アリスがゆく! 〜図書委員の最強美少女、忘れられた絵本世界を物理で救う〜
第1話 図書委員アリス、旧書庫に落ちる
鏡野アリスは、今日という日を朝から信じていなかった。
まず、スマホの占いアプリが最下位だった。
ラッキーアイテムは「古い本」。
ラッキーカラーは「森の緑」。
そして一言アドバイスは、こうだった。
『予定外の場所に、運命の出会いがあるかも』
「うさんくさ」
アリスは登校中の電車でそれを見て、秒でアプリを閉じた。
金髪のツインテールを揺らしながら、窓に映った自分を確認する。今日も顔はいい。肌もいい。前髪も完璧。占いが最下位でも、鏡野アリスの可愛さは最上位である。
だから問題ない。
今日の放課後は、親友の音咲葵と一緒に、駅前にできた新作スイーツ専門店へ行く予定だった。
冬限定、白雪ミルフィーユ。
サクサクのパイ生地に、白いクリームと粉雪みたいな砂糖。動画で見た瞬間、アリスは保存した。葵は拝んだ。二人の中では、もはや学校へ行く理由がそれになっていた。
なのに。
「鏡野」
昼休み直前、担任に呼び止められた瞬間、アリスは嫌な予感がした。
この手の声かけに、ろくな用件はない。
「今日の放課後、図書館な」
「は?」
「蔵書整理。冬休み前の点検だってさ。伊原先生から伝言」
「なんでアタシが?」
「図書委員だろ」
「…………」
アリスは、しばらく固まった。
図書委員。
それはたしか、春の委員決めの日に、たまたま遅刻したら勝手に名前を書かれていた役職である。
活動内容は知らない。
図書室の場所も、うっすらしか知らない。
委員会のグループチャットは通知オフにしている。
「いや、でも、アタシ、今日予定あるんですけど」
「図書委員の仕事より大事な予定か?」
「大事です。新作ミルフィーユです」
「却下」
「人の人生をなんだと思ってるんですか?」
「高校生活」
担任は、どこかで聞いたようなきれいごとを言い残して去っていった。
アリスはその背中に向かって、心の中でミルフィーユの角を突き刺した。
「アリスちゃん……」
隣で葵が両手を胸の前で握っていた。
柔らかい茶色の髪。ふわふわした声。怒るという概念を神様に返してきたような顔。
音咲葵は、アリスとは幼稚園からの付き合いである。
つまり、アリスが本当に怒っているときと、まあまあ怒っているときと、とりあえず誰かを蹴りたいだけのときの違いがわかる数少ない人間だった。
「がんばってね。私、応援してる」
「応援だけ?」
「うん」
「そこは一緒に来る流れじゃないの?」
「でも、ミルフィーユが……」
葵の目が、わずかに潤んだ。
アリスは天を仰いだ。
負けた。
親友の涙に負けたのではない。ミルフィーユの引力に負けた。
「いいわよ。行ってきなさいよ。アタシの分まで食べてきなさいよ」
「いいの?」
「そのかわり、写真送ったら絶交だから」
「わかった。動画にするね」
「絶交って言ったよね?」
葵は、ぱあっと笑った。
「アリスちゃんの分まで、ちゃんと味わってくるね」
「なんか腹立つ言い方ね」
「大丈夫。私はアリスちゃんのために、全力で食べるから」
「死ぬほど食べてきなさい」
「うん。生きて帰るね」
葵は真面目な顔でうなずいた。
そして放課後、葵はミルフィーユへ旅立ち、アリスは図書館へ送られた。
人生は不公平である。
某私立鏡星学園の図書館は、校内の端にあった。
正確には、校内にあるというより、校内に隣接した別の建物だった。
五階建て。
全面ガラス張り。
一般開放あり。
電子書籍端末、地域資料室、映像アーカイブ、カフェスペース、閲覧ラウンジ、そして地下書庫まで備えた、もはや学校図書館という名前で呼ぶにはサイズ感を間違えている建物。
「これ、図書館っていうか、市の施設でしょ」
アリスは入口の自動ドアの前で立ち止まった。
ガラスに映る自分を見る。
今日も可愛い。
だが、顔が可愛くても、蔵書整理は減らない。
ため息をついて中へ入ると、エントランスの中央に、ひとりの女性が立っていた。
白いジャージの上に、なぜか薔薇柄のスカーフ。
肩まで流れる金に近い茶髪。
無駄に姿勢がいい。
無駄に目力がある。
無駄に片手を胸に当てている。
「よく来たわね、鏡野アリス!」
声が響いた。
図書館の天井まで響いた。
アリスは反射的に一歩下がった。
「帰っていいですか」
「まだ名乗っていないのに?」
「知ってます。伊原先生ですよね。通称ベルバラ先生」
「そう。美しき薔薇には棘がある。体育教師にして図書委員会臨時顧問、伊原尚美!」
「体育教師がなんで図書委員会を?」
「細かいことを気にする子は、背が伸びないわよ」
「関係あります?」
「たぶんないわ」
言い切られた。
アリスは、この人とはまともに会話しない方がいいと判断した。
伊原尚美。
生徒からの通称、ベルバラ先生。
授業ではフェンシングの構えで出席確認をする。文化祭ではひとり宝塚みたいな演目をやる。卒業式では泣きすぎて主役より目立つ。
顔はいい。
スタイルもいい。
だが、言動のクセが強すぎる。
黙っていれば美人。
動くと事故。
そういうタイプの大人だった。
「それで、アタシは何をすればいいんですか。早く終わらせたいんですけど」
「せっかちね。若さは疾走。青春は風。けれど本は――」
「用件」
「蔵書整理よ」
「知ってます」
「地下旧書庫の未登録本を、全部リスト化して」
「は?」
アリスは聞き返した。
ベルバラ先生は、にっこり笑った。
「地下旧書庫の未登録本を、全部リスト化して」
「聞こえなかったんじゃなくて、意味がわかんなかったんですけど」
「大丈夫。私もよ」
「ダメじゃん」
ベルバラ先生は、懐から一輪の造花の薔薇を取り出した。
どこに入れていたのかはわからない。
わかりたくもない。
「本来なら、図書委員一年生全員でやるはずだったの。でもね、誰も来ないのよ。既読はつくのに返事がないの」
「現代の闇ですね」
「だから私はこれから、逃げた委員たちを一人ずつ捕まえに行くわ」
「今から?」
「今から」
「先生が?」
「私が」
「その間、アタシひとり?」
「そう」
「普通に無理ですけど」
「無理を可能にするのが青春よ」
「青春に責任押しつけないでください」
ベルバラ先生はアリスの肩に手を置こうとした。
アリスは自然に半歩ずれた。
先生の手は空を切った。
「距離感バグってますよ」
「最近の子はガードが堅いわね」
「先生のコンプラがゆるいんです」
「そこが私のチャームポイント」
「反省してください」
ベルバラ先生は、なぜか嬉しそうに胸を張った。
「ではアリス。あなたに任務を授けるわ」
「任務って言えばかっこよくなると思ってます?」
「地下旧書庫の奥に、分類番号がない本がいくつかあるの。古い絵本、寄贈資料、誰が置いたかわからない本。冬休み前に整理しないと、管理システムに怒られるのよ」
「管理システムに?」
「この図書館、半分くらいAIで動いてるから」
「もう人間いらないじゃないですか」
「でも、AIは本棚の隙間に落ちた本を拾ってくれないの」
「意外とアナログ」
「それに、旧書庫は電波が悪い」
「最悪」
ベルバラ先生は一枚のカードキーをアリスに渡した。
「地下二階。旧書庫B。未登録本を見つけたら、この端末でバーコードを読み取って。バーコードがなければ、表紙の写真を撮って仮登録。危ないものは触らない。怪しいものは開かない。変な声が聞こえたら返事をしない」
「最後の何?」
「図書館あるあるよ」
「絶対違う」
「じゃ、行ってくるわ。逃げた子たちに、薔薇の制裁を」
「その表現やめた方がいいですよ」
ベルバラ先生はくるりと踵を返した。
そして出口へ向かいながら、舞台女優のように片手を上げる。
「アリス!」
「はい?」
「私が帰るまで、図書館を頼んだわ!」
「重い!」
叫んだころには、先生はもういなかった。
エントランスに残されたのは、アリスと、カードキーと、やたら広い図書館だけだった。
「……絶対、労基に言う」
高校生に労基が適用されるかは知らない。
だが言うだけなら自由である。
地下旧書庫は、エレベーターを降りた瞬間から空気が違った。
上の階は明るく、清潔で、カフェラテの匂いがした。
地下二階は冷たい。
紙と埃と、少しだけ湿った木の匂いがする。
壁の照明は人感センサー式らしく、アリスが歩くたびに、ぽつ、ぽつ、と奥へ明かりが灯っていく。
「ホラーゲームなら、ここで戻るやつね」
だが、アリスは戻らない。
なぜなら戻ってもベルバラ先生はいないし、葵はミルフィーユを食べているし、アリスは腹が立っているからだ。
怒りは、ときに勇気より強い。
旧書庫Bの扉にカードキーをかざす。
ピッ、という電子音。
重い扉が、ゆっくり開いた。
「うわ……」
アリスは思わず声を漏らした。
中は、想像以上だった。
天井まで届く本棚が、いくつも並んでいる。
古い木製の棚。
ところどころに金属の補強。
