第35話
真柴が涙を流し、剣を落とした瞬間。
神殿前広場に広がっていた戦いの熱が、まるで魔法のように一気に引いていった。
瑛人の背中から放たれた漆黒の癒しの光が、静かに、だが確かに広場全体を包み込んでいく。
その光は、戦いで傷ついた者たちの痛みを和らげ、疲れた心をそっと撫でた。
兵士たちは戸惑い、剣を構えた手が次々と緩んでいく。
「これは……癒し……なのか?」
「黒い光なのに、心があたたかくなる……」
広場の各所から漏れたささやきは、やがて確信の声へと変わっていった。
ギゼル高司祭はその流れを止めようと、必死に神印の杖を掲げ、叫ぶ。
「騙されるな! それは偽りの癒しだ! 神の教えに反する禁忌の力だ!」
だが、その声に対し、広場の片隅から一人の老女が進み出た。
「この手で触れた。あの子の手は……あたたかかった」
彼女の背後に、かつて瑛人に癒された人々が立ち上がる。
「母が治った……咳が止まらなかったのに」
「足が動くようになった。絶望しかなかったのに……」
証言が次々と続き、兵士たちは動揺を隠せず、剣を次々に置き始めた。
「これが……真実なら……俺たちは、何のために戦っていたんだ……?」
その言葉に、広場の空気が決定的に変わる。
ギゼルの顔色が青ざめる。
その目に、かつての絶対的な支配者の光はなかった。
「なぜだ……なぜ民が、教会ではなく……」
その時、リデル王子が一歩前に出て、静かに語った。
「民が選んだのは、癒しという名の“支配”ではなく、癒しという名の“想い”です」
その言葉と同時に、ギゼルの手から杖が滑り落ちた。
硬い石畳に響く音が、聖導教会という巨大な支配の崩壊を告げる鐘の音のように響いた。
──その時、真柴は一人、膝を抱えて座り込んでいた。
剣を落とし、泣いた後の彼の表情には、ただの敗北者にはない深い後悔が滲んでいた。
(俺は……何をしてきたんだ)
記憶の中に浮かぶのは、あの頃の自分。
威圧的な父の姿。
社長である父は、家でも権力者のように振る舞い、真柴に愛情を注ぐことはなかった。
「できて当然だ」
「そんなことで泣くな」
──褒められた記憶がない。
期待だけがのしかかり、ミスをすれば叱責され、成功しても無言で通り過ぎられる。
家は大きかった。
食卓は豪華だった。
だが、会話はいつも、空虚だった。
友達の輪にもうまく入れなかった。
話し方がぎこちなく、何を言えばいいか分からず、浮いてしまう。
そんな時、目に映ったのが瑛人だった。
ただそこにいるだけで、自然と笑顔が集まる少年。
優しく、朗らかで、誰かを支えるのが当たり前のような存在。
(……ずるい、と思った)
だから、葵を奪った。
友情を裏切った。
けれど、心は満たされなかった。
夜、ベッドに横たわるたび、瑛人の笑顔が思い浮かび、その裏にあった“何か”を理解できなかった自分が、悔しくて、情けなくて、涙が止まらなかった。
(俺は……何も手に入れてない)
その思いが、今、ようやく言葉になる。
真柴はそっと顔を上げた。
広場の中央に立つ瑛人が、誰かに向けて手を差し伸べている姿を見た。
──それは、もう一度信じたいと思える光景だった。




