1-A SNSの現状
かつては、ネットとは見たいものを見る空間だった。今では見たくないものを見させられる空間になっている。一方では下衆な商品広告が幅を利かし、他方では不安、恐怖、怒りを惹起するような政治的プロパガンダが氾濫している。そのような情報汚物に日々接しているうちに、我々が本当は何の情報を欲していたかわからなくなってしまうほどだ。なぜ現代のネット空間はこれほどまでに見たくない情報で溢れているのであろうか?なぜ、私たちは怒りや不安を煽るニュース記事に釘付けにされ、三流芸能人か、あるいはその劣化コピーにすぎないインフルエンサーのビジネス目的の炎上記事に、貴重な人生の時間を割かされなければならないのか?
結論から言おう。ネットは死んだ。特にSNSは轢死体だ。言い過ぎだと思うなら、それは現代の情報社会を知らないことの証明である。この薄汚い情報社会は情報の豊富さを誇っているが、実態はただの偽情報を掴ませているだけである。真の意味のある情報はSNSには存在しない。我々はそこで見るものとは、まさにパンとサーカスである。SNSはどの情報端末にも成し遂げえなかったようなポルノの巣窟となり、人間性を棄損するようなアブノーマルな世界が広がっている。また、血生臭い決闘も自由に見ることができる。もちろん、実際に刃物で切り付け合ってるわけではないが(そのような動画も見ようと思えば見れるのだが)、代わりに言葉の決闘が日々行われている。インフルエンサーとそのアンチとが、政治家とその反対者たちとが、である。これほどまでに娯楽に満ちた日常も、そうそうあるものではない。脳みその半分は官能で汚し、もう半分は血で汚すことができるのである。ああ、なんて素晴らしい日々なのだろう!
なぜこれほどまでに現代人が堕落したか?答えは簡単である。ネット空間がソドムだからだ。だが、侮ってはならない。我々の生活がSNSから逃れられないなら、我々はソドムから逃れられないことを意味する。あの堕落した町の辿った結末に思いをはせるなら、いち早い脱出のための方途が求められることになるだろう。ならば、このソドムをよく知り、そのうえで逃れなければならない。
では、分析に移ろう――。
今のネット空間は高度に組織化され、政治的意図を与えれ、そして何より商業化、いや広告化している。かつてのネット空間ではユニークな才能を持った作者が面白い作品を投稿する場であった。もちろん、全てがそうであったと言うつもりはない。くだらない作品も大量にあっただろう。だが、それらは今SNSで跳梁跋扈しているコンテンツと比べればくだらなくない。なぜなら、自分が表現したいことを表現するという、クリエイターの矜持があったからだ。しかし、現在のネット空間にはユニークな作品など何一つ存在しない。氾濫せんばかりの大量の広告があるだけだ。企業の依頼か、プラットフォームが提供する利益に目がくらんだのかは知らないが、クリエイターは自らの意思によってではなく、需要に主導されてコンテンツを投下している。つまり、どれだけウケるか、それだけを考えてコンテンツが制作されている。私はこの状況をかつて社会学的に意味を持った言葉、つまり疎外という言葉で表現したい。これは皮肉な事態ではないだろうか?SNSの登場で企業に所属していない人間でも、気軽に己を表現できるようになったが、それが招いた結末が、クリエイター自身の死なのである。自己表現者の誰もが己を表現することを夢見てSNSに参画し、気が付いたらただ広告のために精を出す”芸術家人生”に追われることになるのだ。しかし、表現者はこのことに全く気が付かないだろう。彼らは自らが広告を作っているとは思わないで、貴重な己の時間を削って需要に奉仕している。そして、その結果として情報の質的変化がもたらされた。SNSが登場してから、あらゆる情報が作為的になった。しかも、そのほとんどが利益誘導するための作為なのである。
さて、表現者たちは日々の業務の中で継続的に利益を確保せねばならず、そのためにある程度耳目を引く題材が必要だった。それが政治、あるいは社会である。腐敗した政治と、税に対する怒りと、外国人に対する恐怖と、社会保障に対する失望と、それらが混然一体となって、ネット空間の政治的要素を支配している。Youtubeを見てみれば一番わかりやすいだろう。煽情的なタイトルと、お決まりの大きな赤文字と黄色文字で構成されたサムネイルが目を引くことになる。だが、勘違いしてはならないのは、これらの政治的情報発信が、真の意味で政治的というわけではなく、あくまで広告の一部だということである。ネット空間は完全に広告的である。本人としては何かしら政治的意思表明のつもりなのだろうが、既に手法が広告的なのだからこれらのコンテンツは広告なのである。