PMWのクリスマスキャロル
「シュレーディンガーになにしに行くの?」
少年はマグカップを手にしたまま、男を見る。
「出稼ぎの帰りだよ。家族が待ってるんだ」
男は云った。そしてサンドイッチを美味そうに頬張る。
年は自分より2回りも離れているだろう。だが傍でみるとなかなかのイケメンだな、と少年は思った。
シュレーディンガーはメイン州の北端にある町だ。
人口は10000人に満たずポートランドほどの大都市には程遠いが川を挟んだ町の東には空港があり、町の中心地には大規模な商業ビルがある。
若者がうさを晴らすには十分に機能的な町だった。
この町まで行くには40マイルほどの長く伸びたハイウェイをあと1時間ばかりドライブしなくてはならない。ここドライブインの周囲もすでに都会の風景とは切り離され、退屈な田園風景が広がっている。
この目の前の男とはつい1時間前に会ったばかりだった。
少年には眠気と寂しさを吹き飛ばすために同乗者が必要だった。ドライブインより少し手前のインターステートで「シュレーディンガー」と書かれた紙を掲げたヒッチハイカーを乗せることに抵抗がなかったわけではなかったが、男の痩せた風体をみてトラブルになった場合のシュミレーションの結果、少年は男の前で車を停止させたのだ。なにより目的地が同じだという偶然が少年の心をいつもより前向きにさせていた。
「ちょと、嫌なことがあってむしゃくしゃして……気分を変えたくってさ」
ドライブの理由を尋ねると、少年は曖昧な笑みを浮かべて肩をすくめた。
「シュレーディンガーって名前がご機嫌だよね?町のことをもっと教えてよ」
同乗のお礼にと男に奢ってもらったアイスクリームサンデーを食べながら少年は人懐こい笑みを男に向けた。
その時、ウェイトレスの明るい笑い声が店内に響いた。デパートのバラエティコーナーで購入したのだろう。安っぽいサンタの仮装をした老いた男がウェイトレスにプレゼントを手渡ししている。毛糸で編んだ赤い靴下の中には妻が焼いたのだろう手作りクッキーが入っていた。
ウェイトレスは予想外のクリスマスプレゼントを受け取り童女のように顔を輝かせ、サンタのパフォーマンスを見て楽しげに笑った。
「ちょと、あなた、おやめなさいよ。バカね。子供みたいに」
老サンタクロースの奥方だろう。呆れた笑みを浮かべて夫を窘めるが老サンタは笑って聞き流した。
「構わんだろう。孫たちに会う予行演習だ。ヨーホーホー」
やがて老サンタは男と少年の元にもやってきた。もっともこのちっぽけなドライブインに客と呼べる人間は男と少年と、この老夫婦しかいなかったのだが。
「サンタからのクリスマスプレゼントだよ」
ウェイトレスに渡したものと同じものを男と少年に手渡す。
「あのトナカイのステッカーが貼ってある車、おじさんの?いかしてるね」
スカスカの駐車場には2台の車だけ。少年の真っ赤なBMWと、走行距離20万距離には達しているだろうと想像できるプリウスがある。プリウスにはトナカイのステッカーが貼られ見た目クリスマス仕様になっている。
「あれは特別性のソリだ。あれに乗って孫たちの家までひとっ飛びさ」
老サンタはウィンクをしてみせる。
「楽しいクリスマスを!」と陽気に叫ぶと、サンタクロースは連れに引きずられるような形でプリウスに乗り込み、老夫妻はドライブインを去っていった。
「あれはキミの車?」
駐車場に一台だけ残った赤いBMWに視線を移す。
「兄貴のだよ。パパに買ってもらったんだ」
「マジかよ。すごいな」
「パパは会計士で残業代込みで年収6万ドルってところかな。ママは大学でフランス語の臨時講師をしてるよ」
「理想のアメリカ人の家庭だな」
男は笑った。
細やかな腹ごしらえをすますと再び、BMWがハイウェイに復帰し長い1本線の道路を北に向かって走りだした。退屈な似たような風景がどこまでも続いていた。世界の終わりまでこのままなのではないかと思えるほどの殺伐とした絵だった。