背表紙が色あせた本。
布張りの箱。
紐で束ねられた雑誌。
ラベルの剥がれた絵本。
上の階の図書館が「情報をきれいに並べた場所」だとしたら、ここは「忘れられたものを押し込めた場所」だった。
「こんなの、ひとりで終わるわけないでしょ」
アリスは端末を起動した。
画面には作業リストが表示される。
『未登録資料推定数:328』
「帰ろうかな」
即座に心が折れた。
だが、そのタイミングでスマホが震えた。
葵からだった。
写真ではない。
動画でもない。
ただ一言。
『アリスちゃん、がんばって。ミルフィーユ、すごくおいしい』
「言うなって言ったよね?」
アリスはスマホを握りしめた。
怒りが戻った。
よし。
終わらせる。
終わらせて、葵に一口もらう。
いや、半分もらう。
いや、葵の財布で追加注文する。
アリスは近くの棚から、適当に古い絵本を引き抜いた。
「えーっと、表紙写真、タイトル入力、分類……分類って何? 童話は童話でしょ」
端末を向ける。
ピントが合わない。
「ちょっと、動かないでよ」
本は動いていない。
動いているのはアリスの集中力である。
一冊。
二冊。
三冊。
五冊目あたりで飽きた。
「無理」
アリスは本棚にもたれかかった。
そのときだった。
視界の端で、何かが光った。
「ん?」
棚の一番下。
奥に押し込まれるようにして、一冊の絵本があった。
背表紙はない。
分類シールもない。
表紙は深い緑色で、角はすり切れている。
中央には、金色の線で小さな扉が描かれていた。
タイトルはない。
でも、なぜか目が離せなかった。
「……なにこれ」
アリスはしゃがんで、その本を引っ張った。
抜けない。
もう一度引く。
やっぱり抜けない。
「こういうの、腹立つのよね」
アリスは両手で本をつかみ、ぐっと力を入れた。
棚の奥で、何かが鳴った。
カチリ。
「え」
その音は、本からではなかった。
棚の奥。
もっと深いところ。
まるで、古い鍵が回ったような音だった。
次の瞬間、本棚全体が揺れた。
「ちょ、待っ――」
アリスは立ち上がろうとした。
だが遅かった。
上の棚から、古い本が雪崩のように落ちてくる。
どさどさどさっ、と重い音が続いた。
「最悪! 最悪最悪最悪!」
アリスは腕で頭をかばいながら後ろへ下がった。
足元に落ちていた本を踏む。
バランスが崩れる。
掴んでいた緑の絵本が、勢いよく開いた。
ページから、風が吹いた。
地下書庫なのに。
窓なんてないのに。
草の匂いがした。
「……は?」
開いたページには、森が描かれていた。
小さな川。
白い花。
奥へ続く小道。
絵のはずなのに、木々が揺れている。
鳥の声が聞こえる。
ページの向こうで、光が瞬いた。
アリスは反射的に本を閉じようとした。
その前に、背後の本棚が大きく傾いた。
「うそでしょ!」
本棚が倒れてくる。
アリスは横へ飛んだ。
だが足元の本が滑った。
身体が宙に浮く。
開いた絵本が、目の前に広がる。
森の絵が、絵ではなくなる。
紙の白が光に変わる。
光が視界を埋める。
最後に聞こえたのは、図書館の管理AIの落ち着きすぎた音声だった。
『未登録資料を確認しました』
「今それどころじゃ――!」
言い終える前に、アリスは落ちた。
落ちた。
落ちた。
どこまでも落ちていく。
そして。
頬に、柔らかい草が触れた。
まぶたの上に、あたたかい光が落ちている。
鳥の声がする。
風が、髪をくすぐる。
「……あと五分」
アリスは寝ぼけた声でつぶやいた。
それから、ゆっくり目を開ける。
青い空。
白い雲。
見渡す限りの森。
図書館ではない。
旧書庫でもない。
地下二階でもない。
アリスは上半身を起こした。
自分の服を見る。
制服ではなかった。
水色のワンピース。
白いエプロン。
黒いリボン。
どこかで見たような、童話の少女みたいな格好。
アリスは数秒黙った。
それから、森じゅうに響く声で叫んだ。
「なにこれぇぇぇぇぇっ!?」
第2話 夢だと思ったら物理で勝てた
森だった。
どこを見ても森だった。
青い空。白い雲。風に揺れる木々。足元には柔らかい草。どこかで小鳥が鳴いている。
地下二階の旧書庫にいたはずなのに、目が覚めたら童話みたいな森の中。
そしてアリスの服は、制服ではなくなっていた。
水色のワンピース。白いエプロン。黒いリボン。黒い靴。ついでに髪のリボンまで、やたら童話っぽい。
「……なにこれ」
アリスは自分の格好を見下ろした。
似合っている。
腹立つくらい似合っている。
それが一番腹立つ。
「誰の趣味よ。いや、似合うけど。似合うけどさ」
アリスは立ち上がり、スカートの裾についた草を払った。
状況を整理する。
図書館。旧書庫。謎の絵本。本棚崩壊。光。落下。森。服が童話。
結論。
「夢ね」
早かった。
悩む時間は三秒だった。
「うん、夢。どう考えても夢。だって現実でこんな服に着替えさせられてたら事件だし」
自分で言って、少しだけぞっとした。
だが、夢なら問題ない。
夢の中なら、何が起きても夢である。
森にいても夢。
服が変わっても夢。
鳥が歌っても夢。
空からケーキが降ってきても夢。
「だったら、好きにしていいってことよね」
アリスは腕を組み、仁王立ちになった。
鏡野アリスは、自分の夢の中では支配者である。
たぶん。
きっと。
そういうことにする。
「まずは、ケーキ」
アリスは空に向かって命じた。
「出なさい。白雪ミルフィーユ。できれば二個。いや三個。あと紅茶」
何も起きなかった。
鳥が鳴いた。
葉っぱが揺れた。
アリスは眉をひそめた。
「夢のくせに気が利かないわね」
仕方なく歩くことにした。
森の中は明るく、空気は甘い。どこかで花が咲いている匂いがする。道らしい道もあり、童話の世界に迷い込んだと言われれば、まあ納得できる景色だった。
ただし、アリスは納得しない。
「夢ならタクシーくらい出しなさいよ」
ぶつぶつ文句を言いながら歩く。
五分。
十分。
十五分。
「もう無理」
早かった。
アリスは近くの切り株にどかっと腰を下ろした。
「なんでアタシの夢なのに、アタシが歩かなきゃいけないのよ。おかしいでしょ。夢ならもっとこう、ぱーっと場面転換とかあるでしょ」
そのときだった。
「おや。森の中に、可憐な少女がひとり」
急に声がした。
アリスは顔を上げた。
そこに、王子がいた。
王子。
それ以外に説明しようがない男だった。
金髪。白い服。無駄に長いマント。腰に細い剣。胸には薔薇。立ち方は舞台の上みたいで、片手を胸に当て、もう片手を空へ向けている。
ベルバラ先生の親戚かと思った。
「誰?」
アリスが聞くと、男はきらりと歯を光らせた。
「僕は王子さまだ」
「見ればわかる」
「わかるのか。素晴らしい。君は賢い少女だね」
「いや、見た目がうるさいだけ」
王子は聞いていなかった。
彼はアリスの前にひざまずき、いかにも王子らしい笑顔を浮かべる。
「美しいお嬢さん。君はなぜ、こんな森にひとりで?」
アリスは一瞬考えた。
夢である。
なら、適当に乗ってもいい。
むしろ、こういう変な展開は乗った方が面白い。
アリスはすっと表情を作った。
「実はアタシ、隣の国のお姫様なの」
「なんと!」
「お父様とケンカして、お城を飛び出してきたの。だから今は、身分を隠して旅をしているのよ」
王子の目が輝いた。
単純だった。
心配になるくらい単純だった。
「お姫様! それは運命だ!」
「え、信じるの?」
「もちろんだとも。君ほど美しい少女が姫でないはずがない」
「見る目はあるわね」
アリスは少し機嫌を直した。
王子は立ち上がり、マントをばさっと払った。
「実は僕も、運命の出会いを求めていたところなんだ」
「へえ」
「本来なら、僕は今から怪物にさらわれた妖精の姫を助けに行く予定だった」
「予定だった?」
「しかし、考えてみれば怪物は危ない」
「でしょうね」
「塔は高い」
「そうね」
「剣は重い」
「鍛えなさいよ」
「しかも僕は第二王子だから、自分の国を継げない」
「急に現実的ね」
「そこでだ!」
王子は両手を広げた。
「君、僕と結婚しないか?」
森が静まり返った。
鳥も鳴きやんだ気がした。
アリスは真顔になった。
「なんで?」
「君は姫。僕は王子。完璧だ」
「どこが?」
「君の国を僕がもらい、僕は王になる。君は美しい妃になる。誰も傷つかない」
「アタシの国が傷ついてるんだけど」
「細かいことは結婚してから考えよう」
「結婚してから考えるな」
王子はじりじり近づいてきた。
「さあ、僕の妃に」
「嫌」
「照れなくてもいい」
「嫌」
「君の瞳はイエスと言っている」
「言ってない。むしろ警察呼んでる」
「さあ!」
王子の顔が近い。
近い。
近すぎる。
アリスの眉がぴくっと動いた。
「アタシね」
「うん?」
「しつこい男、嫌いなの」
次の瞬間。
森に、乾いた音が響いた。
アリスの平手が王子の頬を完璧に捉えた。
王子は横に飛んだ。
