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 私の家族の中心は、お兄ちゃんだった。

 ママとパパは、ずっと、子供が欲しかった。でもなかなかその希望は叶えられなかった。何年も無為な時間が過ぎ、希望を打ち砕かれ、もう諦めようとしたそのころに、待望の長男を授かった。

 それがお兄ちゃんだ。ママとパパは、彼を愛した。

 三年後に生まれた長女さえ、その愛の前には無意味な存在だった。

 お兄ちゃんは優秀だった。優等生で、絵に描いたようないい子だった。ママとパパは彼を溺愛し、欲しいものはなんでも与え、どんな環境をも彼に与えようと努力した。お兄ちゃんもまた、たまにその期待に押しつぶされそうになりながらも、それに応えようと努力した。

 私も、ママの愛を勝ち得ようと頑張った時期がある。成績が上がると、ママは良かったわね、と微笑んだ。でも、お兄ちゃんよりいい成績を取ると、お兄ちゃんが気を悪くしてしまうからお兄ちゃんの前で言ってはだめよ、と優しく諭された。だから私は努力した。お兄ちゃんよりいい成績を取らないよう、でも低い点には落とさないよう、上の下の成績をキープするために努力した。

 ママとパパから、与えるだけのものはたくさん与えられたが、本当に欲しいものはもらえなかった。

 お兄ちゃんが、世界の中心だった。

 世界の端役にすぎなかった私には、光を浴びることも、望みを叶えられることもあるはずがなかったのだ。

 親の愛が偏っていることに気づいていたお兄ちゃんは、困ったねというように微笑んで、ときおり私におこぼれをくれた。

 私はお兄ちゃんが好きだった。ママとパパだって好きだった。

 でも、好きなだけじゃ上手くいかないことだって世の中にはある。

 お兄ちゃんが結婚して、親と同居しようと決めたとき、私は家を出ると言い、その要求はすんなり受け入れられた。

 一人暮らしをする理由なんていくらもあるはずなのに、それを言えなかった。一人になりたいから、職場が近いから、親の干渉を受けたくないから、普通の人ならこともなげに言い放ってしまえるだろうその言葉を、私は言えなかった。仕方ないから、家を出ざるを得ないよね、そう言ってしまえるだけの理由がなければ、私は、家を出ることがどうしてもできなかった。

 ママも、パパも、お兄ちゃんも、誰のせいにもしたくなかった。

 でも、私は家を出てから一度も、電話の一本すら入れられずにいる。怖かった。私がいないことで、余分なものが減ったおかげで成った、一つの家族の完成形を私は確かめることができない。

 それなのに、いまだに、私はママに褒められる要素が自分にないか、考え考えしている。わずかな希望にすがりついて、それを捨てることができない。

「……嘘だ」

 私は呟いた。学者さんの家から思わず飛び出してきた足を、ぴたりと止める。太陽は既に西に傾き、背中の方から溢れるように差すオレンジの光が、私の足の間を抜けていった。

 学者さんの話は、明瞭だった。私があちらの世界に帰るときは、こちらの世界に来たこと自体がなかったことになる。時間は巻き戻る。

 つまり、帰還が叶えばその瞬間に、私はトラックに撥ねられる。

 生きていられるかもしれないが、死ぬかもしれない。打ちどころが悪くて、植物人間になる可能性だって、ゼロではないかもしれない。そうしてそうなったら、離れて暮らしているはずの家族に迷惑を掛けまくり、ママは私を生まなければよかった、と思うだろう。

 ――つまり、私は帰れなくなったのだ。

 その瞬間、私はほっとした。私は、自分のその反応を予期していた。

 だから知りたくなかったのだ。

 愛する家族に会えなくなって安堵するなど、人でなしではないか。

 私は、自分がそういう人間だということを、認めたくなかったのだ。



 西日はきらきらと地平線に呑み込まれ、濃い藍色の夜の世界が訪れようとしていた。

 ぼんやり歩いていたら、私の行く先を二人組の男が遮った。

「なんだあ、坊っちゃん、迷子か?」

「おっと、いいお召ものを着てるじゃねえか。さぞかし金もたんまり持ってるんだろうなあ」

 にやにやと男どもは笑い、私は無感動にその顔を見上げた。ああ、そういえば、裏道とか、夜の路地裏は危ないって言われてたっけ。酒場も、場所によってはそうって言ってたかも。日本に居ると、暗い夜道に生命の危機を感じる、ということがなかったから、頭からすっかり抜け落ちていた。