ただし、その事実を見抜けず政治的に煽られた人が数多くいることを認めなくてはならない。政治も、社会も、そこに思想を含みこませたいなら、広告ほど都合のいい手段もないだろう。結局、人は広告に踊らされていることを知らないで、自らが政治的に影響を受けたと思い込んでいる。だがしかし、この醜い政治ごっこに無関心でいることができるだろうか?いや、否である。ネット的政治主張者曰く、SNSで政治的に意見表明しないことは、己の生死を他者に委ねることである。なぜなら政治的決定はSNSで行われているのであり、それに参与しないということは、己にとって不利な政治的決定をされることに無関心であるということだから、と言うのである。例えば、昨今湧き出て来たSNS減税派なる野蛮人どもを見よ。自らが野蛮であることに無意識的で、己の自分勝手な正義感に酔いしれ、無垢の民衆にすら減税を強要するヤクザじみた人間の屑である。彼らは増税を主張する人間を社会的に抹殺することに厭わず、それどころか政治に何も興味の無い平和な日常を送っている人間に呪詛を送り続けている。増税に反対しなければあなたに不幸になるなど、このままではあなたは無一文になるまで課税されるなど、さらに強硬な主張になると、増税に反対しないあなたは増税派であり、この社会から消えてなくなるべきだ、などである。これらの恫喝じみたメッセージに不安になった民衆は否が応でも政治に関わらざるを得ず、くだらない政治的紛争を日夜目撃することで計り知れないストレスを受け続けることになる。私が今言ったのはほんの一例に過ぎない。他にも、社会的な問題や様々な問題提起においても、広告化した何かしらの主張が私たちの生活を破壊しているのである。結論として言えば、SNSは救いようがない。特に、政治・社会に限っていえばなおさらそうである。
このように広告が全てを支配するようになった現代社会で、我々は何を見るのであろうか?あらゆる広告的手段で利益を集約し始めた表現者たちは、次第に力を増していく。彼らは私たち一般層から離脱し、新しい階級を作り出す――情報階級という新たなる支配階級を。彼らは特権的な情報提供者としての地位を確立し、多数の追随者という名の奴隷を従え、棍棒を振り続けている。例として、Youtubeを見てみよう。
さて、人の浅ましさを見たいならYoutubeを見てみればいい。良心や知性の欠片の無い、人間未然の金のことしか頭にない下等生物どもがうじゃうじゃいる。彼らは動画の中で絶叫し、喚き、憎しみをまき散らし、懐を厚くすることに性的快楽を覚える変態的犯罪者なのだ。Youtuberは偉大かね?何億もの金を稼ぐから?では、その金を使って彼らが何をするのか見てみよう。彼らは私利私欲のためか、自らの利益を増幅するための次のビジネスへの投資にしか金を使わないではないか。いや、そうではなく、慈善のため活動しているYoutuberもいるという意見もあるだろう。Youtuberは慈善家というのかね?大金をはたいてボランティアをしていると?そう思っているなら、君は騙されているのだ。では聞くが、なぜそんなことをしておいてYoutubeの手元に大量の金が残されているのかね?結局は利潤追求のビジネスに過ぎず、施しとは程遠いものである。簡単に言えば、ただの売名行為である。薄汚いYoutuberの何千万円ものボランティア事業より、貧者の僅かばかりの施しの方が尊い。なぜなら、貧者は見返りを求めず、わずかな手持ちから施すのだから。それに、本当に困窮者のことを思っているなら、Youtuberは事業を起こすのではなく、彼らに教育を与えてやるべきだ。いくら金を与えても、砂漠に水を注ぐようなもので、すぐに使い果たされ、何も生み出さない(SNSの豚どもの餌にはなるだろうが)。だが、そんなことは不可能だろう。あの浅ましい豚どもは教育というものから最もかけ離れた存在なのだから。つまり、貧しい人たちが己自身の手で生きられるようにする、それが真のボランティアだ。Youtuberたちがやっていることは、ただ彼らから自立の手段を奪っているだけだ。与えるふりをしながら、奪っているのだ。だが、私はYoutuberに実際に貧者になって施しをしろと言っているわけではない。ただ、偽るなと言っている。君たちは薄汚い守銭奴であるという身分を隠し、さも偉大な慈善者のように振舞うが、それが卑劣だと言っているのだ。
君たちは傲慢な金持ちだ。人間の中で最も卑しい種類の人間だ。だが、私はそれ自体を否定しない。私はただ、君たちにそのような卑小な人間として生き続け、いずれ報いを受けてほしいと言っているだけのだ。報いから逃げるな。なあ、Youtuber諸君。君たちは一体何を恐れているのだ?