だが地平線と繋がったハイウェイの向こうに横転した車がみえた時、男は助手席からぎょっとして身体を起こし、少年は急ブレーキを踏んだ。逆さまになった車体にはトナカイのステッカーが貼られている。
上半身だけ車の中から突出し道路に投げだされた状態で、サンタの赤い服を着た老人が仰向けに倒れていた。
「主人が発作を起こしたの!主人を助けて、お願い!」
老婦はパニックを起こし、叫びながら男にすがりついた。夫を車から引きずりだしたのであろうその冷静さと気丈さは完全に失せていた。同じ言葉を何度も繰り返し、男のシャツを引き千切らんばかりに強く掴んだ。
男は老婦を落ち着かせようと声を上げて宥め、少年に向きなおる。
「じいさんを運ばないと……手伝ってくれ」
だが少年はなにも答えない。虚ろな表情で逆さまになったトナカイのステッカーをみていた。
「なにぼーっとしてるんだ。お前の車で運ぶんだよ」
怒気の含んだ声音で男は言葉を投げつけた。
「それは、ダメだ」
少年は我に返ったように目を見開き、男を見返すときっぱりと云った。
「ダメなんだよ!俺の車じゃない」
「事情を話せば兄貴だって分ってくれるだろう」
「盗んだんだ!‥‥」
少年は怒鳴った。
「うちの親父は飲んだくれで、おふくろは愛想尽かしてとっくの昔に逃げちまって、親父は酒のんでばっかりで、オレに命令してばっかりしてオレを殴ってばかりいて……兄貴は親父と一緒にいたくなくて海軍に逃げた」
早口にまくしたてると一呼吸おき、そして言葉を次ぐ。
「これが現実だよ」
今にも泣きそうな青白い顔で少年は力なくかぶりを振った。無表情で聞いていた男は「車に運ぶんだ」と短く命じた。
「お前の力が必要なんだよ。早く町に運ばないと手遅れになる」
しかし男はもう少年の返事を待ってはいない。
迅速な動作で車の傍らに腰を落とすと老人の脇の下から両手を回し上体を抱えて残りの下半身を車から引っ張り出した。ぐったり鈍い重みは最早、人のそれではなく、なにか重たい麻の袋を引きずっていようなむかつく感覚であった。老婦人を呼んだが、返事はなかった。紙のような顔色でその場に佇み、立っているのがやっとな状態である。
苛立った男が立ち上がりかけた時、大きく影が動いた。やってきたのは少年だった。少年は老サンタの両足を抱え2人で慎重にBMWの後部座席へと運びこむ。半ば放心状態の老婦を抱きかかえるようにして無理矢理シートに押し込むとBMWは走り出した。
この救出作業の間、少年が期待していた他の車は一台も通らなかった。
無人のハイウェイの制限時速を遥かにオーバーして男はBMWをひたすら走らせる。途中、反対車線を走る何台かの車とすれ違ったが、ロケットのようにかっとんでいくBMWを呆れた顔で振り返るドライバーがほとんどだった。
「サンタのじーさん、がんばれ。あんたのプレゼントを待ってる孫がいるんだろ、がんばれ!死ぬな!」
すでに老婦は放心していた。祈るのに忙しかったのもしれない。
少年は老婦に付き添うように後部座席に乗り込み、この世界に老人をつなぎとめようと必死に言葉をかけ続けた。しかし老人の意識はBMWの中にあるようで、どこか遠い夢の世界を彷徨い、さらに遠い神の領域を彷徨い、まるでどちらに行くか迷いあぐねているように、その弱い心臓の鼓動は行ったり来たりを繰り返している足音のように少年の耳を掠めるのだ。
「別に一緒に来なくてもよかったんだ……」
男はバックミラー越しに少年を見た。
「俺の力が必要だっていってくれたのは、あんただけだ」
しばらくの間をおいて少年は答える。
「嬉しかったんだ」
最高時速のスピードで漸く州の最北端に位置するすこし気の利いたつもりの田舎町に滑り込んだ時、けたたましいサイレンの音と共に州警のパトカーがBMWの後を追ってきた。パトカーのマイクから流れる緊急停止命が車のボンネット上にやかましく飛び交っている。
