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河童奇譚  作者: 逢汲(あきゅう)
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第一話 邂逅

 『あれぇ絶対ここに入れたはずなのになあ』


葵は台所の引き出しの中を漁っていた。正確に言うと、食料品を適当に放り込んで魔窟と化した引き出しの中にある蜂蜜を探していた。彼女の朝は蜂蜜なしでは始まらない。有塩バターをのせてこんがり焼いた食パンにたっぷり蜂蜜をかけた蜂蜜バタートーストと、コーヒー風味の牛乳といってもいいくらい牛乳多めのコーヒー牛乳とが、彼女のお決まりの朝食なのだ。

しかし今日は寝坊して家を出るまでにあまり時間がない。どこにしまったのかすらうろ覚えの蜂蜜を探していては、いつもの電車に間に合うか危うい。それでも葵は、蜂蜜バタートーストを食べることを選択した。普段ならこの取るに足らない小さな選択が、まさか人生がひっくり返るような出来事につながるとは、この時の葵は知る由もなかった。


 「たかがハチミツ。されどハチミツ。うまい」


葵は引き出しの中から蜂蜜を見つけて、いつも通り蜂蜜バタートーストを堪能した。時計を見るとすでに普段家を出る時間を過ぎている。葵はブラシでとかして直したはずの寝癖をぴょんぴょん跳ねさせながら、勢いよくアパートから飛び出した。外はまだ朝だというのに肌がじりじりとするほどの暑さだ。車通りの少ない道を選んで坂道を転がるように走る。その走りっぷりはゴミ出しに出ていたおばさんが思わず一歩引いてしまうほどだ。

葵は坂道を駆けながら、だんだんと後悔が胸の中で膨らんでいくのを感じた。


『朝からハチミツ探すのなんて辞めとけばよかった。そしたらこんなに焦らなくてよかったのに!』


駅までの道は下り坂とはいえ、炎天下のアスファルトの上を走るとさすがに汗が噴き出してくる。それに遅刻して衆目の的になることを想像すると、さらに冷汗までもじっとりと滲んできた。額を流れる汗が目の中に入ってくる。葵は服の袖で目の周りの汗をぬぐった。あいにくハンカチなんてものは持ち合わせていない。


腕で顔を拭う、その一瞬の間だった。そのほんのわずかな間に、猫が葵の進行方向に飛び出してきていた。


「ふぎゃっ」と猫が鳴いた。


葵は飛び出してきた猫を蹴飛ばしてしまったのだ。

 

『なんてこった。食欲に負けて遅刻しそうになっているところに、可愛らしい小動物まで蹴飛ばして

 しまうなんて!』


葵は自分の愚かさを呪った。猫は蹴飛ばされて痛かったのかちょっとフラフラしていたが、そのまま走り去っていった。葵は会社に遅刻寸前というのに、蹴飛ばした猫のことが気になってしかたなかった。走っていったということは大したことはなかったのかもしれないが、確実に猫の腰の辺りをモフっと蹴飛ばした感覚があった。


『私のせいで歩けなくなったらどうしよう…』


そう思うと、猫の様子を確認せずにはいられなかった。気づくと葵は猫が走っていった方へ走り出していた。これで会社には遅刻することが確定してしまったが、今の葵はそのことを気にする余裕がなかった。自分が傷つくより、誰かを傷つけてしまうことの方がよっぽど恐ろしかった。


猫は、民家の細い道を抜けて、その先にある鳥居をくぐって消えた。鳥居は通勤路からその一部が見えるので神社があるのだろうとは思っていたが、実際に神社は一度も見たことがなかった。

葵は猫を追いかけてそのまま細い小道を進んだ。そして鳥居をくぐると、その向こうには苔むした手水と古びた社だけがある、小さな神社だった。今日は日差しが強いせいか、神社の木々の緑がいやに鮮やかに感じる。猫を蹴飛ばして自己嫌悪にひたっている葵の心には、その鮮やかさは眩しすぎて痛かった。


「猫さんどこ行っちゃったのかな」


猫が鳥居をくぐっていくのは見えたが、境内の中には先ほどの猫らしき影は見当たらない。しばらく境内の中で猫を探していると、どこかから歌が聴こえてきた。




 楽を求むは人の性



 楽を憎むは人の世慣れ



 楽を尽くして死なんとは



 楽にたゆたう



 楽知らず




「…何の歌だろう」

子守歌のようにも聞こえるが、意味はサッパリ分からない。葵は少し気味悪いなと思っていると、後ろから声をかけられた。


撞楽調どうらくちょうという歌だよ」


葵はびっくりして後ろを振り返った。境内には誰もいなかったはずだ…。だが葵のすぐ後ろには、薄い山吹色の着物を着た男が立っていた。琥珀色の肩甲骨あたりまである長い髪がさらさらと風に舞っている。年齢は葵と同じくらいだろうか。ただ表情のせいかどことなく幼さを感じる。

