第二話 水も滴る良い女神
葵は瑞穂と名乗った神様に促されて社の中に入った。
中に入ってみると、社の中は葵の想像していたものとは違っていた。社というより、通路の入り口のようになっている。外の蒸し暑さとは打って変わって冷房がかかっているかのような涼しさだ。冷んやりした空気が足元をすべっていく。
神様はなんの躊躇もなくその通路を奥へと進んでいく。葵もはぐれないように必死に神様の後を追った。
通路はまるで洞窟のように全く陽の光が入らない構造になっていた。壁には所々に蝋燭が灯してあって、その灯りが周りの土壁をぼんやりと照らしている。
葵は薄暗くてよく見えない通路をおっかなびっくり歩いているせいか、床を踏みしめるたびにギシギシと大きな音を立てていた。しかし、前を歩く神様は着物がひらひらと揺れるだけで、ほとんど足音がしない。
目が暗さに慣れてきたころ、通路の突き当りに障子があるのが見えてきた。障子越しに幾人かの人影が動いている。楽しそうな声が葵たちのところまで響いてきた。
(障子の向こう側はいったいどうなっているのだろう)葵は緊張で体がこわばってくるのを感じた。
そんな葵をよそに、瑞穂はパッと障子を開けた。
薄暗い廊下から急に明るい光を浴びて、葵はまぶしさに思わず目を細めた。
障子の向こう側は、明るくて広い座敷になっていた。
座敷には煌びやかな着物を着た三人の女性が座ってる。
彼女たちは大そう綺麗な着物を着ているが、葵が見たことのある着物とは全く違う。現代の着物に比べるとだいぶゆったりしているように見える。まるで天女のような、伸びやかで、ゆったりした雰囲気が彼女たちを一層艶かしく見せている。
三人は、お茶をしているところだったらしい。
色とりどりの可愛らしいお茶菓子を囲んで座っていた。
「あらぁ、遅かったわね」
黒髪の女性が言った。彼女は腰辺りまである髪を毛先の方で束ねていて、その髪はまるで濡れているようにつややかだ。
「面白いものを拾って来たんだよ」瑞穂が言った。
(もしかすると神様にとって河童はペットのようなものなのか)と葵は瑞穂の言葉を聞いて、よく分からない不安に襲われた。
「へえ。その子?」
今度は栗色の髪の女性が言った。髪は葵と同じくらいの長さで、肩より少し短いくらいにぱつんと切り揃えている。活発そうな雰囲気だ。
「境内に入り込んでたんだ」瑞穂は女性たちの輪に加わって、お茶菓子を選び始めた。
「あらまあ」と三人の女性たちは目を丸くして、まじまじと葵を見た。河童はそんなに珍しいのだろうか?三人とも葵に興味津々な様子だ。
葵は三人から見つめられて、だんだん居心地が悪くなってきた。
というのも三人とも、ちょっとそこらでは見かけないほど美しい女性たちなのだ。
あまりに美しい女性たちに見つめられて、なんだか申し訳ないような、卑屈な気分になった。ただ瑞穂と同じでたぶん妖怪か神様なのだろう。その美しさはどこか人間離れしている感じがした。
「こいつは会社に遅れるくらいのことで、一々ああだのこうだの、くよくよするなやつなんだよ。おいしいものも楽しいことも全部後悔の渦の中だ」
と瑞穂がお茶菓子の一つをほおばりながら言った。
「それはそれは」
と女性たちはクスクス笑った。
(なんでまたその話?そりゃあ神様には会社なんてないだろうから、私の気持なんか分からないわよ!)
