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第13話 迷い猫をプロデュース⑬ 現実に帰る

 *



 瑠依がタケオの家に来てから一ヶ月が過ぎた。

 その間の生活は瑠依にとって夢の中の出来事のようだった。


 朝、暖かな布団の中で、しっとりと足元が汗ばんで目覚める。

 枕元のチェストにあるピッチャーからコップに水を汲み、就寝中に掻いた汗の分だけ水分を補給する。


 部屋に併設された簡易シャワー室は、とても広くて綺麗で、コックをひねれば即座に適温のお湯が注がれ、各種アメニティも豊富に揃っている。


 食事は高タンパク質、低脂質を基本とし、食物繊維が豊富になるよう計算された美味なる三食を基本とし、間に二食の間食を挟み、三時間おきに10グラムずつのプロテインと3〜5グラムのEAA、BCAAなどのアミノ酸を摂取する。


 運動は主に動的ストレッチ後に自重トレーニング、ウェイトトレーニング、最後に有酸素運動を行い、筋トレと脂肪燃焼の順番で行う。


 その後、グルタミン酸を取り夕食。就寝前に最後のプロテインを飲み、必ず8時間以上の睡眠を取る。


 そんな生活を瑠依は続けた。

 誰にも何にも脅かされることなく、飢えも恐怖もなく、ただ暖かな場所でそれを享受した。


 元々育ち盛りだったこともあり、栄養失調気味で、ガリガリだった身体は、程よい筋肉とうっすらと脂肪を纏った、とても健康的なものへと様変わりした。


 タケオの隣に並ぶにふさわしい女の子に。

 それをモチベーションに瑠依の肉体改造は、短期間で驚くべき成果を上げていた。


 それがアリスの言うような恋による効果なのかはわからない。

 だが、最高の環境と食事を与えられて、変わらなかったら嘘だ。


 タケオの善意に全力で応える。

 それが今の瑠依にできる精一杯のことだった。


 そして、そんな生活にも終止符が打たれるときがやってきた。



 *



「失礼します。瑠依さん、少々お話よろしいですか」


 もうすぐ就寝……そんな時刻に瑠依の部屋を訪れたのは愛理だった。


「うん、大丈夫だよ、どうぞ」


 瑠依は愛理のことが大好きになっていた。

 もちろんアリスやその子供である織人、そしてタケオのことも大好きだ。


 生まれて初めて、お祖母ちゃん以外のヒトに優しくされた。

 なんの縁もゆかりも、血の繋がりすらない赤の他人なのに。


「座って座って、お茶でも淹れようか?」


「そうですね、日本茶をお願いします」


「おっけー」


 瑠依は備え付けの簡易キッチンのケトルに、ミネラルウォーターを入れてIHコンロの上に置く。一分もしないうちにシュンシュンと音が鳴り出し、やがて沸騰する。


 不思議なものだ。自分がミネラルウォーターを使うだなんて。

 ついこの間まで、公園のトイレで水を飲んでいたのに。


「はいどうぞ」


「ええ、ありがとうございます。それで、瑠依さん……」


「はいはい、なあに?」


「近くありませんか?」


「そんなことないよ」


 お茶をソファセットのテーブルの上に置き、瑠依は愛理の隣に腰掛ける。太ももと太ももがくっつくほどの距離。そしてまるで猫のようにスリスリと身体を擦りつける。


 愛理は「はあ」と溜め息を一つ、ひとまずお茶をズズズっと啜った。


「すっかり元気になりましたね。もう捨て猫とは呼べません」


「おかげさまでね。でも元気になったのはともかく、捨て猫は捨て猫だよ、化け猫だけに。このままタケオくん()の猫になりたいけど、そういうわけにもいかないしね」


 ふっ、と瑠依は寂しそうに笑った。

 わかっている。今の生活はしょせん仮初めのもの。

 終わりのときは明確にやってくる。


 瑠依が立ち向かわなければならないのは現実。

 学校、そして叔母さんの家。


 今はそこから一時的に逃げているだけ。

 食べ物も、寝床も、衣服も全部、タケオの善意から与えられているに過ぎない。


 本来の瑠依は捨て猫も同然の生活を送っている。

 そこに帰ることは、何も問題ではない。

 ただ夢から覚めて現実に戻るだけなのだから。


「怖くはないのですか。この生活がなくなることが」


 愛理は不思議な色を宿す瞳をまっすぐに向けてくる。

 黒曜石のように光沢のある黒い瞳。

 でもよく見れば瑪瑙のように複雑な色が混ざっている。


「怖いっていうのは違うかな。これもいい経験だよ」


「経験?」


「そう。こういう暮らしもあるんだなーって。長い人生の中で、一時(いっとき)だけでもそういうのが体験できたことは私の得難い経験のひとつ、って感じ?」


 えへ、っと人懐っこい笑み。

