第25話
その日は、雨だった。
空は重く沈み、灰色の雲が空一面を覆っていた。
雨はしとしとと、だが絶え間なく降り続き、木々の葉を濡らし、森の空気を冷たく湿らせていた。
俺と葵は、山道を歩いていた。旅の途中、小さな街道沿いの屋根付き休憩所が見つかり、そこへ足を向ける。
「寒いね……」
葵が小さく震えながらつぶやいた。
「大丈夫か?」
俺は迷わず自分の上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。
「ありがとう……」
そのときだった。
視界の端に、何かが動くのが見えた。
朽ちた木の下、泥の中に倒れている影。
思わず息を飲んだ。
慌てて駆け寄り、ぬかるんだ地面の上で体を反転させる。
泥にまみれた顔、乱れた銀の髪、そして──
「っ……フィーネ!」
俺の声が裂けたように響く。
彼女の耳は傷つき、足は腫れ上がって不自然な方向に曲がっていた。
服は破れ、体中に擦過傷が走っている。
雨に打たれ、すっかり体温を奪われた体が小さく震えていた。
「おい、しっかりしろ! フィーネ!」
葵も駆け寄り、震える手でフィーネの頬をぬぐった。
その指先が、かすかに彼女の呼吸を感じ取る。
「生きてる……よかった……」
フィーネの唇がわずかに動いた。
その直前、彼女は力なく呟いた。
「……まだ……人が……たくさん、この泥の中にいるの……」
「私たち、連れてこられて……急に、爆発が……どうして……こんな……ことに……」
その言葉に、俺の胸が強く打たれた。
他にも犠牲者がいる──フィーネだけではない。
「えい……と……?」
かすれた声。
目の焦点が定まらない中で、彼女は俺の名前を呼んだ。
俺は迷わず手をかざした。
自分でも驚くほど、すぐに力が走った。
黒い光が、掌からふわりと溢れ出す。
その光は雨に溶けることなく、フィーネの体を包み込んだ。
光が触れた箇所から、赤くただれていた皮膚が徐々に元の色を取り戻す。
腫れ上がっていた足もゆっくりと正常な位置に戻っていく。
呼吸が安定し、苦しげだった眉間のしわが、少しずつほぐれていく。
俺の手が震えていた。
必死に、願うように祈っていた。
──お願いだ、戻ってこい。
──もう誰も、失いたくない。
雨の音の中、フィーネのまぶたが、わずかに動いた。
俺は立ち上がり、周囲を見渡した。
泥に埋もれた倒木の陰に、もう一人、小さな影があるのに気づいた。
駆け寄り、濡れた土をかき分けると、少年が倒れていた。
意識はあるが、足を庇って苦しんでいる。
すぐに手をかざし、もう一度黒い光を放つ。
少年の苦しげな表情が緩み、傷がゆっくりと癒えていく。
「……ありがとう、おにいちゃん……」
かすれた声でそう言われた瞬間、胸の奥が熱くなった。
さらに、木の根元に倒れていた年配の男性も見つけた。
そのとき、葵が泥に足を取られながらも必死に叫んだ。
「えいとくん! こっちにも誰かいる!」
彼女は両手で泥をかき分け、服が泥まみれになりながら、身を乗り出して助けを求めていた。
「お願い、もう少し……頑張って……!」
そこにいたのは少女だった。意識はかすかにあるものの、衰弱しきっていた。
俺はすぐに駆けつけ、手をかざして黒い光を放つ。
光は少女を包み込み、徐々に呼吸が整い、顔に赤みが戻っていく。
「……大丈夫だ……ありがとう、葵」
葵は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、笑った。
「助けられて……本当によかった……」
その後も、俺たちは泥だらけになりながら、声のする方へ駆けつけ、倒れている人々を探し、癒し続けた。
雨はまだ止まない。
だが、この手で救える命があるなら、俺は止まらない。
「……ごめん……また……勝手に……」
声はかすかだったが、彼女の言葉は確かに俺の胸を打った。
「しゃべるな、今は休め」
俺は彼女の頭をそっと引き寄せた。
濡れた髪を撫でながら、何度も自分に言い聞かせるように、彼女の名を呼んだ。
葵が、涙をこらえきれず、静かに嗚咽を漏らした。
──また、大切な人を救えた。
たとえ何度でも。
たとえ裏切られても。
この手が、人を救える限り。
俺は癒す。
誰よりも、強くそう思った。




