? どうしたの直人? 誰かと一緒にいるの?」
電話の向こうにいる姉がこちらの様子を尋ねてくる。最近のケータイは声を拾う感度がいいから、どうやら女の子の声も少し聞こえてしまっていたらしい。
「いや、大学の友達が一緒にいて……」
「あ、また。誰もいないのに何やらお話しされてます」
「おお? なんか女の子っぽい声がしたけど? もしかしてもう彼女できた?」
だああああ! 無駄に音拾い過ぎなんだよこのケータイ! つーかこの子もそんなに近くで話さないでくれ。ドキドキしちゃうだろ。
「ちょっとちょっと、どういう事なの直人? お姉ちゃんに言ってみ~」
「あの、先ほどから一体誰とお話しを……」
ケータイと目の前の両方から質問を浴びせられ、俺の頭は混乱を極める。どちらから処理すればいいのか、いや、両方同時に処理するいい方法はないか必死に考えるが、混乱した頭では上手く考えがまとまらない。そんなふうに固まっていた時だった。
ピンポーン!
俺の暴走気味の脳みそが、そんな音にすぐさま反応した。これしかないと思った俺はすかさずそのチャンスに飛びついた。
「今から友達と鍋パーティーするところだったんだよ。今追加の友達来たから、悪いけど一旦切るわ」
そう早口にまくしたて、俺はケータイを切る。親愛なる姉がまだ何か言っていた気もするが、今は無視。そして今度は目の前の女の子である。
「ごめん、お客さん来たみたいだからちょっと待ってて」
そう言って女の子とテレビの板挟みから逃れる。なんかこの言い方、女の子とテレビ両方に責められてるみたいな言い方だな。
そんな余分なことにだけ回る思考回路を無視して、俺は玄関の扉に手をかける。そのまま勢いよく扉を開けたところで、頭の中の一部が冷静に反応した。
この状況は非常にまずい。
部屋には見知らぬ女の子。しかも男ものの服を着ているというオプション付き。こんな状況、例えば宅配業者のお兄さんや郵便屋さんに見つかりでもしたらそれこそ不審な目を向けられるだろう。いやそれよりも、お隣さんにでも見つかったら俺の人生まっさかさまである。見知らぬ少女を部屋に連れ込み、いけないあれやこれやをたくらんでいた犯罪者として警察に突き出される可能性も十分にある。今の状況は、人をやすやすと家にあげられる場面ではない。
しかし、そう考えた時にはすでに扉は開かれてしまっていた。どんな人がいたとしてもジ・エンド。そんな絶望的な状況の中、勢い余って開いてしまった扉の向こう側に立っていた人物。それは……、
一人の、腰の曲がった老人だった。
老人は、黒い袴を着ていた。
袴といっても、結婚式や卒業式などで見る一般的な袴とは少し違う気がした。先日体験した高校の卒業式の記憶を引っ張り出すと、上の服には黒地にところどころ白の帯や飾りのようなものがついていたはずだ。しかしこの老人の袴にはそういった白の装飾がない。完全な黒。そして下にはいている袴は、これまた黒に近い灰色だった。このまま通夜に出てもいいような黒さである。いや、通夜に袴はないか。
口元にひげはないが、顔に刻まれたたくさんのしわと、頭の白髪が年をとっている事を示している。髪の毛は長く、後ろで結んだ白髪は襟足を通り過ぎた辺りまで伸びていた。身長は俺の胸あたりと低い。その低い位置から、老人は人のよさそうな笑顔を向けてこちらを見上げていた。
「夜分に失礼するぞ」
そう発せられた言葉は思いのほか芯が通っており、力強さのようなものがうかがえた。その言葉に俺はどう対応すればいいのか困る。正直、全く見覚えのない相手だ。今日こんな人物が尋ねてくる約束も勿論ない。しかし、次の一言で俺の体は凍りついた。
「ここに、女の子が一人おるんじゃないかの?」
疑問形なのに確信を持った言葉。矛盾しているが、俺は老人の様子からそういった印象を受けた。