比喩ではない。
本当に飛んだ。
美しい放物線を描いて、くるくる回り、茂みに突っ込み、どさっと落ちた。
「…………」
アリスは自分の手を見た。
「え、今のそんな強くなかったよね?」
茂みの中で、王子がぴくぴくしている。
アリスは近づいて、しゃがんだ。
「生きてる?」
王子の鼻先に指を当てる。
息はある。
「よし」
よしではない。
だが、夢なのでよしである。
「夢だと物理補正かかるのね。便利じゃん」
アリスは満足げに立ち上がった。
そのとき、足元を白いものが横切った。
「遅い。遅い。いや、早い。いや、そもそも時間とは何だろう」
白いウサギだった。
ただのウサギではない。
二本足で立っている。
小さなシルクハットをかぶり、ジャケットを着て、首から懐中時計を下げている。
完全に童話の住人である。
ウサギはアリスを見ると、片手を上げた。
「やあ」
「……こんにちは」
反射的に挨拶してしまった。
ウサギは懐中時計を見た。
それから空を見た。
それから地面を見た。
それからまたアリスを見た。
「君はウサギではないね」
「見ればわかるでしょ」
「見るとは何だろう」
「面倒くさ」
「目で見る。心で見る。時計で見る。見られるものは、見るものによって変わる」
「急に哲学始めないで」
ウサギは首を傾げた。
「君はどこへ行くんだい?」
「知らない。ここがどこかも知らないし」
「知らない場所へ行くのは簡単だ。もう知らない場所にいるのだから」
「答えになってない」
「答えとは、問いが欲しがる服のようなものさ」
「何言ってんの?」
「つまり、君はウサギではない」
「最初からそう言ってる」
アリスはこめかみを押さえた。
夢の中のくせに、会話の難易度が高い。
「ねえ、この森の出口はどっち?」
「出口?」
「そう。出口」
「入口から入ったなら、出口はあるだろう」
「うん」
「でも、入口から入っていないなら、出口はないかもしれない」
「最悪」
「ただし、出口がないということは、どこへ行っても間違いではないということだ」
「都合よく言い換えたわね」
ウサギはステッキで森の奥を指した。
「あちらへ行くと、ウサギではない者たちがいる」
「それはほぼ全員そうでしょ」
「あちらへ行かないと、こちらに残ることになる」
「当たり前のことを深そうに言わないで」
「僕はお茶会に行く。時間が遅れているからね」
「遅れてるの?」
「時間の方が、僕に追いついていない」
「もういいわ」
ウサギはぴょんぴょんと歩き出した。
そして森の奥へ消える直前、振り返った。
「夢だと思うなら、起きるまで楽しむといい」
アリスは目を細めた。
「……なんか意味深なこと言った?」
ウサギはもういなかった。
アリスは腕を組んだ。
「まあ、夢だし」
便利な言葉だった。
アリスはウサギが指した方へ歩き出した。
しばらくすると、歌が聞こえてきた。
軽いメロディ。
高い声。
同じフレーズを、三つの声が順番に歌っている。
木の枝の上に、三匹のリスがいた。
普通のリスだ。
ただし、歌っている。
「ららら、木の実は落ちる」
「ららら、落ちたら拾う」
「ららら、拾わなければ木の実ではない」
「いや、木の実でしょ」
アリスは思わず突っ込んだ。
三匹のリスが、同時にこちらを見た。
「人間だ」
「ウサギではない」
「リスでもない」
「その分類いる?」
一匹目のリスが言った。
「歌わないリスがいる」
二匹目が続けた。
「だから歌うリスもいる」
三匹目が胸を張った。
「つまり僕たちは正しい」
「何の証明にもなってない」
三匹は気にせず、また歌い出そうとした。
アリスは慌てて止める。
「ちょっと待って。この森を抜けたいんだけど、出口知ってる?」
一匹目。
「出口は、出たい者にだけ出口だ」
二匹目。
「入りたい者には入口だ」
三匹目。
「住んでいる者には、ただの道だ」
「だからどっち?」
三匹は顔を見合わせた。
そして同時に言った。
「あっち」
三匹の指す方向は、全部違った。
アリスは無言になった。
三匹はにこにこしている。
「……この夢、性格悪いわね」
一匹目のリスが言った。
「性格が悪い夢を見る人は」
二匹目が続けた。
「性格が悪いのかもしれない」
三匹目がうなずいた。
「夢は心の鏡だから」
アリスの笑顔が、すっと冷えた。
「へえ」
三匹のリスが、同時に一歩下がった。
「今のは歌詞」
「即興の歌詞」
「僕たちの意見ではない」
「よろしい」
アリスは拳を下ろした。
この森の住人は、全体的に面倒くさい。
アリスはリスたちを置いて、三匹が指した中で一番まともそうな道を選んだ。
まともそう、という判断に根拠はない。
だがアリスは自信を持って進んだ。
なぜなら夢だから。
しばらく歩くと、急に森が明るくなった。
木漏れ日が金色に揺れている。
花の匂いが強くなる。
そして、目の前に小さな光が浮かんだ。
蝶かと思った。
違った。
小さな女の子だった。
手のひらに乗りそうなほど小さく、背中に透き通った羽がある。髪は淡い金色で、花びらみたいな服を着ている。
妖精。
それ以外の言葉が見つからなかった。
妖精はアリスの目の前まで飛んできて、丁寧にお辞儀した。
「人間さん、こんにちは」
「……こんにちは」
今日だけで、ウサギとリスと妖精に挨拶している。
人生で一番ファンタジーな日だった。
夢だけど。
「あなたは、なぜこの森に?」
妖精が尋ねた。
アリスは考えた。
王子には姫と名乗った。
でも、同じ手はつまらない。
ここはもう少し盛るべきだ。
夢なのだから。
アリスは髪を払った。
「アタシは鏡野アリス」
妖精が目を丸くする。
「アリス様」
「超一流の美少女魔法使いよ」
言った。
言い切った。
自分でもなかなかの設定だと思った。
妖精は両手を合わせた。
「まあ……!」
「妖精のお姫様が怪物にさらわれたって聞いて、助けに来てあげたの。感謝しなさい」
妖精の顔がぱあっと明るくなった。
「本当ですか!」
「本当よ」
夢だけど。
「魔法使い様が来てくださるなんて……! 長老様にお伝えしなければ!」
「長老?」
「はい。妖精の里の長です。アリス様、どうかこちらへ。私たちの里へご案内します」
妖精は嬉しそうに飛び回った。
アリスは少しだけ困った。
まさか信じるとは思わなかった。
この世界の住人、全体的に人を疑わなすぎる。
「ちなみに、そのお姫様って、どこにさらわれたの?」
「星見の塔です」
「星見の塔」
「湖の中央に立つ、夜を閉じ込めた塔です」
「へえ」
ちょっとだけ面白そうだった。
アリスは腕を組み、うなずいた。
「いいわ。案内しなさい」
「はい!」
妖精は森の奥へ飛んでいく。
アリスはその後を追った。
途中で、緑のトンネルが見えた。
草と蔦が絡み合ってできた、小さな穴。
妖精はそこを指した。
「この先が里です」
「狭くない?」
「少しだけ身を低くしてください」
「少し?」
アリスは穴を見た。
どう見ても、少しではない。
しゃがむどころか、ほぼ這う必要がある。
「アタシ、超一流の美少女魔法使いなんだけど」
「はい」
「魔法使いにハイハイさせるの?」
「申し訳ありません。入口が昔からこの大きさで」
「設計ミスでしょ」
文句を言いながらも、アリスは膝をついた。
狭いトンネルを進む。
土の匂い。
草の匂い。
服に葉っぱが引っかかる。
髪に小枝が触れる。
「夢ならもっと楽に通してよ……」
ぶつぶつ言いながら進んで、ようやく出口の光が見えた。
アリスは勢いよく外へ出た。
そして、息を止めた。
そこは、森の中とは思えないほど広い空間だった。
巨大な花がラッパみたいに音を奏でている。
キノコの家が並んでいる。
透明な羽の妖精たちが、光の粒をこぼしながら飛び交っている。
小さな川には、星みたいな魚が泳いでいた。
空気がきらきらしている。
童話の挿絵を、そのまま立体にしたような場所。
アリスは思わず、口を開けた。
「……すご」
すぐに我に返って、咳払いをする。
「まあ、アタシの夢にしては悪くないわね」
妖精はにこにこ笑っている。
「ようこそ、妖精の里へ。アリス様」
その声に反応して、周りの妖精たちが一斉にこちらを見た。
「人間?」
「魔法使い様?」
「姫様を助けに?」
ざわめきが広がる。
アリスは一歩前に出た。
注目されるのは嫌いではない。
むしろ好きである。
腕を組み、胸を張り、堂々と宣言した。
「そうよ。アタシが来たからには、もう大丈夫」
妖精たちの目が輝く。
「アタシは超一流の美少女魔法使い、鏡野アリス」
風が吹いた。
花が鳴った。
光が舞った。
完璧な登場シーンだった。
アリスは満足した。
その直後、お腹が鳴った。
ぐう。
妖精たちが静まり返った。
アリスは真顔のまま言った。
「まず、何か食べさせて」
こうして、超一流の美少女魔法使いアリスは、妖精の里へ迎え入れられた。
本人はまだ、全部夢だと思っていた。
第3話 妖精の里と毒舌パック
