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私はあなたの心を盗みたかった

作者: 仁

私はあなたに出会う為に、あなたの財布を盗んだ。私はスリだったから。他に、能力と呼べるようなものは何にも無い。


話はこうだ。私は、あなたの顔を見る為にいつもその車両に乗っていた。いつから毎朝あなたの横顔を見ずに居られない程好きになったのか覚えていない。一度でいいから、あなたの声を聴いてみたい。だけど、話かける事なんてできなかった。当たり前だ、私はあなたと何の接点も無い。この都会の電車で、毎日乗り合わせるというだけで声を掛けられる人が、どれだけいるだろう。少なくとも、私には口実が必要だった。それで、私は初めて生計を立てる以外の為に、財布を盗んだ。

「あの…これ落としましたよ」と、駅を降りたあなたに、私は声を掛けた。

「やあ、これはどうも、御親切に。大変ありがたいです」ごく普通の声だな、と思った。それはごく普通の内容に過ぎなかったからかも知れない。全てが常識の範疇に留まり、私の生業も、そして心も、その常識の範疇には存在出来ないのだった。私は、ごく普通なそれらには、一瞬も触れられない場所に存在している。私が触れられるのは、財布だけ。財布に区別は無い。一万円札同士を区別しないのと一緒。あなたのものも、あなた以外のものも皆一緒。それが私が能動的に触れられる、唯一の社会との接点。

でも私が期待していた、特別な声とは何だったろう?特別な言葉とはなんだろう?もしかして、私という人間を即座に見抜いて、即座に生き方に塗りこめられた罪を見抜いて、その上で「罪とあなたとは切り離せないものではないのです」なんて、まるで伝説のイエス様か何かみたいに、私の頭を撫でてくれる…そんな誰かがあなただったらいいなと、勝手な期待を膨らませていたのだろうか?

私があなたを特別だと思う様な根拠は何処にもない事に気付かされた。他の誰とも違う特別なものに見えたあなたの横顔は、正面から見据えると、あらゆる他人と区別が付かない、ごく普通の顔だった。

あなたには、絶対に分からないでしょうね。と、礼もそこそこに去って行く、ごく普通の社会人のあなたの背中に、静かに、そう投げ掛けていた。あなたは私がスリだという事に気付かない。あなたは私があなたを好きだという事に気付かない。私は、それが分かっていてどうしてこんな事をしたんだろうかと思い、一粒分だけ涙が滲んだ。涙は視界を歪ませただけで、流れないで消えた。でもこの結果は最初から分かっていた事。あなたは真っ当な社会人で、私はスリ。私はスリだという事を他人に言えない。特にあなたには言えない。だから、明日からは決してあなたと同じ車両には乗らないだろう。もう二度と、あなたの財布に手が届く距離には行かないだろう。


これが私の、最初で最後の、仕事以外の為にしたスリ。成功したくせに、何にも得るものもなかった、ただ一回のスリ。その日の午後、私は初めて手元が狂って、警察に突き出された。だけれど、警察だって、私が相手に返す為だけに盗んだ財布がたった一つあった事には、決して気が付かないだろう。そのうち、警察や刑務官の顔馴染みも何人か出来るようになって、いつか私はすっかり年老いてしまっていた。指先に震えが来て、いまや盗める財布は一つも無いだろう。最後の小銭を、もう一本強い缶チューハイにでも使ってしまおうかとも思ったけれど、気付いたらやっぱり切符を買ってしまっていた。他に生き方なんて知らなかったから。財布を盗もうとするまでもなく、誰もが私から距離をおこうとしている。私は厭な臭いのする不潔な老婆だから。眉を顰めて離れて行く人達の中に、ふと、あの日好きになった人の横顔を一瞬見たような気がした。あなたは、私が決して溶け込む事も、近付く事もできない、暗い森みたいなあの社会の中に、今でも隠れているんだ。そう思って、目を閉じる。

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