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 その日、私は馬に乗ってある丘まで向かうところだった。

 もちろん私は馬になど乗ったことはなく、御し方もまったく知らなかったのだが、鞍から落ちさえしなければなんとかなった。

 なぜかといえば、意外にも例の力が役立ったのだ。その力は、人の言葉を翻訳するだけでなく、動物との意思疎通にも役立った。とはいえ、動物は言葉を持っているわけではないから、感情なんかがなんとなく伝わってくるだけだけど。その代わり、こちらの言葉はしっかり理解されているらしく、手綱で伝えなくとも馬は私の行きたい方向を理解してくれた。

 そんなわけで私は、今日初対面の馬のステラに乗っている。大人しい牝馬で、私を振り落とさないように気を遣いながら走ってくれるいい子だ。

 先導は熊さんで、私はなにやら、これから勇者の墓に行こうという破目に陥っている。

 ちょっと興味が湧いたので勇者のことを知りたい、と言ったら、閣下が墓を見てくればいいとおっしゃったのだ。どうも、私が屋敷の中にこもってばかりなので良くないと思われたらしい。

 そしてもちろん、馬を操るなどという行動的なことはあっさりと熊さんにおまかせになった。

 私も、乗馬ってちょっと興味があったから承諾したけど、まさか熊さんと二人旅だとはなあ。面倒だ。

 とはいえ、馬で三十分程度の軽い距離らしい。まだ慣れない私は早駆けが出来ないので、もう少しかかると思うけど。

 そうしてしばらく馬を駆ると、私たちは目的地にたどり着いた。

 丘の上に、いい風の通るところに、夜は満点の星空が見えるところに、春は野の花が咲き乱れているところに、ひっそりと、勇者の墓は建っていた。

「勇者ってのも、外から来た人なんだよな」

「外、ですか?」

「そう、異世界人ってやつだ。ちいとばかし来るのが遅かった、と言ったろう。おまえも一歩間違えれば勇者に祭り上げられてたかもな」

 そう言いつつ、熊さんは冗談だと言わんばかりの笑い声を上げた。

 そうですか、と答えて私は熊さんを横目で見つつ、墓の前に膝をついた。そして、地面と平行に置かれている石碑の文字を目で拾った。見慣れない文字が、頭の中でひとつずつ意味を成してゆく。

 そうして読み上げた文字は、

 ――ササノダイジロウ。

「ささ……の?」

 途端に、閣下の言葉が脳裏に蘇った。ササノというのはよくある名前なのかと。ササノ。笹野大二郎。

「……なんてこと」

「ヒカリ?」

 地面にぺたりと座りこんでしまった私を見て、熊さんが怪訝そうに声を掛ける。

 私は痛む頭を押さえながら、小さく首を横に振った。

「この人は、私と同じ世界の、同じ国から来た人なのでしょう。同姓同名の、別人かもしれませんが、この人は、私の大叔父、だと思います。戦後の混乱で行方不明になったと聞いています」

「……そうなのか」

 さすがに熊さんも驚いて息を呑む。

「大叔父さんがここに眠ってるってことは、彼は帰れなかったのでしょうか。それなら……」

 私も、帰れないのかもしれない。

「帰らなかっただけなのかもしれない。それに、伝承に残っている幾人かは、自分の世界に帰ったという記録が残っている」

「――そうなんですか?」初耳だ。

 だから絶望するなとでも言いたいのか。

 私は、ズボンの裾についた草を払って立ち上がった。

「せっかく連れてきていただいた早々で申し訳ありませんが、私はこれで失礼させていただきます」

 熊さんの返事を待たず、私は背を翻した。馬のステラに合図をして屈んでもらい、その背に飛び乗る。

「ステラ、走って!」

 走って。速く速く。く駆けて。その思いだけをステラに伝える。

 私は必死でステラにしがみついた。走ってさえいてくれれば、どんなスピードでどんなふうに駆けてもかまわなかった。目の奥がちくちくした。振り落とされないようにすることだけ考えていれば、他のことは考えずに済む。

 それでも、さほど距離のない道程はすぐに駆けてしまった。私はステラを厩舎に連れて行き、彼女が望むままに身体を拭いてブラシを掛けた。

 勇者のことを知りたかったのは、彼がどんな能力を持っていたのか知りたかったからだ。同じ力を得た私にも、その片鱗が現れるかもしれないではないか。そういう下心があって、私は遠乗りの話に乗ったのだ。