妖精の里は、アリスが思っていたよりずっと本気だった。
巨大な花が楽器みたいに音を鳴らし、光る魚が小川を泳ぎ、キノコの屋根の家がぽこぽこ並んでいる。空には妖精たちが舞い、地面には星屑みたいな粉がきらきら落ちていた。
完全に絵本。
完全にファンタジー。
完全に夢。
「まあ、悪くないわね」
アリスは腕を組み、なるべく感動していない顔を作った。
本当は少しだけ感動していた。
だが、素直に「きれい」と言うのは負けた気がする。
「アリス様!」
里へ案内してくれた妖精が、興奮した声で仲間たちに告げた。
「こちらの方が、姫様を助けに来てくださった人間の魔法使い様です!」
「魔法使い様?」
「人間なのに?」
「大きい……」
「足、長い……」
「顔、強そう……」
「顔は可愛いって言いなさいよ」
アリスが低い声で訂正すると、妖精たちは一斉にびくっとした。
「か、可愛いです!」
「とても可愛いです!」
「強そうで可愛いです!」
「よろしい」
アリスは満足した。
夢の中でも、評価は正確であるべきだ。
そのとき、妖精たちの輪がふわりと割れた。
奥から、白いひげをたくわえた小さな老人の妖精が飛んでくる。
杖をつき、背筋を伸ばし、いかにも長老という見た目をしている。見た目だけなら立派だ。サイズは手のひらくらいだが、雰囲気はある。
「おお……あなたが、魔法使いアリス殿か」
「そうよ」
アリスは胸を張った。
「超一流の美少女魔法使い、鏡野アリスよ」
「超一流……」
「美少女……」
「魔法使い……」
妖精たちがざわめく。
信じるのが早い。
もう少し疑った方がいい。
だが、持ち上げられるのは嫌いではない。
長老は空中で深々と頭を下げた。
「どうか、わしらの姫をお救いくだされ」
「事情を説明しなさい」
「はい。わしらの姫は、三日前、星見の塔に棲む怪物王にさらわれました」
「怪物王」
「恐ろしい怪物です。空に顔を映し、雷を鳴らし、里を脅かします。姫を返してほしければ、誰かが塔まで来いと」
「ふうん」
アリスはあごに手を当てた。
王子が言っていた妖精のお姫様。
怪物。
星見の塔。
話はつながった。
夢にしては、妙にストーリーがある。
「その怪物、強いの?」
「それはもう恐ろしく」
「大きいの?」
「空いっぱいに顔が広がるほど」
「顔だけ?」
「顔だけ見ました」
「実物は?」
「見ておりません」
「じゃあ弱いかもね」
長老が固まった。
妖精たちも固まった。
アリスだけが当然のように言った。
「だって、本当に強いなら、わざわざ映像で脅さないで直接来るでしょ。リモートでイキってる時点で怪しいわよ」
「り、りもーと?」
「気にしなくていいわ。夢だし」
長老は困惑しながらも、もう一度頭を下げた。
「どうか、姫をお助けください。あなた様だけが頼りなのです」
「いいわよ」
「おお!」
「ただし」
アリスは人差し指を立てた。
妖精たちが息をのむ。
「見返りは?」
「……見返り?」
「そう。報酬。財宝。お礼。記念品。あと甘いもの」
妖精たちは顔を見合わせた。
長老は目をぱちぱちさせた。
「人助けに、見返りを求めるのですか?」
「求めるわよ。可憐でか弱い美少女が危険な塔に行くのよ。むしろ無料で行かせようとしてたの?」
「可憐でか弱い……?」
どこかで小さくつぶやく声がした。
アリスはそちらを見た。
妖精たちが一斉に目をそらした。
「何か?」
「いえ、何も」
長老は慌てて杖を振った。
すると、近くの妖精たちが五人がかりで一本の剣を運んできた。
美しい剣だった。
銀の刃に、蔦のような模様が入っている。柄には小さな青い石が埋め込まれ、鞘は白木でできていた。
「これは、わしらの里に伝わる宝剣です。姫をお救いいただけるなら、これをお持ちください」
「剣?」
アリスは剣を受け取った。
妖精五人がかりで運んでいた剣を、片手でひょいと持つ。
周囲が静まった。
「ちょっと重いわね」
アリスはぶん、と剣を振った。
風が鳴った。
近くの花が三本ほど横に倒れた。
妖精たちが悲鳴を上げて散った。
「あ、ごめん」
アリスは剣を見た。
「まあまあね。でもアタシ、魔法使いって設定なんだけど。杖とかないの?」
「杖は……ありません」
「気が利かない夢ね」
「夢?」
「こっちの話」
長老は咳払いした。
「姫を助けてくださった暁には、里にある宝をお好きなだけ差し上げましょう」
「宝って具体的には?」
「月光石、星蜜、虹糸、銀の木の実など」
「換金できる?」
「かんきん?」
「まあいいわ。あと甘いものは?」
「菓子なら、いくらでも」
アリスの目が変わった。
「本当に?」
「はい。この里の菓子は尽きません」
「やるわ」
即答だった。
姫より、財宝より、ケーキで決まった。
長老は安堵したように息をついた。
「では、明日の朝、星見の塔へ向かってくだされ。今日は里でお休みください」
「今行かないの?」
「塔は湖の中央にあります。道案内が必要でしょう」
「たしかに」
アリスは道を知らない。
夢とはいえ、迷うのは面倒だ。
長老は周囲を見回した。
「パック! パックはおるか!」
ざわめきの中から、ひとりの少年妖精が顔を出した。
アリスの肩くらいまで飛ぶ、小さな男の子の妖精だった。
短い茶色の髪。いたずらっぽい目。小さな羽。服は葉っぱと布を雑に組み合わせたような格好で、きちんとしている妖精たちの中では明らかに浮いている。
「なんだよ、長老様」
「この方の世話役を任せる」
「は?」
パックと呼ばれた妖精は、アリスを見た。
アリスもパックを見た。
お互い、第一印象は最悪だった。
「この性格きつそうな人間の?」
「誰が性格きつそうですって?」
「聞こえてんじゃん。耳はいいんだな」
「口の悪い虫ね」
「妖精だよ!」
「サイズ的に似たようなもんでしょ」
「全然違う!」
長老が慌てて間に入った。
「パック。この方は姫を救ってくださる大切なお客様じゃ。失礼のないように」
「俺じゃなくてもいいだろ。もっと愛想のいいやつにしろよ」
「塔までの道を一番よく知っているのはお前じゃ」
「知ってるけどさあ」
パックは嫌そうにアリスを見た。
「本当に姫様を助けられるのかよ、この人間」
「失礼ね。アタシは超一流の美少女魔法使いよ」
「魔法使えんの?」
「……これから使う予定」
「使えないんじゃん」
「夢なんだから、そのうち出るわよ」
「さっきから夢って何だよ」
「アタシの夢よ」
パックは、しばらくアリスを見つめた。
そして長老に振り返った。
「長老様。この人、頭だいじょうぶ?」
「聞こえてるわよ」
「聞こえるように言ったんだよ」
アリスのこめかみに青筋が浮かんだ。
パックは一歩下がった。
「うわ、顔こわっ」
「可愛い、でしょ?」
「可愛い顔で怖いこと言うなよ」
「よくわかってるじゃない」
「褒めてねえよ」
長老は二人を見比べ、なぜか満足そうにうなずいた。
「うむ。相性は良さそうじゃ」
「どこが!?」
アリスとパックの声がきれいに重なった。
妖精たちが小さく拍手した。
「では決まりじゃ。パック、明日の朝までアリス殿の世話をするように」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
パックは露骨に不満そうな顔で、アリスの前に飛んできた。
「俺はパック。案内役。世話役。嫌だけどな」
「アリスよ。世話される側。こっちも別に嬉しくないけど」
「じゃあ気が合うな」
「合わないわよ」
そのとき、アリスのお腹が鳴った。
ぐう。
さっきより、はっきり鳴った。
パックが目を細めた。
「……魔法?」
「違うわよ!」
「腹の音、でかっ」
「今日は本当なら新作ミルフィーユを食べてるはずだったのよ。それを図書委員だの旧書庫だの本棚だので台無しにされて、今ここにいるの。つまりアタシは被害者なの」
「説明長いな。腹減ってるならそう言えよ」
「腹減ってる」
「急に素直」
パックは親指で奥を指した。
「菓子屋に連れてってやるよ」
「菓子屋?」
「この里の菓子はうまいぞ。人間のよりずっとな」
アリスの表情が明るくなった。
「早く案内しなさい」
「言い方」
「早く」
「はいはい、お姫様」
「アタシは魔法使い」
「設定ブレてんぞ」
パックが飛び始めた。
アリスはその後を追う。
妖精の里の道は、花びらで舗装されていた。歩くたびに柔らかく沈み、ほのかに甘い匂いがする。横では妖精たちが興味津々にこちらを見ている。
「ねえ、あの人が魔法使い?」
「強そう」
「可愛い」
「お腹鳴ってた」
「最後の言ったやつ誰?」
妖精たちは一斉に散った。
パックは笑った。
「お前、妖精にも怖がられてるぞ」
「尊敬されてるのよ」
「便利な解釈だな」
「人生は解釈で決まるの」
「それっぽいこと言っても、さっき腹鳴ってたからな」
「うるさい」
やがて、二人は大きなキノコの下に着いた。
そこには、菓子が山ほど並んでいた。
