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近いほうは

 え。


 いや、おいおい。


 待てって。なあ、ちょっとほんと待ってくれって。


 俺は混乱していた。というよりも、当惑していた。まさか岬がそんなことを言い出すなんて、これっぽっちも考えてはいなかった。


 これまで一度だって、岬が誰かに辛辣な態度を取っているところなんて見たことがなかった。こんな険しい表情を、こんな厳しい視線を、他人に向けている姿なんて初めてだ。


 なのに今、岬は俺を睨んでいる。


 ぎゅっと鞄を握る手に力を込めて、拒絶の意志をこちらに叩きつけている。


「もう、私に、関わらないでください。本当にうんざりなんです。色々と、たくさんのこと……が」


 あえぐような口調で、さらにそう言って俺を突き放す。唇を震わせながらも、肩を強張らせながらも、放たれた言葉の意味は疑うべくもない。


 つまり、なんだ。もう俺とは話したくないと、俺なんかとはもう関わりたくないと。


 そういうことなのか。もういらないと、そんなことを岬は言っているのだろうか。


「なんで、だって……」


 言いかけた言葉は、力なくぽとりと地面に落ちる。


 なんで彼女は、どうして俺を――という疑問は、しかしすぐに自己嫌悪で塗りつぶされてしまったからだ。


 だって先に突き放したのは俺のほうではないか。それも一方的な俺の都合で、勝手に突き放して傷つけた。そんな俺が、どうして言える? なぜ、拒絶するのかと。どうして、今になって突き放すのだと。


 だから俺にはなにも言えない。岬のことを非難できない。そんな権利は、俺にはない。


 そして、権利があるとかないとかいう話をするとするなら、岬には俺を突き放す権利がある。俺が彼女に与えた傷を、そのまま俺にやり返しているだけのことだから。そしてそれは、俺の身から出た錆でしかないのだから。


 だから、なんだ。これは、罰か。


 迷走した俺の都合に巻き込んで、悲しませたり寂しがらせたりした俺の罪に対する、制裁か。


 そう考えれば、それこそ本当に言葉もない。受け入れるしか他にない。


 岬に向かって伸ばした腕がだらりと垂れ下がる。そんな俺のことを、岬が悲しげな瞳でしばらく見つめていた。


「……それでは、さよならです」


 だけど、そんな時間も長くは続かない。やがて岬はそうぽつりと零すと、俺から視線を引きはがして踵を返した。


「……っ」


 坂の向こうに消えていく背中を追おうとして、思わず俺は一歩踏み出す。


 だけど、それ以上は足を進めることができない。彼女から受けた拒絶は、まるで俺の体をその場に縛り付けてでもいるかのようだった。


「岬……」


 か細い声で名前を呼んでも、彼女が振り返ってくれたりすることはない。岬の存在を失いそうな今になって、愚かにも俺はようやく気付き始めていた。彼女の存在が、俺にとっては本当に掛け替えのない、大切なものだということに。


 でもそれも、失う。


 自分のせいで、俺が選択を間違えたせいで。


 こればかりは本当に、他の誰のせいでもない。


 ようやく、ちゃんとやり直そうと思えたところなのに――だなんて言い草は、理由にも言い訳にもなりはしない。それも結局俺の都合でしかなくて、それに岬が合わせなければならないという道理なんてものはない。


 だから。


 俺は、遠ざかっていく岬の背中を、ただ見つめ続けることしかできなかっ――。


「……え?」


 諦めと自己嫌悪と自己憐憫に心が支配されかけた、その瞬間。


 岬の背中が、ぐらりと揺れた。


 そのまま彼女の体が安定を失い、崩れるようにその場に倒れる。


 岬の手から離れた鞄が、少し離れたところに落ちる。ぐったりとした様子で、それでもなお起き上がろうとしている岬の背中が、不意に激しく折れ曲がる。


「ぜっ……か、はっ……」


 後ろからでも、岬が必死で呼吸をしようとしているのが見えた。ぜーぜー、ひゅーひゅー、という喘息特有の呼吸音が、離れていてもここまで聞こえてくる。


 なにかを求めるように、岬が懸命に両手を伸ばす。だが、その指先は空を掠めるばかりだった。


「……っ、岬! 呼吸器!」


 そこで俺はようやく我に返る。色んなことが一瞬で吹き飛んで、急いで岬の元へと駆け寄ると、地面に落ちた鞄から取り出した呼吸器を彼女の口元にあてがった。


 同時に一方の手で岬の背中を支え、ゆっくりと撫でる。昔からこうすると、少しだけ早く症状が治まるのだ。


 次第に、岬の呼吸音が正常なものへと戻っていく。短い発作だったが、それでも体力をかなり消耗したらしく、その瞳は虚ろだった。


「おい、岬。大丈夫か? ……岬?」


 そう呼び掛けると、岬がゆっくりとその目をこちらに向けてくる。


 それから小さく、彼女は唇を動かした。


「透夜……く、ん」


「……なんだ?」


「ご、め……ね」


 なにを言おうとしたのか、よく聞き取れない。「すまん、もう一度」と言いながら岬の口元に耳を近づけたところで、不意に彼女の体から力が抜けた。


 見れば、岬がすやすやと寝息を立てている。大方、発作で体力を消耗したせいで、意識が落ちてしまったのだろう。俺に寄りかかった状態で、安らかな寝顔を晒していた。


 こうなってしまったら、起こすというわけにもいかない。かといって、ここにこのまま放置しておくというのは、もっとない。


 となれば、俺に取れる選択肢など限られている。学校か、あるいは岬の家まで運ぶかのどちらかなのだろうが――。


 ……ここからだと、学校より岬んちの方が近いんだよなあ。

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