「これで仮釈がパーだ」
男はハンドルを握りしめながらいきなり笑いだした。心底、おかしいという風に‥‥。
少年は口を半開きにし驚きの表情で男を見遣る。
男は車を停止させ、同時にパトカーから警官が下りてきた。老婦は責めるように、懇願するように男を見据える。警官がドアに近づいてきたのを待っていたかのように男はBMWのアクセルを踏んだ。もちろん、エンジンをかけたままのパトカーがすぐに猛り狂ったように追跡をしてくることは男には分っていた。同時にこの界隈のメイン通りの向こうに救急病院があるのも分っていた。そして重要なのが自分がいま何をしなければならないのかという事も。
BMWはメイン通りの2斜線の間を割り込みながら走行し、反対車線に入り込みとスピードはそのままで対向車をハンドル操作だけでよけていく。殺気さえ込められたクラクションが一斉に鳴りはじめBMWを非難するものの、対向車は歩道すれすれに回避せざるを得なかった。
十字路からすべりこんできたトラックがBMWをよけようと大きくカーブを描いて道路の真ん中で急停止をするのがサイドミラーで確認できた。トラックが道路を遮断する障害壁となりパトカーをBMWの間に大きく距離をつくる役目を果たしている。やがて男の目の前に見覚えのある白い建物が見えた。
大きく開かられていたゲートを通りぬけ救急病院の敷地内にまっすぐに滑り込み入り口に車を横付けする。この頃には老婦人も冷静さを取り戻し、車から降りると叫びながら受付に飛び込んでいった。その後、5分もかからずにストレッチャーを押しながら現れた病院スタッフがBMWの後部座席からサンタクロースを運びだしてゆく。その手際の良さは見事なものだった。
やっと追いついてきたらしいパトカーのサイレンが近づいてきた。
男はバックミラーに映る少年に向かって口を開いた。
「親父は飲んだくれで、おふくろは愛想尽かしてとっくの昔に逃げちまって、親父は飲んだくれてはオレに命令してばっかりで……嫌気がさしたオレはいっぱしの悪党になろうと決めて大きな町に出ていった。鼻息だけは荒いどんぐりの背比べのガキどもに囲まれて、ケチな強盗で逮捕された。少年院から出たところでもちろんまともな職なんてあるはずがない。そのうちに盗みで捕まり、詐欺で捕まり‥‥気が付けばシャバとムショとを往復する毎日。待っていてくれる家族もなければ、友人もいない」
男は老サンタにもらった赤い靴下を後部座席に向けて放った。それは少年の膝の上に落ちた。
「未来をみるのに精霊なんて必要ない」
追いついたパトカーにより病院の入口は閉鎖された。応援のパトカーのサイレンもどこかの横丁から聞こえてくる。
「お前の目の前にいる男……これが、お前のクリスマスキャロルだ……」
哀しそうな表情で少年を見る。
「これが現実だよ」
言葉を終えると少年を後部座席に置き去りにして独り、車から降りた。
両手を上げて警官に近づいてゆく。警官は銃に手をかけ、前屈みで車のボンネットに両腕を突くように男に厳しい口調で命じた。背後から近づいてきた警官によりあっという間に後手に手錠をかけられ、男は拘束された。
少年は赤い靴下をいつまでも抱きしめていた。
小さい頃、祖父にもらったクリスマスプレゼントが思い出された。
祖父が長い闘病生活の末、あっけなくこの世界から消えたその晩、祖父がサンタクロースとなってプレゼントを配っている夢をみた。
なぜこんな大切な事を自分は今まで忘れてしまっていたのだろう。
一人の警官が後部座席の窓を強く叩いたが少年の瞳はずっとどこか遠くを、そして目の前の男を見据えたまま微動だにしなかった。
赤い靴下をお守りのように強く握りしめたまま少年はドアを開けると、中をのぞきこむように顔を突き出した警官に向かって、ゆっくりと言葉を発する。
「車を盗んだのは…………」