苺のタルト。
蜂蜜のパイ。
木の実のクッキー。
クリームを挟んだふわふわのケーキ。
透明なゼリー。
花びらの砂糖漬け。
しかも、妖精サイズだけではない。人間が食べるのと変わらない大きさのケーキも並んでいる。
アリスの目が輝いた。
「ここ、天国?」
「菓子屋だよ」
「お金は?」
「いらない」
「え」
「この里に金なんてないからな。必要な分を作って、必要なやつが食う」
「つまり」
アリスは震える声で言った。
「タダ?」
「まあ、人間の言葉で言えばそうだな」
アリスは両手を合わせた。
「この夢、最高」
「だから夢って何なんだよ」
店番の妖精が飛んできた。
「ご注文は?」
アリスは即答した。
「ここにあるもの、全部」
パックが固まった。
店番の妖精も固まった。
「……全部、ですか?」
「そう。全部」
「妖精サイズと人間サイズがありますが」
「全部」
「甘いものだけでなく、木の実パンもありますが」
「全部」
「お茶は?」
「もちろん」
パックが慌ててアリスの前に飛び出した。
「待て待て待て! 全部って言ったか?」
「言ったけど」
「バカなのか?」
「今、なんて?」
「いや、だから、普通は食べられる分だけ頼むんだよ」
「食べられるわよ」
「どこに入るんだよ、その細い身体に」
「可愛い身体って言い直しなさい」
「可愛い身体に、どこに入るんだよ」
「よろしい」
「よくねえよ!」
菓子が運ばれてきた。
最初は苺のタルト。
次に蜂蜜のパイ。
続いてクリームケーキ、チョコレートのような黒い木の実菓子、花蜜プリン、虹色ゼリー、香ばしい焼き菓子。
テーブルが埋まる。
隣のテーブルも埋まる。
さらに隣も埋まる。
妖精たちが見物に集まってきた。
アリスはフォークを手にした。
「いただきます」
一口。
止まった。
「……おいしい」
小さな声だった。
パックが意外そうに見る。
アリスはもう一口食べた。
目がきらきらした。
「なにこれ。人間界のケーキよりおいしいんだけど」
「だろ?」
「悔しいけど認めるわ。ここのケーキ、かなりやる」
「なんで上からなんだよ」
「ケーキに対しては真剣なの」
そこから、アリスは速かった。
タルトが消える。
パイが消える。
ケーキが消える。
クッキーが消える。
紅茶を飲む。
またケーキが消える。
妖精たちはだんだん静かになった。
パックは口を開けたまま固まっていた。
「おい」
「なに?」
「お前、本当に人間か?」
「失礼ね」
「いや、だって今、ケーキ何個食った?」
「数えてない」
「俺は数えた。途中で怖くなってやめた」
「大げさね」
「八十個までは見た」
「じゃあまだ全然じゃない」
「全然!?」
アリスは紅茶を飲み干し、ほっと息をついた。
「腹八分目って大事よね」
パックは椅子から落ちた。
「八分目!?」
「なによ」
「今の量で!?」
「ダイエット中だし」
「それ、ダイエットって言葉への冒涜だろ!」
「うるさいわね。甘いものは別腹なの」
「別腹にも限界があるだろ!」
アリスは最後の花蜜プリンをすくった。
「細かい男は嫌われるわよ」
「お前に好かれたい男、たぶん世界に少ないぞ」
「多いわよ。アタシ可愛いし」
「顔だけならな」
「だけ?」
アリスがにっこり笑った。
パックは羽を震わせて後ろへ下がった。
「顔も、だな」
「性格は?」
「……個性的」
「よろしい」
妖精たちがまた小さく拍手した。
パックは深くため息をついた。
「姫様、大丈夫かな……」
「大丈夫でしょ」
アリスは軽く言った。
「明日、助けに行くんだから」
「簡単に言うなよ。星見の塔には怪物がいるんだぞ」
「怪物くらい倒せばいいじゃない」
「お前、本当に怖くないのか?」
「夢だし」
「だから、その夢って――」
その瞬間。
空が暗くなった。
さっきまで明るかった妖精の里に、重い影が落ちる。
花の音楽が止まった。
妖精たちが一斉に空を見上げる。
低い笑い声が響いた。
「ガーッハッハッハ!」
雲の上に、巨大な顔が浮かんでいた。
角。
牙。
褐色の肌。
絵に描いたような怪物の顔。
妖精たちが悲鳴を上げる。
パックの表情が変わった。
「あいつだ……怪物王」
巨大な顔は里を見下ろし、口を開いた。
「妖精どもよ! 姫を返してほしければ、星見の塔まで来るがいい!」
声は大きい。
演出も派手。
だが、アリスは眉ひとつ動かさなかった。
「ねえ」
アリスは空を見上げて言った。
「顔だけ?」
「……なんだと?」
「顔だけ出して脅すとか、だいぶ小物感あるんだけど」
怪物王の表情がひきつった。
「こ、このオレ様を小物だと!?」
「だって小物っぽいし。あと笑い方が古い」
「古い!?」
「それに、そんなに強いなら直接来なさいよ。いつでも相手してあげるから」
アリスは立ち上がり、腕を組んだ。
食後とは思えない堂々たる仁王立ちだった。
「アタシは超一流の美少女魔法使い、鏡野アリスよ。姫は明日助けに行くから、首洗って待ってなさい」
「く、くび……!」
「あと、映像の画質悪いわよ」
「が、画質!?」
怪物王の顔が怒りで真っ赤になった。
「ふざけるな! 星見の塔で待っているぞ!」
叫びとともに、雲が渦を巻き、巨大な顔は消えた。
空が元に戻る。
花の音楽が、おそるおそる再開した。
妖精たちはぽかんとしていた。
パックもぽかんとしていた。
「お前……怪物王に画質って言った?」
「悪かったもの」
「そこ気にする場面じゃないだろ」
「演出は大事よ」
アリスは何事もなかったように座り直した。
そして残っていたクッキーを手に取る。
「じゃ、明日のためにもう少し食べておこうかな」
パックが青ざめた。
「まだ食うのかよ!?」
「戦いにはエネルギーが必要でしょ」
「お前の場合、戦う前に里の食料が危ない!」
「尽きないって言ったじゃない」
「そうだけど!」
アリスはクッキーをかじり、満足そうに笑った。
「いい夢ね、ここ」
パックは空を見上げ、深く深くため息をついた。
「姫様……助かる前に、こいつの相手で俺が倒れるかもしれない」
その横で、アリスは次のケーキに手を伸ばしていた。
第3話の夜は、妖精の里の歴史に残る大食い記録とともに更けていった。
第4話 星見の塔へ
翌朝。
妖精の里は、朝から妙にざわついていた。
小さな妖精たちが花の家から顔を出し、キノコの屋根の上に集まり、道の両側に並んでいる。
その中央を、アリスは堂々と歩いていた。
水色のワンピース。
白いエプロン。
腰には妖精の宝剣。
そして片手には、出発前にもらった紙袋。
中身はケーキだった。
「お前さ」
横を飛ぶパックが、半目で言った。
「姫様助けに行くんだよな?」
「そうよ」
「遠足じゃないよな?」
「戦いには糖分がいるの」
「昨日、里の菓子屋が一回閉店したんだけど」
「尽きないって言ってたじゃない」
「作る妖精の気力は尽きるんだよ」
アリスは紙袋から小さな焼き菓子を取り出し、ひと口で食べた。
「おいしい。持ち帰り用もレベル高いわね」
「聞けよ」
長老が二人の前に飛んできた。
白いひげを整え、杖を両手で持っている。
「アリス殿、パック。どうか姫を頼みますぞ」
「任せなさい」
アリスは胸を張った。
「怪物王だか何だか知らないけど、昨日のリモート顔面野郎でしょ? 軽く倒してくるわ」
「りもーと顔面……」
長老は意味がわからないまま、不安そうにうなずいた。
妖精たちが声をそろえる。
「アリス様、がんばって!」
「パック、姫様をお願い!」
「ケーキ、また作っておきます!」
「最後の子、わかってるじゃない」
アリスが満足そうにうなずくと、パックがため息をついた。
「姫様よりケーキ目的に聞こえるぞ」
「姫も助ける。ケーキも食べる。両方やるのが超一流なの」
「魔法は?」
「そのうち出る」
「出ないと思う」
「うるさい」
二人は妖精の里を出た。
草と蔦でできた狭いトンネルを抜けると、そこは昨日の森だった。
明るい。
鳥が鳴いている。
木漏れ日がきらきら落ちている。
しかしアリスは、昨日ほど能天気ではなかった。
いや、見た目は相変わらず偉そうだったが、少しだけ気になっていることがあった。
「ねえ、パック」
「なんだよ」
「星見の塔って遠いの?」
「森を抜けて、湖まで行く。湖の真ん中に塔がある」
「つまり歩くのね」
「歩くな」
「魔法で一瞬とかないの?」
「だから魔法使いはお前だろ」
「設定上はね」
「設定って言うな」
パックは先を飛んでいく。
アリスはその後ろを歩いた。
森の道は細く、根が飛び出し、枝が髪に引っかかる。昨日は夢だと思っていたから気にしなかったが、こうして朝から歩かされると普通に腹が立つ。
「この世界、インフラ弱すぎ」
「いんふら?」
「道とか交通とか、そういうの」
「森に道があるだけありがたいと思えよ」
「アタシを呼んだなら馬車くらい用意しなさいよ」
「誰も呼んでない」
「呼ばれた気がする」
「適当だな」
そのとき、茂みが揺れた。
