第一章 出発前夜(2023年9月29日・金曜日)
「5万FOPなんて、どう考えてもおかしい数字だと思う。普通に生きてて、そんなポイント貯める人いないって。」
そう呟いた自分の声が、スマホの画面越しに反射して戻ってくる。JALアプリに表示された現在のFOPは「40,180」。あと少しで、サファイア。あと9,820ポイントで、あの青のカードが手に入る。
芹澤あや、25歳。都内の中堅出版社で事務職として働いて3年目。華やかな仕事ではないけれど、毎日を真面目にこなし、社内では物静かで丁寧な人という評価を得ている。けれど、そんなわたしの週末は──会社の誰も知らない、異常な空の旅で埋め尽くされていた。
「これが最後の修行。これを乗り切れば、終わる。」
金曜日の勤務を定時で終えると、その足で羽田空港近くのカプセルホテルへ向かう。荷物はいつもと同じ、小さな黒のリュックひとつ。無駄を削ぎ落とした、最適化された修行装備。スーツケースなんていらない。預ける時間すら、惜しいのだ。
ホテルのロッカーで制服を脱ぎ、スウェットに着替えたとき、ようやく自分に戻った気がした。カプセルの天井を見上げながら、イヤホン越しに流れる機内ノイズをBGMに、明日の搭乗便一覧を再確認する。
「明日は羽田から沖縄、石垣、折返して羽田、そして札幌。5レグか。」
スマホの画面をスワイプするたびに、明日の予定表が表示される。けれどその中に、「観光」とか「ごはん」とか、そういう文字はひとつもない。全部、「フライト」「フライト」「フライト」。
疲れてないと言えば嘘になる。けれど、JGCというステータスは、わたしにとって手に入れなければならないものだった。誰かに見せびらかしたいわけじゃない。でも、なにかをやりきったという証がほしかった。
羽田の滑走路の灯りが、ホテルの窓の奥にかすかに見える。その光を見ながら、わたしは眠りについた。
「明日、ちゃんと起きられますように。」
その祈りだけを胸に抱えて──。