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第1話 登山と婚約

もう何度この山に来たことだろう。


彼女と付き合いはじめてから、季節が変わるたびに訪れている。若い緑の匂いを嗅ぎに、涼しい風に当たりに、赤く燃える葉を見に、雪の静けさを踏みに。


 今日は、ふたりの婚約を祝うための登山だった。昨夜、彼女の両親に挨拶を済ませて、晴れて許しを得た。少し照れながら左手の薬指のリングをいじる彼女が、いつになく大人びて見えて、胸が詰まった。


「ねぇ、見て。ツツジがこんなに咲いてるわよ」


細い指で群生する赤い花を指しながら、彼女が振り返る。いつもの登山帽の下から、汗で額に張り付いた前髪がのぞいている。


「ほんとだ…。前来たときよりずっと多いな」


「やっぱり時期をずらして良かったね。わたし、ツツジの花言葉好きなんだ。『初恋』とか『慎ましさ』とかなんだよ」


 慎ましいなんて、誰が君を見て思うだろう。いつも屈託なく笑って、泣いて、全力で気持ちを伝えてくる君は。

 けれどそこがたまらなく愛おしくて、手を引いてそっと抱き寄せる。


 彼女はきゃっと小さく声をあげたあと、満足そうに身を預けた。


 空は少し白く濁りはじめていた。朝のニュースで午後から天気が崩れると言っていたが、まだ降り出す気配はなかった。


「後もう少しで頂上だな。小屋で軽くお昼にしよう。いいよね?」


「うん、楽しみ。今日はあなたが作ったサンドイッチだし」


「ちゃんと作ってきたよ。昨日の夜から仕込んだ卵フィリング」


「それだけでプロポーズの価値あるよ」


 嬉しそうに声を弾ませる彼女の横顔を見て、来て良かったと心から思った。この山はふたりにとって、特別な場所だった。ここで初めて手を繋いだし、初めてキスをしたのもここ、未来を語ったのもここだった。


 緩やかな尾根道を進むと、やがて空気に湿り気が増してきた。葉の匂いに混じって、土が呼吸を始めるような香りがする。


「雨、降りそうだな」


「やだなあ。ちょっと転ばないように気をつけてよ」


 そう言いながら、彼女は俺の腕に少しだけしがみつく。

 途端に、ばさっと頭上から大粒の水滴が落ちてきた。葉に溜まった水が重みに耐えきれず、一気に弾け飛んだのだ。


 くすくす笑う彼女の髪にも水滴がついて、宝石みたいに光る。


「やっぱり降ってきたな……」


 次第に霧が濃くなっていった。視界がだんだん白く狭まり、数メートル先の木々がぼんやりと溶けかかる。


 そのときだった。


 ぬかるみに足を取られた彼女の体が、ふっと前に傾いた。

「――えっ!?」


 間に合わなかった。

 掴もうとした手は空を切り、彼女の小さな悲鳴だけが霧に溶ける。視界の端で、彼女の身体が崖下へ吸い込まれるのが見えた。


「えっ!? おいっ!待てっ……!」


 崖縁まで駆け寄って覗き込む。

 深い霧と木立が邪魔をして、下は白く霞んで何も見えない。


「おいっ!京子!! どこだ!? 返事しろ!!」


 何度も名前を呼ぶ。声が濃霧に押し返され、耳鳴りのように反響するだけだった。


 その場に膝をついた。心臓が荒れ狂ったみたいに胸を打つ。寒気と吐き気が一緒に襲ってくる。

 気がつくと、手は土を掻きむしり、血がにじんでいた。


「京子…お願いだ……頼む…なんでもいいから、返事してくれよ……」


 静寂だけが返ってくる。


 いつからか、雨が本格的に降り出していた。小さな粒が、無情にポツポツと頬を打ちつける。

 彼女を探しに、何度も崖下を覗き込み、周囲の木立を走り回ったが、白い世界は何も見せてくれなかった。

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