がさり。
パックが止まった。
アリスも止まる。
「なに?」
「静かに」
パックの声が低くなった。
さっきまで文句ばかり言っていた顔とは違う。
森の奥で、また音がした。
がさり。
がさり。
何かが近づいてくる。
アリスは宝剣の柄に手をかけた。
「出てきなさいよ。こそこそするやつ嫌いなの」
「挑発すんなって!」
「早い方が楽でしょ」
次の瞬間、茂みを破って何かが飛び出した。
狼。
いや、狼に似ているが、普通の狼ではない。
二本足で立ち、肩は人間のように広い。全身は黒い毛に覆われ、口からよだれを垂らし、目は赤く濁っている。
爪はナイフのように長く、背中には破れた絵本のページみたいなものが貼りついていた。
「うわ、きも」
アリスの第一声はそれだった。
怪物は低く唸った。
「ぐるる……外から来た者……」
「しゃべった」
「帰れ……外へ帰れ……」
「帰れるなら帰ってるわよ」
アリスは眉をひそめた。
「ていうか、外って何? 夢の外?」
怪物の赤い目が、ぎょろりと動いた。
「夢ではない」
その言葉に、アリスは少しだけ黙った。
「……今なんて?」
「ここは夢ではない」
「いや、夢でしょ。だってアタシ、図書館にいたし。服変わってるし。ウサギしゃべったし。リスも歌ったし。パック飛んでるし」
「最後は俺のせいみたいに言うな」
怪物は唸りながら、一歩近づいてきた。
「ここは、物語の記憶でできた場所……幻実空間」
「げんじつ?」
「幻と現実のあいだ……読まれた物語、忘れられた願い、子どもたちの夢の残りが集まる場所」
アリスは目を細めた。
「なにそれ。急に説明が重い」
「我らは、その記憶を喰らう。夢も、希望も、物語も、すべて喰らう」
「うわ、悪役っぽい」
「ぽいじゃなくて悪役だろ」
パックが小声で言った。
アリスは怪物を見上げる。
「つまり、ここは夢じゃないってこと?」
「夢ではない」
「でも、現実でもない?」
「幻実空間」
「ややこしい」
アリスは頭をかいた。
正直、半分くらいしかわからない。
いや、三割くらいかもしれない。
でも、わかったことはある。
ここはただの夢ではない。
そして目の前の怪物は、どう見ても敵だ。
「じゃあ、あんたを倒したら話が早いわね」
アリスは宝剣を抜いた。
銀の刃が、森の光を受けてきらりと輝く。
パックが慌てた。
「おい、アリス! そいつ普通の獣じゃないぞ!」
「見ればわかるわよ」
「気をつけろって言ってんだよ!」
「気をつけるの苦手」
「知ってる!」
怪物が地面を蹴った。
速い。
黒い影が、一直線にアリスへ飛びかかる。
赤い目。
開いた口。
振り下ろされる爪。
パックが叫んだ。
「アリス!」
アリスは動かなかった。
正確には、ぎりぎりまで動かなかった。
爪が顔に届く寸前、彼女は半歩だけ横へずれた。
怪物の爪が空を切る。
アリスはその下へ潜り込むように踏み込んだ。
「近いのよ」
剣を振る。
銀の刃が、怪物の胸をまっすぐ貫いた。
一瞬、森が静かになった。
怪物の赤い目が見開かれる。
「な……ぜ……」
「剣があったから」
答えになっていない。
だが、アリスにとっては答えだった。
怪物の身体に、ひびが入った。
黒い毛が紙片のようにめくれ、背中に貼りついていたページがぱらぱらと崩れる。
怪物は砂のようにほどけ、風に流されて消えていった。
あとには、焦げたような黒いしみと、破れた紙片が一枚だけ残った。
アリスは剣を振って、鞘に収めた。
「見た目のわりに弱かったわね」
パックは口を開けたまま固まっていた。
「……お前さ」
「なに?」
「本当に魔法使いじゃなくて?」
「美少女魔法使いよ」
「いや、今の物理だっただろ」
「物理魔法」
「便利な言葉作るな」
アリスは紙片を拾った。
古い絵本の一部のようだった。
そこには、かすれた文字でこう書かれている。
『森に住む狼は、旅人に問いかけました』
続きは破れて読めない。
「これ、何?」
パックの顔つきが変わった。
「物語の欠片だ」
「欠片?」
「さっきの怪物は、たぶん元々、ただの物語の登場人物だったんだ。森の番人とか、旅人を試す狼とか、そういうやつ。それが怪物王に書き換えられて、あんなふうになった」
「書き換え?」
「ああ」
パックは紙片を見つめた。
「この世界は、絵本や昔話の記憶でできてる。読んだ人間が忘れても、物語の一部はここに残る。姫様も、長老様も、俺たちも、そういう記憶から生まれた」
「パックも?」
「俺も」
いつもの軽い口調が、少しだけ弱くなった。
「だから、誰にも読まれなくなったり、忘れられたりすると、俺たちは薄くなる。形が崩れる。そこを怪物王たちが喰うんだ」
アリスは黙った。
夢ではない。
現実でもない。
けれど、ここにいるパックは、ちゃんと怒る。
ちゃんと笑う。
ちゃんと心配する。
ケーキの食べすぎにもドン引きする。
それをただの夢だと言い切るには、少しだけ難しくなってきた。
「……じゃあ、姫も危ないってこと?」
「ああ。姫様は里の中心だ。姫様の物語が壊されたら、里そのものが消えるかもしれない」
「ふうん」
アリスは紙片をパックに渡した。
パックはそれを大事そうに受け取る。
「なあ、アリス」
「なに?」
「さっきの話、どこまでわかった?」
「三割」
「正直だな」
「でも、だいたいわかったわ」
「本当かよ」
アリスは湖の方を見た。
森の切れ間の先に、光が見える。
水面の反射だ。
「つまり、ここは夢じゃない。あいつらは物語を食べる悪いやつ。姫がやばい。倒せばいい」
「雑だけど、まあ合ってる」
「なら問題ないじゃない」
アリスは歩き出した。
「行くわよ。星見の塔」
パックは少しだけ目を丸くした。
それから、すぐに笑った。
「お前、怖くないのか?」
「怖がるタイミング逃した」
「なんだそれ」
「それに」
アリスは振り返った。
「報酬、まだもらってないし」
パックは吹き出した。
「そこかよ」
「そこよ」
森を抜けると、湖が広がっていた。
静かな湖だった。
水面は鏡のように空を映し、風が吹くたびに光が細かく砕ける。
その中央に、塔が立っていた。
白い塔。
細く、高く、雲に届きそうなほどまっすぐ空へ伸びている。
窓はない。
入口らしきものは、水面近くに小さく見えるだけ。
昼なのに、塔の上だけが夜をまとっているように暗かった。
「あれが星見の塔?」
「ああ」
パックの声が硬くなる。
「あそこに姫様がいる」
「ふうん」
アリスは塔を見上げた。
たしかに、ただの夢にしては立派すぎる。
ただの絵本にしては、不気味すぎる。
でも、だからといって引き返す理由にはならなかった。
「で、どうやって行くの?」
「湖を渡る」
「船は?」
「探す」
「用意してないの?」
「俺は飛べるから」
「アタシには羽がないんだけど」
「知ってる」
「なら先に用意しときなさいよ。案内役でしょ?」
「うるさいな。今探すって言ってるだろ」
パックはぶつぶつ言いながら湖畔を飛んでいった。
アリスは岸辺に立ち、星見の塔を見つめた。
さっき倒した怪物の言葉が、頭の中に残っている。
夢ではない。
物語の記憶でできた場所。
幻実空間。
「……ややこしい夢ね」
そうつぶやいてから、アリスは少しだけ訂正した。
「いや、夢じゃないんだっけ」
そのとき、遠くからパックの声がした。
「おーい! ボートあったぞ!」
アリスは顔を上げた。
湖の向こうに、星見の塔が白く立っている。
そこに姫がいる。
怪物王が待っている。
そして、たぶん、夢では済まない何かがある。
アリスは腰の剣に手を置いた。
「まあ、いいわ」
怖がるには、もう遅い。
引き返すには、ケーキを食べすぎた。
ここまで来たなら、最後まで行くしかない。
「行ってやろうじゃない」
アリスは湖へ向かって歩き出した。
第5話 小さすぎる怪物王
ボートは、思ったより小さかった。
木製。
二人乗り。
年季が入っている。
そして、モーターはない。
「ねえ」
アリスは湖畔に置かれたボートを見下ろした。
「これ?」
「これ」
パックは当然のように答えた。
「他にないの?」
「ない」
「足漕ぎボートは?」
「ない」
「白鳥の形したやつは?」
「ない」
「せめて自動で進むとか」
「ない」
アリスは深く息を吸った。
「この世界、夢じゃないにしてもサービス悪すぎ」
「湖を渡れるだけありがたいと思えよ」
「誰が漕ぐの?」
「お前」
「なんで?」
「俺の身体とオール見比べろよ。どっちが大きい?」
アリスはパックを見た。
次にオールを見た。
確かにオールの方が大きかった。
「役に立たない案内役ね」
「妖精にボート漕がせようとする人間に言われたくない」
「魔法で風を起こしなさいよ」
「お前が魔法使い設定だろ」
「設定って言わないで」
文句を言いながらも、アリスはボートに乗った。
パックは船首にちょこんと座る。
アリスはオールを握り、湖へ漕ぎ出した。
水面は静かだった。
