2
暗くてじめじめした場所から出られて、やっと人心地ついた。
燦々のお日様とは、久しぶりにご対面したような気がしてしまう。
前をのしのしと歩く男の背を見ながら、私は顎に軽く手を当ててふむと頷いた。
この背の高さと体格の良さ! 醸し出す雰囲気から、日本にいたら絶対、こいつのあだ名は決まっている。
「熊さん」
思わずぽろりと口から単語がこぼれると、男はさっと振り向いて私を睨み付けた。熊さんと気安く名付けるには態度が刺々しすぎる気もするが、妙な隙がありそうな気がするのも確かである。そのちぐはぐさが、熊さんと呼ぶにふさわしいではないか! やはり、こいつは熊さんである、と私は結論付けた。
「おまえ、いま、熊と呼んだな。この、端整な顔立ちを捕まえて、なんてぇ言い種だ」
「それはどうも。なにしろ、あなたのお名前を存じ上げませんもので」
涼しい顔で私は答えたが、脳内でごちゃごちゃ遊んでいたところに、割り込んでくるとは思いもしなかった。だいたい、精悍な顔立ちだとは認めるが、端整というには厳しいお顔である。まあ確かに、熊さんと呼んでしまうには少し、顎がシャープすぎるかもしれない。その上、彼の身長体格がこの世界では標準なのだとしたら、熊と呼ばれて不愉快であろうことも認めざるを得ない。
だがしかし! 私はこの世界の事情など知らないし、自分の感性の赴くままにあだ名を付けることぐらいは許されてしかるべきである。つまり、こいつの事情を酌量する必要などなくていいだろう。
「アレクセイだ、アレクセイ」
私の脳内で妙な論理が繰り広げられているとはつゆ知らず、苦い顔で熊さんは自分の名前を教えてくれた。
明るい場所でよくよく彼の顔を見て、私は思わず、あっと声を上げるところだった。
誰あろう、こいつは、私を床に叩きつけた上に気絶させた奴じゃないか。くそう、素直に言うことを利くと思うなよ。
「そうですか。私は光里と申します」ぺこりと私は頭を下げた。「では参りましょうか、熊さん」
「おまえな」
「申し訳ありませんねえ、長い名前は覚えられないもので。よろしいんですか熊さん、こんなところでぐずぐず油を売ってると、閣下という方に叱られてしまうんじゃないでしょうか」
むっとした熊さんはしかし、やっと口を閉じて歩を再開した。
よしよし、とりあえず一本取ったぞ。しかし、勝ち誇っていいことなんだろうかこれは。
案内された個室で、用意された着替えを取り上げてみると案の定、男物だった。
シンプルな上下で色はブラウン系、タイとベストがそろっている。なんというか、使用人見習い、みたいな雰囲気だと思うのは気のせいだろうか。下はゆったりめだし、がちゃがちゃ装飾の付いている服ではなくずるずるしたみっともない服でもなかったので、ほっとした。
もちろん、熊さんは部屋の外で待っている。ガキの着替えになんぞ興味はない、と言っていたが、むこうはこっちを男だと思っているのだからそりゃ興味はないだろう。
待たせて、怒られるどころか部屋に入ってこられても困るので、私は手早く着替えを済ませた。贅沢を言えばお風呂に入りたかったけど、この際仕方がない。
髪はいったんほどいて軽く手櫛で整えてから結び直し、仕上げにクロスタイを首元に留めた。
よしよし、一丁上がり。
それでは参りましょうか。
どーん、という効果音が聞こえてきそうな両開きの大きな扉を開け、廊下を抜けると、先ほどの老人ともう一人、若者がそこに居た。
「やあ、来たね」
蜂蜜色のさらさらの髪に爽やかな声を響かせる青年は、ひとり、肘掛け付きの豪奢な椅子に座っている。なんだか、トリップものお約束展開の雰囲気がぷんぷんするんですが。
「あのう、もしかして……王族の方とかですか」
試しに口に出してみると、思いっきり肯定された。王子様だそうだ。リアルな意味ではなじみのなさすぎる肩書に、はあ、という気の抜けた相槌しか打てない。しかし、これで着替えさせられた理由がわかった。さすがに、くたびれたジャージ姿で王子様の前に出るわけにはいかないだろう。