 愛理は目をそらさず、瞬きすらせずに瑠依を見つめ――ふっと表情を和らげた。


「嘘はないようですね。無理をしている感じも」


「やだなあ、そんなに信用ないかな私」


「申し訳ありません。なにせ私の周りには、私の家に取り入ろうと媚びを売る人間しかいなかったものですから。ヒトの言葉の裏を詮索するのが癖になっているのです」


 一ヶ月の間に色々わかったことがある。

 タケオと愛理は父親が同じ。


 タケオは世界的企業カーネーショングループの創始者一族の一人息子。

 そして愛理もまた、とんでもない母親を持っていた。


 愛理の家の名は『御堂(みどう)』。

 日本において四つしか無い財閥の一つ。

 御堂財閥の一人娘だった。


 この日本において御堂の名前を聞いたことがない……というのはなかなか難しい。

 瑠依でさえ、学校の社会科の教科書に載っている御堂会長の顔は見たことがあった。


「え、じゃあ、あのお爺さんが愛理ちゃんのお父さんなの?」


 威厳に満ちた白髪でたっぷりと髭を貯えた怖そうなヒト……。つまり、このヒトがタケオの父親でもあるということなのか。


 そう思って愛理に聞いてみたが、「違いますけど」とあっさり否定されてしまった。


 どうやら今表に出ている会長、御堂鷲羽(しゅうう)さんは、雇われただけのヒトらしい。本当の会長は愛理のお母さんで、裏からそのヒトを操っているんだとか。


「内緒ですよ。情報が漏れたら日本に住めなくなりますからね」


「あはは、言うわけないよ…………冗談だよね?」


 などと言われたりして、瑠依は青くなった。

 というわけで愛理は日本で最も長い歴史を持つ大財閥の次期当主という立場にある。


 普段は分家の娘とだけ名乗っているようだが、それでも彼女に気に入られようと、近づいてくるものは後をたたない。ヒトの言葉を疑いたくなるのもわかる。


「とにかく、今までありがとうね。私、明日学校に行くよ」


 それはタケオの家での生活の終わり。

 叔母の家に帰ることを意味していた。


「本当にいいのですか。あなたは、帰ればまた――」


「心配してくれてありがとう。でも、そうはならないよ。タケオくんが私を変えてくれた。今までと同じにはならない」


 これまでの瑠依はただ流されていただけ。

 与えられた環境を改善する努力をすることもなく、ただそれに乗っかっていた。


 確かに見窄らしい生活には違いない。

 でもここで得た経験を元に、自分で変えていく努力をしていく。


 まずはあのゴミ溜めのような物置を、最低限ヒトが住めるように掃除をする。住めば都。タケオが与えてくれた部屋には到底及ばないが、それでも快適な暮らしというものを経験したおかげで、それに近づける努力はするつもりだ。


「もしもあなたが望むのなら、このままこの家に……。もしよろしければ私が――」


「ダメ。それはダメだよ。それをしたら、愛理ちゃんとは友達じゃいられない」


 これ以上甘えたら、タケオとも、きっと対等ではいられなくなる。

 もうすでに大きな借りができてはいるが、完全に依存してしまえば友達ではいられない。タケオの隣に立って恥ずかしくない人間にはなれなくなってしまう。


「……立派な覚悟です。本当に変わられましたね」


「だからー、それは愛理ちゃんやタケオくんのおかげなんだってば。あ、遠回しな自画自賛かなー?」


 うりうり、っと瑠依は愛理の脇腹をくすぐる。

「なっ、お、おやめくださいまし!」っと愛理は赤くなって本気で嫌がった。


「愛理ちゃん、ここが弱点なんでしょ? お風呂で流しっこするとき、息が乱れていたもんねー」


「うそ、バレて――」


「可愛らしい声だったにゃー。それっ!」


「ダメー!」


 抵抗する愛理と、上からのしかかる瑠依。

 ほんのりと愛理の頬に朱が差して、瑠依はますますウキウキとしながら愛理の脇腹を責める。


「はあはあ、なんだか変な気分になってきたにゃー、愛理ちゃん可愛すぎでしょ」


「はあはあ、くっ、私にこんな無礼を働いて、許しませんよ――!」


「むふふ、そうは言いつつ身体は素直だね」


 つん、と指先で脇腹を刺せば、「あん」と妙に艶めいた声が。

 目の前の小学生に、瑠依は本気で興奮仕掛けていた。

 だが――


「瑠依さん……あなたにはお知らせするべきことがあります」


「うん? そんなこと言っても手加減は――」


「あなたは、化け猫なんかじゃありません」


「ふえ?」


 ピョコン、と瑠依の頭にある大きな猫耳が、反応した。

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