空の青を映し、雲を映し、中央に立つ白い塔を映している。
星見の塔。
昼の湖に立っているのに、その上だけ夜をかぶっているように暗い。
アリスはオールを動かしながら、塔を見上げた。
「本当に、あそこに姫がいるの?」
「ああ」
パックの声は、いつもより少し硬い。
「姫様は、里の中心みたいな人なんだ。姫様が笑うと花が咲く。姫様が歌うと川が澄む。そういう物語だからな」
「便利ね」
「便利とか言うな」
「でも、大事な人なんでしょ」
「……まあな」
パックはそっぽを向いた。
「俺は、姫様の護衛だった」
アリスはオールを動かす手を止めなかった。
「へえ」
「けど、さらわれたとき、何もできなかった。怖くて、動けなかった」
「ふうん」
「笑わないのかよ」
「まだ面白くないし」
「そこ?」
「それに」
アリスは塔を見たまま言った。
「今日、動けばいいんじゃないの」
パックがアリスを見る。
「一回ダメだったからって、一生ダメってわけじゃないでしょ」
「……お前、たまにまともなこと言うよな」
「いつもまともよ」
「それはない」
「落とすの早いわね」
ボートは塔の根元へ着いた。
水面に接する部分に、黒い門が開いている。
まるで塔が口を開けて、二人を飲み込もうとしているようだった。
「不気味ね」
「今さらかよ」
「見た目の感想は大事なの」
ボートは門をくぐった。
中は、外から見るより広かった。
天井も壁も見えないほど暗い。
けれど完全な闇ではなかった。
無数の小さな灯りが浮かんでいる。
蝋燭の火のようで、星のようでもある。
水面にその光が映り、塔の中は小さな宇宙みたいになっていた。
「……すご」
アリスが小さくつぶやく。
パックも目を丸くした。
「俺も中に入るのは初めてだ」
「案内役なのに?」
「外から見たことはある」
「地図アプリ以下ね」
「地図アプリって何だよ」
塔の内側には、壁に沿って螺旋階段が続いていた。
上へ。
上へ。
どこまでも上へ。
アリスは階段を見上げた。
「エレベーターは?」
「ない」
「知ってた」
二人は階段を上り始めた。
足音が響く。
パックの羽音が響く。
星のような灯りが、二人の周りをゆっくり流れていく。
途中、何度もアリスは文句を言った。
「まだ?」
「まだ」
「もう半分?」
「まだ三分の一」
「この塔、設計したやつ出てきなさいよ」
「怪物王じゃないか?」
「倒す理由が増えた」
ようやく頂上にたどり着いたとき、アリスは少し息を切らしていた。
「階段、嫌い」
「お前、怪物より階段に弱いな」
「階段は殴っても短くならないから」
「なるほど」
塔の頂上は、丸い広場のようになっていた。
空は夜だった。
さっきまで昼だったのに、ここだけは真夜中。
黒い空に星が散り、月が大きく浮かんでいる。
風が冷たい。
そして広場の奥に、誰かが立っていた。
「ガーッハッハッハ!」
大きな笑い声が響いた。
アリスとパックはそちらを見る。
そこにいたのは、怪物王だった。
角がある。
牙もある。
褐色の肌。
真っ赤な目。
いかにも悪そうな顔。
ただし。
「……小さ」
アリスが言った。
怪物王は、一メートルくらいしかなかった。
しかも二頭身だった。
頭が大きい。
身体が小さい。
昨日、空いっぱいに巨大な顔を映して威張っていた存在とは、あまりにもスケールが違った。
パックが口を押さえた。
「おい、笑うなよ」
「そっちこそ」
「俺は笑ってない」
「声震えてるわよ」
怪物王は胸を張った。
「ふん! このオレ様の迫力に声も出ないようだな!」
パックが吹き出した。
「ぶっ」
「笑った!」
「だって無理だろ! あんなに空にでかい顔出してたのに、実物これって!」
アリスも耐えきれなかった。
「きゃはははっ! ちょっと待って、顔だけ拡大してたの? 自撮り加工にもほどがあるでしょ!」
「じ、自撮り加工ではない!」
「詐欺写真じゃない」
「詐欺ではない! 演出だ!」
「演出で身長盛るのはアウトよ」
「盛ってない! 威厳を表現しただけだ!」
怪物王の顔が真っ赤になる。
角の先まで赤い。
「笑うな! オレ様は恐ろしい怪物王だぞ!」
「恐ろしいって自分で言うところがもう弱い」
「弱くない!」
「じゃあ、なんで姫を人質にしてるのよ」
アリスの言葉に、怪物王の表情が変わった。
「ふん。よくぞ聞いた」
怪物王は後ろへ飛び退いた。
その背後に、鳥かごがあった。
銀色の細い柵でできた鳥かご。
中には、小さな妖精の少女が閉じ込められている。
淡い金色の髪。
透き通った羽。
花びらのようなドレス。
彼女は顔を上げると、パックを見た。
「パック……?」
パックの顔が強張った。
「姫様!」
「来てくれたのですね」
「ごめん、俺……あのとき……」
「謝るのは後です」
姫は静かに微笑んだ。
「今は、前を見て」
パックは息をのんだ。
怪物王が鳥かごをつかむ。
「ガハハハ! 少しでも妙な真似をすれば、この姫がどうなるかわからんぞ!」
「卑怯ね」
アリスが言った。
「卑怯、卑怯、卑怯、卑怯、卑怯」
「何回も言うな!」
「だって卑怯だし」
「これは作戦だ!」
「弱いやつほど作戦って言葉でごまかすのよ」
「ぐぬぬぬぬ……!」
怪物王は怒りで震えている。
だが、鳥かごを抱えたままなので、簡単には近づけない。
アリスは横目でパックを見た。
パックも、こちらを見ていた。
一瞬だけ、目が合う。
アリスはわずかに顎を動かした。
行け、という合図。
パックの顔が強張る。
怖いのだ。
また動けなくなるかもしれない。
また失敗するかもしれない。
でも。
アリスは小さく言った。
「今日、動けばいいんでしょ」
パックの目が変わった。
「……ああ」
次の瞬間、アリスは前に出た。
「ねえ、怪物王」
「なんだ!」
「あんた、昨日の映像だともうちょっと顔の角度よかったわよ」
「なに?」
「今日は下から見てるから、余計に頭でっかちに見える」
「キサマぁぁぁ!」
怪物王の意識が、完全にアリスへ向いた。
その隙に、パックが飛んだ。
小さな身体が夜風に乗る。
鳥かごの裏側へ回り込む。
怪物王は気づかない。
パックは腰から小さな針のような短剣を抜いた。
「姫様、動かないで」
「はい」
パックは鍵穴に短剣を差し込む。
かちり。
鳥かごの扉が開いた。
「なっ!?」
怪物王が振り返る。
遅い。
パックは姫を抱え、鳥かごから飛び出した。
「パック!」
姫が叫ぶ。
「つかまってろ!」
パックは必死に羽ばたいた。
小さな身体で、姫を抱えながら飛ぶ。
高さが落ちる。
風にあおられる。
それでも、離さない。
アリスはその二人の前に立つように移動した。
「よくやったじゃない」
「あとで褒めろ!」
「今ちょっと褒めたわよ」
「雑!」
怪物王は怒りで震えていた。
「よくも……よくもオレ様の人質を!」
「人質を自分のものみたいに言うな」
アリスは剣を抜いた。
銀の刃が、夜空の星を映す。
怪物王の身体から、黒いもやが噴き出した。
「もう許さん! このオレ様の本当の力を見せてやる!」
「本当の力?」
怪物王の身体が膨らむ。
頭がさらに大きくなる。
腕が少し伸びる。
牙が伸びる。
角が伸びる。
そして、身長が十センチくらい伸びた。
「…………」
アリスは黙った。
パックも黙った。
姫も黙った。
怪物王は自信満々に胸を張った。
「どうだ!」
「誤差ね」
「誤差!?」
「いや、ちょっと伸びたのは認める」
パックが言った。
「でも怖さは増えてない」
「むしろバランス悪くなったわ」
「キサマらぁぁぁ!」
怪物王が突進してきた。
小さいが速い。
地面を蹴り、弾丸みたいにアリスへ飛びかかる。
鋭い爪が光る。
アリスは半歩下がった。
怪物王の爪が空を裂く。
アリスは剣の柄で、その大きな頭を軽く叩いた。
ごん。
「いだっ!」
怪物王が地面に落ちた。
転がった。
跳ねた。
また立った。
「今、柄で叩いたな!」
「刃を使うまでもなかったから」
「侮辱!」
「事実」
怪物王は黒いもやをまとって、もう一度飛びかかった。
今度は横から。
アリスは避ける。
蹴る。
怪物王が転がる。
「ぐえっ!」
「軽い」
「軽いって言うな!」
怪物王は何度も飛びかかった。
アリスは避けた。
叩いた。
払った。
時々、足で止めた。
戦いというより、暴れるぬいぐるみを押さえているようだった。
パックが姫を抱えたまま、呆然と見ている。
「姫様」
「はい」
「あれ、俺たちが何年も怖がってた怪物王です」
「……そうですね」
「なんか、すみません」
「いいえ。怖いものは、遠くから見ると大きく見えるのです」
「姫様、いいこと言ってるけど、あいつ今アリスに踏まれてます」
「見なかったことにしましょう」
アリスは怪物王のマントをつかみ、軽く持ち上げた。
「そろそろ終わりでいい?」
「は、離せ! オレ様は怪物王だぞ!」
「はいはい」
怪物王の身体から、黒いもやがさらに噴き出した。