「えっと、どちらさまでしょうか?」
老人の問いには答えず、俺は尋ね返す。さりげなく、身を引きながら扉を閉めかける。心臓の鼓動が速くなるのを俺は感じた。
そんな俺の緊張をよそに、老人は間髪いれずに淡々と答えた。まるで俺が尋ねることをあらかじめ知っていたような、そんな態度だった。
「わしは帝釈天。おぬしが連れ込んでいる女の子をここに連れてきた張本人じゃ」
タイシャクテン。
その言葉を聞いて、先ほど女の子が話していた事を思い出す。ミヤコという場所でタイシャクテンに使えていたという言葉。もしこの老人の言っている事が本当なら、あの子の事が何か分かるかもしれない。
「すみません。ちょっとまっててもらえますか?」
そう言って俺は扉を一旦閉めた。何か言葉を投げかけられると思ったが、老人は何も言わず扉の外で立ったままであった。扉を閉める直前、扉の前に老人が立っている事をしっかり確認した後、俺は振り返って部屋の中に視線を戻し……
外にいるはずの老人が、部屋の中にいるのを発見した。
「は?」
そのあまりの展開に、俺は思わず声を上げる。そんな俺を見ておかしそうに老人は笑った。
「勝手に上がり込んですまぬ。あのまま待っていたら大分長引きそうだったものでな」
俺は急いで扉を開けて外を確認する。しかし、そこにはやはりタイシャクテンと名乗った老人の姿はなく、部屋には先ほど見たのと寸分たがわぬ老人が立っていた。
「え? いや、あんたどうやって……」
「あ、帝釈天様!」
俺の驚きと疑問の声は、そんな言葉でかき消された。女の子がいつの間にか部屋に出現した老人を見つけて叫んだ言葉である。
「ふむ、月乃。元気そうじゃな」
うれしそうな女の子に、タイシャクテンも笑顔を向ける。二人で挨拶してるところ悪いんだけど、俺をおいてかないでほしい。先ほどからありえないことの連続で頭が事態に追いついていってないのだ。
「どうして帝釈天様がここに?」
「今からそれを説明するところじゃよ。それより、まずは改めて自己紹介からじゃな」
そう言って、タイシャクテンと名乗った老人は俺の方に体を向ける。その笑顔に見つめられ、俺はなぜか緊張で体が固まった。老人の得体の知れなさと、笑顔の下に隠れている底知れない本性に警戒心が一層強くなる。そんな俺の警戒心をよそに、老人は人差し指を一本、俺に向ける。そして、見えない黒板に何か文字でも書くようにその指を動かした。
「先ほども言ったように、わしの名前は帝釈天。おぬしら人が言うところの神様じゃ」
その言葉と同時に、俺の頭の中に「帝釈天」という文字が飛び込んできた。老人のゆびの動きをみて文字を読みとったわけではなく、自然とその文字が頭の中に定着したのだ。その不思議な感覚に、俺の警戒心が少します。
「そして、こちらが月乃。わしが故あって連れてきた、月の住人じゃ」
今度は「月乃」という文字が飛び込んでくる。これが女の子の名前だろう。しかし俺の思考は、そんな文字の事よりももっと気になることの方に意識のベクトルを向けた。
「月の住人?」
「そう。月に住んでいたのじゃ。もちろん、おぬしが考えているような月面で生活していたわけではない。わかりやすく言えば、異空間で暮らしていたと言えばよいじゃろう」
異空間? 俺の脳がまた耳慣れない単語に反応するが、その疑問を口にする前に帝釈天が続きを説明し始めた。
「月は古来より、神がすむ場所とされてきた。その伝説に誤りはない。しかし、人が到達できる空間に神はおらぬ。いわば、この世と表裏一体の関係にある月の空間に我々はいたのじゃ」
帝釈天の言葉は続くが、正直言ってる意味がいまいちよくわからない。表裏一体の空間と言われても……世界に表も裏もあるの? ちなみに俺のいる世界は表と裏のどっち?