葵は、とにかく早くここから離れたかった。瑞穂という神様について来たのはいいが、なんとなくここにいるのが嫌になってきた。しかもこのままグズグズしていたら本当にペットにされてしまうかもしれない。毎日きゅうりばかり食べさせられて、きゅうり無しでは生きられないようになったらどうしよう…。
葵は馬鹿げた妄想に憑りつかれて気分が悪くなってきた。
(いやでもこの世界にはきっと河童が住みやすい場所だってあるはずだ。そうだ、ここから逃げ出して、河童の住む沼か川に行こう)
葵はどうにかしてここから逃げ出せないかと辺りを見渡した。すると広い座敷の外に、これまた広い庭がひろがっているのが見えた。
庭には、花びらを散らしている満開の桜があった。
立派な桜だが今は七月のはずだ。この時期に桜が咲いているなんておかしい。
「なんでこんな時期に桜が咲いてるの?」
葵はびっくりして、お茶をしている神様たちに聞いた。
「ここは春の部屋だからですよ」
黒髪の女性が言った。
「君が生きていた世界のように季節は移ろわない。私たちが季節を移っていくんだ」
瑞穂が付け加えた。
季節を移っていく?どういうことだろう。というかこの瑞穂というやつは、いつも説明が全然足りなくて基本的に何を言ってるのか分からない。
「春が終わって夏になるのではなく、ここでは常にどの季節も在るのですよ。だからどの季節にも私たちは行き来できるのです。春に行きたければ春があるところに行く。秋に行きたければ秋のところへ」
「この部屋は春だけど、もし雪が見たいなら冬の部屋に行けばいいってことだよ」
黒髪の女性と栗色の髪の女性が教えてくれた。
そんなことができるのか。まったくなんてことだ。今までの世界とはなにもかも違うようだ。
「そんなことより、あんたも茶菓子を頂きなさいな」
栗色の髪の女性が葵の腕を引っ張って無理やり座らせた。葵は逃げ出そうと思っていたのに、あっさりとお茶会の輪の中に入れられてしまった。
葵が座らされたのは、三人の女性の中で一番大人しそうな青い瞳の女性の隣だった。その女性がお茶菓子を一つ取って、葵の前に置いてくれた。その女性は雰囲気がとても柔らかくて一番親しみを感じられる。
葵は出されたお茶菓子を手に取ってみた。桜餅のようだが桜の葉はついていない。その代わり桜の花びらが一枚上に乗っている。
(これは河童が食べても大丈夫なのだろうか。実は河童には毒だったとか…)そんな不安がちらりと頭をよぎったが、せっかく出されたお菓子を要りませんとは言えなかった。それにどんな味がするのか興味もある。
葵は一思いにその桜餅にかぶりついた。
すると桜の香りがふわあっと口の中に広がって、ほっぺたが落っこちるほどおいしかった。
「おいしい…」葵がつぶやいた。
「またこんな甘いもの食べちゃったあ。とか言うなよ」瑞穂が葵の声色を真似ていった。
葵はウっと、言葉に詰まって言い返せなかった。まさに葵の口癖だった。またしてもこの神様に見透かされたようで悔しい。
「まあまあ、そうイジメないであげなさい瑞穂。ところであなたお名前は?」
黒髪の女性が葵に聞いた。
「葵と言います」葵はおずおずと答えた。
「葵さんね。私は雨霧といいます。そしてこの髪の茶色いのが雨夜、そしてこちらが雨音」
雨霧という黒髪の女性は、順番に三人の名前を教えてくれた。
「三人とも水の神だ」瑞穂が次に食べるお菓子を選びながら言った。
「私たちは三人で一つの神なの!でも水の神は他にもたくさんいるのよ!」雨夜が言った。
なるほどやっぱり神様だったのか。しかも水の神様とは、河童の自分とは相性が良さそうだ。と葵は思った。
「私河童になってしまったようなので、水の神様方、これからどうぞよろしくお願いします」と葵は深々と女神たちにお辞儀した。
女神たちはまた目を丸くして葵を見たあと、すましている瑞穂をチラッと見て、なにか納得したようだった。
「こちらこそよろしく河童さん」
青い瞳の女神がにっこり笑って葵の手を取って言った。なんとも美しい声だった。