残りわずかの平穏な日常
「おーい赤穂さん」
俺は小柄な女性に呼びかける。彼女の名前は赤穂実梨、同じ大学の二つ下の後輩だ。大学の知り合いなんてほとんどいない俺が名前まで知っている。
……彼女は有名人なのかって?
いや、バイト先が同じなだけ。
……ってあれ、反応がない。まさか間違えた? でもあの手の平の半分まで袖がある身長に合っていない服装、後ろ髪が少しはねたショートヘア、そしてなにより保護したくなるような、か弱い雰囲気は赤穂さん以外ありえないはず……。
俺は駆け足で近づき、横顔を確認してから(――間違いない)もう一度声をかけ、肩をたたいた。
「よっ、赤穂さん今日はどうしたの?」
「ふきゃっ……あっ、とっ戸山先輩ですか。びっくりしましたー。バイトの帰りですよ。そういう先輩は……」
赤穂さんは俺の手の方に目をやる。
「買い物帰りですか」
「そう。腹減っちゃってさ。それよりどうしたんだ? ぼーっとしてたけど」
「……な、なんでもないですよ! バイト帰りで少し疲れてるだけですから!」
赤穂さんはぱたぱたと手を振って否定する。
「そっか。無理しちゃダメだぞー。最近バイトの量増やしてるだろ。ほどほどにしないと。まだ学生の身なんだし勉……」
勉強が学生の本分――と言おうと一瞬思ったけど……ついさっき留年が確定した自分が言う資格はないな。
「……べん、弁当が買えるだけ稼げればいいだろ」
我ながら苦しいつなぎ。アドリブはやっぱり苦手だ。
「弁当ってどんなのですか? 種類によって値段も違いますよ?」
えっ? そんな弁当の話を掘り下げるの!?
無理やり言葉をつなげただけだから、『一日一時間も働かなくていいじゃないですか』とか『さすがに稼がな過ぎでしょ!』とか言って、流してほしかった……。
えーと……。
「……焼鮭弁当かな」
「なるほど、戸山先輩は焼鮭が好物っと……ふふっ、本当は弁当じゃなくてなんて言おうとしてたんです?」
赤穂さんはニコッと笑い、あどけない目でこちらをじーっと見てくる。
あっ、やっぱり無理してたのばれてた? ってか、からかわれた!?
「いやー、勉強のことを言うつもりだったんだけどさ。俺が言うのは何か違うかなーって」
「確かに先輩には言われたくない一言ですねー。この前追試がどうとかバイトの休憩時間話してましたし。あれっ? 今日がその追試じゃありませんでしたっけ?」
「おう、昼間行ってきた」
「出来は?」
「ダメダメ。あれは留年確定したな」
「へー、ダメだったんですか……って大丈夫なんですか? えっ! 留年!?」
「そう。でもまあなんとかなるだろ。一年間空いちゃったわけだけど、仕送りが無くなることを考慮してちょっとバイト増やそうかなーって思ってるくらい」
「はあー、雰囲気がいつもと同じだから気がつきませんでした。まさか留年がかかっている追試だったとは……。余裕そうに見えましたけど」
「いや、いろいろあってさ……」
実際に現れた悪魔に願い、悪魔の策略――ただのカンニングに失敗したなんてどう説明すればいいのやら。
現実と妄想がごちゃ混ぜになっているとか思われそうだ。
「へぇー……」
赤穂さんが訝しそうな目をしている。
そんな目で見ないで!
何も言えないよ? いや話せなくはないけど。そうしたら明日からバイト中、可哀想な目で見られるかもしれないから!
ええと、何か話題を変えないと……。
「そうだ! 赤穂さんがバイト増やしてる理由は? まだ聞いてなかったよな!」
「えっ? それですか? それは……」
「何か欲しいものがあるとかじゃないのか?」
「いいえ、欲しいものは特にないんですけど……。ちょっと先輩には言い辛くて……」
声が徐々に小さくなり、顔を逸らす。
何か悩んでることでもあるんだろうか? おっ頼れる先輩らしくなるチャンス?
「悩みがあったら相談してよ」
……どうだ!
「戸山先輩には相談できないんです。……あっ、えっと、打ち明けてもまた適当なこと言う気がしますし」
うわー、そう思われてたんだ――まあ間違ってないかも?
「そんなことないって! 悩みぐらい聞くよ。解決する気があるかないかは別として」
「うー、最低限やる気はあってください……。せめて別にするのは『解決できるかできないか』にしてくださいよ!」
後輩に叱られてしまった。どうやら頼られる先輩になれるのはまだ先のようだ。
「先輩は悩みとかないんですか?」
「いやないかな。そうだなー、強いていうなら赤穂さんがたまに俺にデレてくれたらなーとか思うくらいだ」
「デレているじゃないですかー。ほら今も一緒に話していますし」
「デレの部分ってそれだけ!? もっと頼ってくれるとか、甘えてくれるとかは? それに今がデレならツンになると……」
「それは知らなくていいと思いますよ」
赤穂さんが笑う。
このタイミングの笑いはちょっと不気味なんだけど……。
「あっ、でも逆に考えれば、バイト中とかいつもデレてくれてることになるか」
「えっ、そう考えますか。すごくポジティブですね」
「だろ!」
「いや皮肉を交えたつもりなんですけど……。ふぅ、戸山先輩っぽいですね。やっぱその考え方はうらやましいとも思います。私は少し物事をマイナスにとらえちゃうところがありますし……。もうちょっと積極的に考えれたら今の悩みも……。頼れる人に相談してみようと思います」
あっ、結局俺に話すわけではないのね。はー、普段の行いを直すべきか……どこを直せばいいんだろう?
「おっと、じゃあまたバイトで」
気がつけば自分の住むアパートの前まで来ていた。
「はい、また明日」
赤穂さんはそのまま真っ直ぐ歩いていった。
俺は家の鍵を開ける。
平穏な日常が戻ったと思っていた。
留年という事故はあったけど、まあ道端の石につまずいたくらい。どうってことはない。
平穏。順調。ゆったりとした日常。
ただ目の前の光景は明らかにこれらを壊しにかかる、そんな予感がする。
玄関のを開けた先には机に突っ伏しているルナの姿があった。