なぜYoutuberがこれほどまでに詐欺的手段を取れるようになったかと言えば、彼らが情報階級という一種の特権階級になったからである。彼らはコンテンツを提供することで視聴者の心を縛り付け、精神の自由を奪い、時間と利益を搾取する。我々は知らず知らずのうちに情報発信者によって誘導され、その養分になることを強制されている。
搾取――。そう、搾取ことが最大の問題なのだ。インフルエンサー、あるいは21世紀の簒奪階級は情報を提供する代わりにあなたから時間を掠め取る。あなたが好みそうな情報を提供し、あるいはその生き方そのものをコンテンツとして提供し、あなたを洗脳し、没頭させる。あなたが食い入るようにインフルエンサーを見ている間に、その情報的主体は次第に豊かになっていく。もはや当初の姿から脱皮し、一流のインフルエンサー、つまりは搾取の主体になったとしても、あなたは搾取主体から逃れることができない。それどころか、あなたはこう言うだろう。「ああ、〇〇さんが成功してよかった!成功してくれて嬉しい!」――。これを倒錯と言わずしてなんと言うだろうか?もうインフルエンサーはとっくにあなたを突き放し、手の届かない位置にいるのに、それでもあなたはインフルエンサーを身近な人、もしくは共感できる人、同じ立場の人、同じ魂を持つ人とみなし、依存しながらただひたすら時間だけを奪われていく。我々はむしろインフルエンサーにこう言うべきなのだ。「インフルエンサーよ、我々から奪ったものを返せ!返せないならば、今ここでくたばるがいい!」、と。結局、情報階級は作為的な情報、もっと言えば空疎な広告を押し付けることで、一般民衆から時間というかけがえのない価値を奪っているのである。
では、このような社会においては一体何が起こるだろうか?それは、情報の現実化――SNSがもたらした画期的な発明、そして地獄への扉を開く鍵でもある。現実が情報なのではない。情報が現実なのだ。SNSは情報による仮想現実を作り出し、存在しない住民票を登録させ、我々に新しい現実を見せたかのように錯覚させる。我々は二重の生を送っている。現実のそれと、SNSのそれである。なぜSNS社会の中では我々は忙しないのかといえば、二つの世界で生きているからである。日常的な業務に従事する一方で、他方ではSNSの住人としての責務を行わなくてはならない。つまり、SNSでは一つの現実が成立している。そこにはコミュニケーション可能な他者がおり、自ら意見を発信できる場があり、みんなで楽しめる空間が存在する。SNSは情報を分厚くし、複雑にし、深みを持たせる。その加速度的進歩の結果が、情報の現実化という大災害だった。ネット空間はいまや、我々の生活を映す鏡となった。いや、こう言っても差し支えないだろう。ネット空間は我々の生活そのものなのだ。
だが、情報は現実そのものではない。だから、SNS利用者の現実はただ狭まるだけで、広がらない。いつも狭い世界の中に引きこもり、日常的に広告から扇動され、精神をやせ衰えさせ、本当の現実を失っていく。これが現代人の末路である。だが、もっと絶望的なのは、我々はSNSから逃れられないことである。SNSが生活そのものなら、生活そのものから逃避することなどできないから、我々はSNSに閉じ込められる。SNSから逃避することは現実逃避と意義を同じくするのだ。結局、情報階級は社会において覇権を確立したのであり、その影響度は我々の現実を侵食するまでに至っている。現実とネット空間の間で引き裂かれた人間――これがSNSがもたらした、人間の哀れな姿である。