葵は歌の名前を教えてくれたその男を、まじまじと見つめた。


『一体この人はどこから現れたの?髪長いけど男の人だよね。いやいやそんなことより、この人が抱いているの、さっきの猫じゃない!』


彼の容姿に目を奪われてすぐに気づかなかったが、彼は先ほど葵が蹴飛ばしてしまったと思しき猫を抱いている。顔は白黒の八割れ、体幹は黒で、足だけ足袋を履いているように真っ白なその模様は先ほど葵が蹴飛ばした猫に違いない。


「あのう。その猫、私がさっき蹴飛ばしてしまって。足を痛がったりしてないですか?」

葵は恐る恐る突然現れた男に聞いた。


「さあどうだろう。直接聞いてみたら?」


目の前にいる男は、意地悪なほほ笑みを浮かべながら葵を試すように言った。


直接猫に聞けと!?猫に聞けだなんてからかわれているに違いない。だが例え相手が言葉の通じない動物だとしても、傷つけてしまったものに対して謝罪をする心は確かに大切だ。


「さっきはすみませんでした。猫さん。足痛くないかな?」葵は彼が抱いている猫に話しかけた。


すると「痛いわボケ」と猫が答えた。


「しゃべった…?」


葵は一瞬パントマイムでも見せられたのかと思った。そして男の顔と猫を交互に見た。男は相変わらず意地悪そうなほほ笑みを浮かべている。猫はなんとなく不機嫌そうだ。


「そりゃあ、猫だって痛けりゃ文句も言う」


男が猫をなでながら言った。まるで葵が常識知らずとでも言いたげな調子だ。


「いやいやいや。猫がしゃべるわけないでしょ!あなたが言ったのね!」


葵は困惑を通り越して、怒りが込み上げてきた。


「見たままを受け入れなよ。そんなだから妖怪になってしまうんだ」男は愉快そうに言った。


「妖怪?私が妖怪?なんて失礼なの!そりゃあ私は美人ではないかもしれないけど、妖怪と言われるほど醜くないわよ!」


この人は黙っていたらまるでモデルさんみたいだけど、すっごく性格悪いみたいね。と葵は心の中で思った。

葵が一人憤慨しているのをよそに、男は柄杓で手水の水をすくって葵のところに持ってきた。


「ほら、見てみ」と葵に柄杓を手渡す。


葵は促されるまま、その柄杓に入った水をのぞき込んだ。とても澄んだ綺麗な水だった。


「なに、飲んでいいの?」


葵は柄杓の水を見て、自分の喉がカラカラだったことに気づいた。なにしろ家からずっと走ってきたものだから汗だくだった。


「あほか。見てみろって言ったんだよ」


ほんとに嫌なやつだ。こんな柄杓男に返して帰ろうかとも思ったが、男がじっと睨みつけてくるので、葵はしかたなく、もう一度柄杓の中をのぞき込んだ。

先ほどと変わらない綺麗な水だった。が、おかしなことに気づいた。水面に映るはずのものが映っていない。水面に映っているのは、見慣れた自分の顔ではなく、緑色の河童の顔だった。