 特別になれると思ったのに。

 私がこの世界に現れて、この力を授かったのは、私が特別だからだと思いたかった。私にも何かの意味があるって、この世界に必要とされてるって思いたかったのに。

 それなのに、私がここに来たのは単なる偶然で、この力もたまたま勇者の血縁だったから得ただけだったなんて。

 この力が私になじんだのは、私が勇者と同じ血筋で、彼と波長がよく似ていたからだろう。特別だったのは大叔父さんだ。私じゃない。

 力を手に入れたと思ったのに。特別になれたと思ったのに。

 私が優秀なら、誰と比べることもできない唯一無二の特別な力を持っていたら、

 ――ママに褒めてもらえたのに。

 はっとして、私は両手で顔を覆った。

「違う。ママは褒めてくれない」

 しっかりしろ、と私は小さな声で自分を叱咤する。

 私は混乱している。最近子供扱いばかりされていたせいか、思考基準まで幼くなってしまっているのかもしれない。駄目だ、しっかりしなくては。

 もちろん、私だって、帰れるかどうかということを少しも考えなかったわけではない。

 むしろ、考えないように努力していた。

 私は知りたくないのだ。

 自分が帰れるのか、帰れないのか、その答えを、私は絶対に知りたくない。



 その昼下がり、日も中天を過ぎたころ、突然、熊さんがこう言った。

「クローネという学者に会って来る。おまえも来い」

「……理由を聞かせてください」

 皿の上のケーキを堪能していたところ、フォークを握りしめた手も置かないままに、私は尋ねた。

 申し出が唐突すぎる。だいたい、なんで私が熊さんに同行しないといけないんだか。

「別の世界というのを研究している男だ。おまえの帰還についてなにかわかるかもしれん」

 そう聞いて、私は慌ててグラスの水を飲み込んだ。込み上げてくるものを流し込む。水は咽喉を淀みなく流れたが、つかえたような感覚は取れなかった。

 なぜいまになって、と思ったが、宰相閣下は当初よりその学者に渡りを付けようとしていたらしい。しかしその人は外国に出かけていて、ひと月ほど戻らない予定だったらしいのだ。

 それがやっと戻って来たので、会いに行くということになった。

「子供にいきなり現実を突き付けるのもどうかと思ったがな、やはりおまえも行くべきだ。来い」

 配慮しているように見せかけて、やはり熊さんは容赦ない。抗議の声を上げようとした私はしかし、明らかな正論でたちまちねじ伏せられる。

「おまえが帰れるのだとしたら、早く知った方がいいだろう。仮に、帰れないのだとしても、知っておいた方がいい。おまえはな、この先も生きてかなきゃいけないんだ。中途半端な存在でいつまでもふらふらしているより、自分の足元をさっさと確かめておいた方がいい」

 反論は許されなかった。言えば聞いてくれるだろうが、その場の空気がそれを押し留めた。それに、私が行きたくない理由を、聞きたくない理由を、自分で明確に説明できるとも思わない。

 説明したいとも思わない。

 だから私は、行くことにした。

 訪ねたお屋敷の庭先には、色とりどりの花が綺麗に植えられていて、カラフルなそれが、少しだけ私の気持ちをしゃんとさせた。

 当の学者さんには、閣下が先に伝令を送っていたこともあって、すんなり会えた。むしろ、自ら出迎えてくれたぐらいだ。たぶん、異世界人の話をじかに聞きたいという学者根性も混じっていたんだと思う。

 学者さんは、丸い眼鏡の良く似合う、おっとりとした中年のおじさんだった。

「ようこそいらっしゃいましたね、私がクローネです」

「笹野光里と申します。お話を伺いに来ました」

 まあまあ、立ち話もなんだから、と学者さんは私たちを居間に案内し、椅子をすすめた。腰を下ろし、私たちは話を聞く。

「異世界に渡る条件というのはいくつかありましてね、それによって、別の世界に渡れるのか、もしくは元の世界に帰れるのか、というのが決まるようです」

 異世界人なんて、一年に一人現れるのより、もっともっと出現率が低いと思うのだが、それをどうやって研究対象にしているのか。その疑問の解は、学者さんの話の中に表れた。

 どうやらさらにまた別の世界に、自分の意思で異世界を渡り歩く能力を持った人たちがいるらしいのだ。その誰かが、ここの世界に立ち寄った際、情報を得られるのだという。しかし一般に知られていることではなく、また彼らの滞在時間も短いため、特別な伝手を使ってその来訪を知るや否や、その土地へすっ飛んでいくことにしているのだそうだ。だから、この学者さんはしょっちゅう家を留守にしているらしい。

 私がどういう状況でこの世界に現れたのか、それを聞いて、学者さんは腕組みをして難しそうに唸ってしまった。

「そうですね、方法だけでいえば、あなたが元の世界に帰ることは可能だと思います。しかし、実情を考えるに、帰還は難しいと言わざるを得ません」

「……どういうことでしょうか?」

 つまり、結論としては帰れないということなのか。焼けたように、胸の奥がちりちりとした。

「例えば、先の勇者様は、条件に吟味を重ね、この世界を救うために正式に召喚されてこの地にお越しになりました。つまり、契約によってこちら側に来たのです。ですので、世界を救った、つまり、契約を果たした時点で元の世界に戻ることが可能になります。しかし、勇者様はそれを望まなかったのでしょう、結果的にはこの地に骨をうずめることになりましたが」

 話しつつ、学者さんはカップを取り上げてひと口咽喉を潤した。

「次に、ヒカリさんの場合です。あなたは、事故によってこの世界にやって来た。状況からみると、たまたまこの世界とあなたの世界が近い次元に位置していたときに、事故の衝撃によってこちらにはじき出されてしまったのでしょう。ですので、再度同じ条件が整えば、あなたは帰ることができます。理屈ではね」

「現実には難しい……というわけか。条件を整えるのが難しいと?」

 さすがに熊さんも深刻そうにしている。しかし、学者さんはその問いには首を横に振った。

「いえ、世界と世界の位置関係は常に変わっています。ヒカリさんの世界とここの世界が隣り合うチャンスはいくらかあるでしょう。それを見極めればいいだけの話です。そうして、来た時とは逆に元の世界にはじき出されるようにすればいい。その場合、理の力は、あるべきものをあるべき世界に、という方向に働きます。ヒカリさんがこちらの世界と行き来したという痕跡をなくし、こちらに来たときと同じ条件であちらに帰します」

「――あ」

 学者さんの説明を聞いて、この話がどこへ行きつくのか私は理解した。

「気付いたようですね、そういうことです」

 彼は、我がことのように悲しそうに頷いた。


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