「ヴィク、立ち話も疲れるから座らせろ」
後ろの声の主を、私は思わず振り返った。なんと無遠慮な。
「あの、熊さん……王子様にその物言いは失礼なんじゃあ」
「いい加減に名前を覚えろ。いいんだよ、俺とこいつは昔なじみだ」
そうですかあ、と納得のいかない声を出す私に、王子様は苦笑して立ち上がった。
「まあ、幼なじみみたいなものだ。隣室が応接の間になっているから、そちらへおいで」
そう言って、すたすたと歩きだしたので、その後ろに付いていくことにした。さすがに熊さんには劣るが、王子様もけっこう背が高い。ここに来るまでの間に見かけた兵士さんとか、メイドのお姉さん方を見るに、日本人より十センチぐらい平均身長が高いんじゃないかな。私だって標準身長なのに、ここではまるっきり子供の身長になってしまうらしい。
音もなく現れたメイドさんがテーブルにティーセットを並べ、ソファーに促されて、私はほっと息を吐きながら腰を下ろした。
「さてと。なにからいくかな」
王子様が会話の端を探している。いくらここに私を除けば三人しかいないとはいえ、注目の視線を浴びせられるのはなんとも居心地が悪い。
「まずは自己紹介かな。俺はヴィクトールという。ヴィクターと呼んでくれて構わないよ」
でも、王子、とだけ呼ばれるのは嫌なのだそうだ。他の王子様とごっちゃになってしまうからである。彼は、王位継承の可能性が極めて低い、六番目の末っ子とのことだ。
「それで、こっちのじいがワレンという。我が国の宰相だ。そっちは知ってるな、騎士のアレクセイ」
「騎士!? 熊さんが?」
「そこは驚くところか」
熊さんはむっとした顔をする。だって、騎士って、義の人で清廉な人なんでしょ。イメージ合わないなあ。
「あの、私は笹野光里と申します。笹野が家の名前、光里が個人名です」
「ほう……珍しい名前だな。ササノ、というのはよくある家名なのかね」
となぜか、じい呼ばわりされた宰相閣下が食いついた。
「どうでしょうか。苗字人口上位百番以内には入ってないレベルですが、耳珍しいほど変わった名前でもないですよ」と私は答える。
そこで、王子様が話の方向を修正した。
「ヒカリね。了解。話を進めるよ。この国にも伝承というものはあってね、別の世界から来たという人の記録がいくつか残っている。だから、君が他の世界から来たのだろうということは推測できるし、敵意を持っているわけでもない。でもね、来たタイミングが少し悪かったな」
「なにか、儀式をおこなっている最中……と見受けられましたが」
「儀式ね。似たようなものかな」
と言って、王子様は微笑した。宰相閣下の説明によると、どうやら、封印された力とやらがあって、それが悪用されないように、一年ごとに、封印が緩まないように張り直していたらしい。そこに私が飛び込んできて、呪文の詠唱を邪魔して、水晶を叩き壊して、めちゃくちゃにした……と。
「それだけならまださほどな被害ではなかったのだがね、よりにもよってその力が、君に取り込まれてしまったらしい」
「え」
閣下の言葉に、私はぽかんとして口を開けた。それはますます王道展開だなあ。嫌な想像しか浮かんでこなくて、私は思わず声を上げてしまった。
「あの、私の世界の小説によくある話だと、それでたぐいまれな力を得た異世界人の主人公は、荒廃した世界を救うための勇者とか巫女にされたりとかするんですが……まさか、そういうお話ではありませんよね?」
こわごわ上目遣いになった私の曇り顔は、熊さんの大笑いにかき消されてしまった。
「いい線いってるが、六十年ばかし、来るのが遅かったな。この世界は、とうに勇者様に救ってもらったあとの世界なんだよ。むしろ、混乱を起こさないために、おまえは何もすんな」
「……左様ですか」
なんなんだろうか。ほっとしたはずなのに、この敗北感。