 じりじりとこちらに迫る男どもを見ていても、現実感というのがさっぱり沸いてこない。

 さすがに、お世話してくれているのが王子様と宰相閣下というだけあって、私はそこそこ良い身なりをしているらしい。お付きの人とはぐれて途方に暮れているようにでも見えたのだろうか。

 いまの私が一文無しで、なおかつ金をむしり取れるような名のある家の子でもないと知ったら、彼らはためらいなく私を殺すだろうな、と思った。

 この国では、単に人ひとりが殺されたぐらいでは、新聞に載ったり、厳重な警備態勢が敷かれたり、というようなことはないのだろう。私にとって非日常なことが、ここでは日常なのだろうと思う。

 痛いかな、と思った。どうせ死ぬのなら、トラックに撥ねられるよりも、彼らの持っているナイフで咽喉を一線に裂かれた方がまだ楽な気がする。

「お金は、持っていません。あっても、あなたたちにはあげませんけど」

 うっかり余計なひと言まで付け加えると、手前にいた男の顔色がさっと変わった。どうやら激昂したらしい。気が短いな、と私は思う。

「そうかい、じゃあおまえを黙らせてから、その言葉が本当かどうか調べてやるよ!」

 言うや否や、男は手に持ったナイフを振りかぶる。その瞬間、少しだけ現実感が戻ってきて、私は咄嗟に目をつぶって顔を斜めに向けた。

 ――痛くなかった。

 あれ、と目を開けると、男が一人伸びていて、その背を新たに現れた男が踏みつけていた。

 その兄さんは、手に鞘に入ったままの長剣を引っ提げている。逃げようか攻撃しようかためらっている残る男の隙をついて、兄さんは地面を蹴って肉迫すると、柄で男の首筋を叩きつけて昏倒させた。

 おお、お見事。

 ふっと一仕事終了の息を吐くと、振り向いて兄さんはこちらに向き直った。これって、助けてくれたのかな。それとも、単なる獲物の横取りかな。

「大丈夫か、怪我は?」

 兄さんの言葉に、反応がちょっと遅れた。兄さんは、私を助けてくれたらしい。そうか、私の常識と違っていても、悪い人ばっかりが歩いてるわけじゃないんだ。でもこれって、ありがたい、と思うべきなんだろうか。放っておいてくれて良かったのに、と思うところなのかな。なんだか、私はまだ混乱している。

 ぼんやりしている私を見て、兄さんは困ったように頭をかいた。

「大丈……あ、そっか、言葉が違うのか」呟いて、兄さんはひとつけほんと咳をする。「――嬢ちゃん、怪我ぁないか。私ん言葉、わかりおる?」

「――え、えっと、はい」

「えかった、久しぶりじゃけ、忘れてしもぉたと思うた」

 ……その話し方に驚いたが、なんとなくわかった。兄さんが最初に話したのは外国語で、次に使ったのは外国訛りのこの国の言葉だ。結論。私の翻訳能力はどの国の言葉でも訳す。そして外国訛りは方言っぽく訳されるらしい。

 方言って。私の地方のとは違うけど、聞いてたらなんだか懐かしくなった。ほっとしたら力が抜けて、私はその場にへたり込む。

「嬢ちゃん、しっかりしんさい」

「えっと、お兄さん、私、女の子に見えますか」

 言うべきことを間違えている気がするが、つい、そんなことを口走ってしまった。

「うん、男ん格好しとるようじゃが、君、女の子じゃろ」そう言って、兄さんはくしゃっと苦笑する。「それに私、嬢ちゃんから見るとおじさんじゃけ、お兄さんなんて呼ばんでええよ。私ん名前はキリルじゃ」

「私は光里です。……そうですか、私、お世話になっている人のところでは男だと思われてるから、そういうことで通しているんです。だから自分のこと、男に見えるんだって思ってました」

 というか、初対面の印象がひどすぎたから、そう刷り込まれたのかもしれないけど。

「物事の見方はひとつとは限らんけぇね」

 と兄さんは微笑んだ。やっぱりなんだか、ほっとする。――考えたら私、こっちに来てから私の事情を全然知らない人と話すのが初めてなんだ。兄さんのしゃべり方もあるんだけど、会話をしていたら、気負っていた身体の強張りが解けてゆく気がした。

 ちなみに兄さんは、おじさんではないと思う。中学生ぐらいの子から見ればおじさんになるのかもしれないけど、私にとってはまだまだお兄さんと呼べる年齢だ。見たところ。

 後始末をせにゃあ、と兄さんは呟いた。

警邏けいらに声かけてくるけえ、ちぃと待っとりんさい。あとで送っちゃるけぇね」

 こちらに声を掛けて、兄さんは走っていってしまった。なんか和む、あの兄さん。


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