「ぎゃ!河童!?」


葵は柄杓の中の水面に写る河童の姿を見て、反射的に柄杓を投げ捨てた。


「あ!柄杓を投げるな!」猫が叫んだ。


「なんなのこれは。猫がしゃべったり、自分が河童に見えたり。私の頭とうとうおかしくなってしまったんだ」


頭を抱えて苦悩している葵を見ながら、男は一層愉快そうだった。


「ははは。これはまた『いかにも』なのが来たもんだ」

男は無邪気に笑った。


「あんたにはきっと自分が妖怪になった理由がわからないんだろうな」

男は品定めをするように、猫を抱いたまま軽い足取りで葵の周りをゆっくり歩く。葵はこの男の余裕そうな顔を見ていると、なんだか怒りが込み上げてきた。


「私がなんで河童にならなきゃいけないのよ!あなたはいったい何者なの?」


葵は男に向かってまくし立てた。男は葵がすごんでも全く動じる様子はなく、


「私はこの国の八百万の神々のひとりだよ」


と自らを神だとのたまった。葵は自分のことを神だなんて言うやつに初めて会ったものだから、一瞬返答に詰まった。そして神と名乗る男は続けた。


「愚かな君に、今君に起こっていることいることを教えてやろう。ありがたく聞きなさい」


こんなやつの話なんか信じられない。そう思いながらも混乱した葵の頭は、男の言葉の続きを欲した。この訳の分からない現実を説明してくれるなら藁にもすがりたい。


「君は何かのきっかけでこちら側の世界にやって来て、河童になってしまった。君はこれから妖怪として新たな人生を歩んでいくんだ」


葵はポカンとした。藁にすがった結果、余計に混乱させられることになってしまった。やはり目の前にいる男は信用してはいけないようだ。


「あ!」神だという男が何か思い出したようにさけんだ。


「人生じゃなくて、河童生か!」


といってゲラゲラ笑いだした。心なしか猫も笑っている気がする。葵はもう一度この猫と神を蹴飛ばしてやりたい気分だった。


「まあそう落ち込むな。望みがないわけじゃない。妖怪から神になることだってあるし、あるいは人間に戻れるかもしれない」


「人間に戻るにはどうしたらいいの?」


「さあ、それは知らない」神はまたニヤニヤ笑っていた。


こいつはきっと人を苛つかせる神に違いない。きっとそうだ。それなら神だというのも納得できる。葵は自分が河童になったショックよりも、この男への怒りで頭がいっぱいになっていた。


「人が妖怪になる理由も様々、人や妖怪が神になる理由も様々だ。そういえば君はどうやってここに来たんだ?」


葵はこの神社にやってくるまでの経緯をこの神だという男に話した。いけ好かないやつだと思っても、窮地に陥った時は誰かに話を聞いてもらいたくなるものだ。

それにもしかしたら、ここに来た経緯と葵が河童になってしまった理由が、なにかしら関係しているかもしれない。神は葵の話を一部始終聞いて、


「せっかく美味しい蜂蜜を食べたのに後悔なんかするなよ」と怪訝な顔で言った。


これまでの話を聞いてなぜそこが引っ掛かるのかと葵も怪訝な顔になっていた。もっと他に河童になる原因となるような、例えば猫を蹴飛ばしたことや、もしかしたらこの神社に原因があるのかもしれないし、実は今日食べた蜂蜜が呪われていたなんてこともあるかもしれない。


「たかが遅刻くらいで、つまらないやつだな」


葵はうなだれた。神様。いくらなんでも河童にするなんてひどくないですか。どうせなら、どこぞのお姫様や、すごい能力を持った勇者なんかにしてほしかった。河童なんて、せいぜい泳ぎがちょっとうまくなるくらいでしょ…


「でもまあ自分で思ってるよりは酷い姿じゃないから安心しな」


きゅうり中毒になっていないことがせめてもの救いね。などと訳の分からない慰めを自分に言い聞かせている葵に神が言った。

神と名乗る男は今度は懐から鏡を取り出して葵に見せてくれた。その鏡に映るのはいつもの自分の姿だった。


「え、どういうこと?」


「あの手水の水はあらゆるものの真の姿を映す水。さっき手水の水に映ったのは君の真の姿、つまり河童になった君だ。だが、ある程度妖力のあるものは仮面を被ることができる。君はそこそこ妖力があったらしいな」


つまり、河童になってしまったけれど、妖力があったから一応人の姿は保つことができてる。河童が人の皮を被っているということだ。葵は自分がそんな化け物になってしまったのだと思うと、なんだか気分が悪くなった。


「じゃあ、あなたも仮面を被っているの?」


「これが私の真の姿だ。神なのだから仮面を被る必要などない」


そう聞いても葵はまだこの男が、実は醜い鬼か何かなのではないかと思った。だってこんなに意地悪なやつがこんなに美しい神様なはずないんだから!


「じゃあ神様。名前を教えてよ。八百万もいるんでしょう。神様って呼ぶんじゃ他の神様と区別できないじゃない」


神はそれを聞いて「意外とまともな質問もできるんだな」と言った。


そして「私の名前は『瑞穂』だ」と名乗った。


覚えやすい名前でよかった。とんでもなく長い名前だったら覚えられないし、絶対に途中でかんでまたこの神様にバカにされるところだった。


「この神社は、みずほの神社なの?」


「ここは、『あちら側』と『こちら側』の境界だ。私はこれから『こちら側』に帰る。君も一緒に来るか?河童くん」


葵は今まで暮らしてきた世界で、河童として暮らすことを想像してみた。するとなんだか河童が住むには、今まで葵が生きてきた世界は窮屈に思えた。だったらこの神様に騙されたと思って、別の世界に行ってみるのもいいかもしれない。普段は優柔不断で何を決めるにも散々悩む葵だが、この時は不思議と迷わなかった。


「連れてって」


葵は力強く答えた。

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