混乱する俺の思考を見抜いたように、帝釈天は少し考えるそぶりを見せてから言葉をつなげた。
「簡単に言ってしまうと、二つの世界があるという事じゃ。よくファンタジー小説などで違う世界を冒険する物語があるじゃろう? それと同じことだと考えればよい」
その説明で、俺はかなり納得が言った。つまり、俺たち人間が知らない、もう一つの神様の世界が存在していると。そして時空をゆがめるとか光の百倍の速度で移動するとか、そんな感じのことを月ですればその神がいる世界に行けると。そういうことか。うん、やっぱり実感がわかん。
「まあ、無理に理解しなくともよい。要は我々が別の世界から来たという事さえわかってくれればな。ただ、これから話すことだけは、しっかりと理解しておいてほしい部分じゃ」
そういうと、帝釈天はつけっぱなしになっているテレビに視線を向けた。その視線につられるように俺もテレビを見る。そこにはクレーターがきれいさっぱり消えた月が映し出されていた。それを見たとたん、俺はその重大事件の存在を思い出す。いきなりあらわれたこの老人にばかり意識が向いて完全に忘れていたのだ。
「おぬしらの常識では、これはあり得ん出来事じゃな。しかし、この現象はわしから言わせれば必然と言える出来事じゃ」
帝釈天は先ほどよりも声のトーンを落としてしゃべる。先ほどとは違う、深刻な話しをするような声だった。
「必然? どういうことだ?」
「この出来事は、この子がここにいることで発生したものなのじゃ。先ほど月にはもう一つの空間が存在している事は説明したな」
俺の疑問に、帝釈天は俺に向き直って答える。顔から笑顔は消え、一見無表情ともとれるその顔に、なぜかとても不安な気持ちにさせられた。
「月にある二つの空間は、いわば光と影のような存在じゃ。わしら神がすんでいる空間に異変が起きれば、影の部分であるおぬしらの月に異変が起きる。その一例が今回の、クレーターが消えるという現象じゃ」
帝釈天の言葉に、俺の頭はまた混乱し始める。光だのかげだのまたややこしい言い回しだ。しかし、今回の説明ではニュアンスでわかるものもあった。つまり、帝釈天たちがいた世界で何か変化があったから、クレーターが消えたと。
「少し突拍子もない質問じゃが、おぬしが今まで見上げてきた月には、何が見えた?」
いきなり変な質問を投げかけられて、俺の頭は混乱する。しかしそれもつかの間、俺はすぐに思いついたことを口にした。
「何って、クレーターでできた兎の模様が見えてたけど……」
そこまで自分が答えたところで、ある可能性が俺の頭をよぎった。兎の模様? その兎の模様は、一体何をしていただろうか?
「都で帝釈天様にお仕えしておりました。私はそこで下女として働いており、主に餅つきを担当して居りました」
先ほど月乃という少女が言った言葉がフラッシュバックする。もし帝釈天の話しが正しいのであれば、月乃は異空間にある月からやってきたことになる。
俺の表情を見て、帝釈天はゆっくりとうなずく。そして、当たらないでほしいと願っていた俺の想像をそのまま口にした。
「月乃はおぬしらが見ていたクレーターの模様そのもの。つまり月乃が来たことで、月のクレーターはなくなったのじゃ」
その一言で、目の前に立っている女の子への見方が一気に変わる。その愛くるしい笑顔を見て、素直にかわいいだの、できたらお付き合いしたいだのという思いは消えた。今俺の中にあるのは、自分では抱えきれないような、大きな存在を抱えてしまったことに対する不安感と焦燥感である。
俺の大学生活に、暗雲が立ち込めていた。
説明が長くてすみません。もう少しだけお付き合いください。