そのもやの中に、破れたページが何枚も混じっている。
アリスは目を細めた。
「これ、森の怪物と同じね」
パックが叫んだ。
「気をつけろ、アリス! そいつも物語を喰ってる!」
「わかってる」
怪物王が最後の力を振り絞り、口を開けた。
「オレ様を倒しても無駄だ! 物語はもう、黒く塗りつぶされる!」
「そういうの、負ける前に言うセリフでしょ」
アリスは怪物王を放り投げた。
怪物王の身体が空中に浮く。
アリスは剣を構えた。
「物理魔法」
銀の刃が走った。
一閃。
怪物王の身体が、真っ二つに裂けた。
悲鳴はなかった。
かわりに、黒いもやが吹き出し、夜空へ散っていく。
小さな身体は砂のように崩れ、破れたページだけが何枚も舞った。
最後に、怪物王の声がかすかに響いた。
「つづきは……もう……決まっている……」
そして消えた。
塔の上に、静けさが戻った。
夜風が吹く。
星が瞬く。
パックは姫をそっと地面に下ろした。
「姫様……」
「ありがとう、パック」
姫は微笑んだ。
「今度は、来てくれましたね」
パックは顔をくしゃっと歪めた。
「遅くなって、ごめん」
「いいえ」
姫はパックの額に、そっと手を当てた。
「物語は、遅れても続けられます」
アリスは剣を鞘に収めた。
「いい話っぽいところ悪いんだけど」
パックが振り返る。
「何だよ」
「帰りも階段?」
「そこかよ!」
「そこ大事でしょ」
姫がくすりと笑った。
その笑いに合わせるように、塔の夜空に小さな光が増えた。
星がひとつ、またひとつと輝きを取り戻していく。
終わった。
そう思った。
その瞬間だった。
星が消えた。
一つずつではない。
全部、同時に。
「え?」
アリスが空を見上げる。
月も消えた。
塔も消えた。
湖の光も、森の気配も、風の音も。
何もかもが、黒く塗りつぶされていく。
まるで、誰かが巨大な筆で世界そのものを雑に消しているみたいだった。
「パック!」
姫の声が震える。
パックが姫を抱き寄せる。
「なんだよ、これ……!」
アリスは剣を抜こうとした。
だが、手元が見えない。
足元も見えない。
自分が立っているのか、落ちているのかもわからない。
暗闇の中で、声がした。
怪物王の声ではなかった。
低く、冷たく、どこか人間に似た声。
「役目を終えた物語に、続きはいらない」
アリスは歯を食いしばった。
「誰よ」
声は答えなかった。
かわりに、黒いページが一枚、目の前に開いた。
そこには、白い文字が浮かんでいた。
『この物語は、ここで終わる』
アリスは、その文字を睨んだ。
「勝手に終わらせてんじゃないわよ」
その言葉を最後に、世界は完全に暗転した。
第6話 時計を動かすウサギ
黒だった。
上も下もない。
右も左もない。
星見の塔も、湖も、妖精の姫も、パックの声も、全部まとめて黒く塗りつぶされていた。
「ちょっと!」
アリスは叫んだ。
「暗くするなら暗くするで、足場くらい残しなさいよ!」
返事はない。
ただ、どこか遠くで紙をめくる音がした。
ぱらり。
ぱらり。
誰かが、ものすごくつまらなそうに本を読んでいるような音だった。
「アリス!」
パックの声がした。
近いようで遠い。
「パック? どこ?」
「わかんねえ! 姫様はいる! でも何も見えない!」
「なら声出してなさい! 迷子になったら面倒だから!」
「言い方!」
そのとき、暗闇の中で、ちくたく、ちくたく、という音が聞こえた。
時計の音。
アリスは振り返った。
黒の中に、小さな白い点が見える。
それは近づいてきた。
白い耳。
シルクハット。
ジャケット。
首から下げた懐中時計。
「やあ」
ウサギだった。
前に森で会った、哲学じみたウサギ。
アリスは眉をつり上げた。
「あんた、こういう時だけ出てくるのね」
「こういう時だから出てきたのさ」
「説明になってない」
「説明とは、遅れてやってくる納得のようなものだ」
「また始まった」
ウサギは懐中時計を開いた。
針は止まっていた。
「時計が止まった」
「見ればわかるわよ」
「時計が止まると、物語も止まる」
「じゃあ動かしなさいよ」
「そのつもりだ」
ウサギは暗闇の奥へ歩き出した。
「時計を動かしに行く」
アリスは一秒迷った。
そしてすぐ走り出した。
「待ちなさい!」
「待つと遅れる」
「待たないと追いつけないでしょ!」
「なら走るといい」
「腹立つ!」
アリスはウサギを追いかけた。
暗闇の中なのに、ウサギの足元だけに細い道が浮かぶ。白いページを並べたような道だった。
一歩踏むたび、文字が足元に浮かぶ。
『むかしむかし』
『あるところに』
『小さな姫が』
『森の奥で』
古い物語の書き出しみたいな文字。
アリスはそれを踏みながら走った。
「これ、何なのよ!」
「物語の残り」
「残り?」
「読まれたけれど、忘れられたもの。大切にされたけれど、しまいこまれたもの。破れ、失くされ、誰にも開かれなくなったもの」
ウサギは走っているのに、息ひとつ乱さない。
「この世界は夢ではない。誰かが見た夢の残りでもない。誰かがかつて本気で信じた物語の残骸だ」
「残骸って言い方、感じ悪いわね」
「では、記憶と言おう」
道の左右に、ぼんやりと景色が浮かんだ。
妖精の里。
歌うリス。
倒された怪物。
巨大な顔で威張る怪物王。
すべてが、薄い紙に描かれた絵のように揺れていた。
「この世界を誰かが読んだ。何度も読んだ。寝る前に読んだ。泣いたあとに読んだ。ひとりぼっちの夜に読んだ。けれど、その誰かは大人になり、本を閉じ、名前も忘れた」
「……それで、ここに残ったの?」
「そう」
ウサギは止まらない。
「でも、忘れられた物語は弱い。空白が増える。そこへ、黒い書き手が来た」
「黒い書き手?」
「自分では何も生まない。けれど、残った物語を削り、短くし、都合よく変え、最後には終わらせる存在」
暗闇の奥に、明かりが見えた。
図書館の端末画面のような、冷たい白い光。
そこに、誰かが座っていた。
長い机。
黒い椅子。
開かれた巨大な絵本。
その前に、黒いコートを着た人物がいる。
顔は見えない。
手にはペン。
そのペンで、絵本のページに黒い線を引いていた。
『姫は救われた。よって物語は終了する』
『不要な会話を削除』
『無駄な寄り道を削除』
『役割を終えた登場人物を削除』
ページに書かれるたび、遠くで何かが消えていく音がした。
花の音楽。
小川の音。
妖精たちの声。
アリスの顔から笑みが消えた。
「それ、やめなさいよ」
黒い人物が、ゆっくり顔を上げた。
顔はなかった。
真っ黒な空白だった。
ただ、声だけがあった。
「物語は役目を終えた。閉じるべきだ」
「誰が決めたのよ」
「読者はいない。語り手はいない。持ち主もいない。ならば、残す意味はない」
「意味がないから消すって?」
「効率的だ」
「嫌いな言葉」
アリスは剣を抜いた。
黒い書き手は、アリスを見ても動じない。
「外から来た少女。君は帰りたいはずだ」
「まあね」
「ならば、この本を閉じればいい。物語を終わらせれば、君は元の場所へ戻る」
アリスは黙った。
黒い書き手は淡々と続けた。
「ただし、世界は閉じる。妖精も、姫も、パックも、森も、塔も、すべて読まれなかったものとして消える」
「……閉じなかったら?」
「現実へ染み出す。図書館から、学校へ、街へ。役割を失った物語たちが迷い出る。人間の記憶と混ざり、境界が壊れる」
「どっちも迷惑ね」
「選択肢は二つだ。閉じるか。壊れるか」
ウサギが小さく言った。
「それが、止まった時計の答えだ」
アリスは黒い書き手を見た。
巨大な絵本のページがめくられる。
そこには、妖精の里が描かれていた。
花が黒く塗られている。
キノコの家が消されている。
妖精たちは、ただの点になっていた。
「……あんたさ」
アリスは低い声で言った。
「物語、読んだことある?」
「記録は読んだ」
「違う」
アリスは一歩進んだ。
「好きで読んだことあるかって聞いてるの」
黒い書き手は答えなかった。
アリスは剣を構えた。
「ないなら、勝手に終わらせないで」
黒い書き手がペンを振った。
黒い文字が鎖のように伸び、アリスへ向かってくる。
『削除』
『不要』
『終了』
アリスは走った。
鎖を斬る。
また斬る。
黒い文字が弾け、紙片になって散る。
「パック!」
アリスは叫んだ。
「聞こえてるなら、姫連れてこっち来なさい!」
闇の奥から声が返った。
「どっちだよ!」
「アタシの声がする方!」
「雑!」
羽音がした。
パックが姫を抱えて飛んでくる。
姫の身体は半透明になりかけていた。
パックの羽も、少し欠けている。
「アリス……!」
「遅い!」
「迷ってたんだよ!」
「なら早く迷い終わりなさい!」
「無茶言うな!」
黒い書き手がページにペンを置いた。
『妖精の姫を削除』
姫の身体が、さらに薄くなった。
パックが叫ぶ。
「やめろ!」
アリスは踏み込んだ。
黒い鎖を蹴り飛ばし、机の上へ飛び乗る。
「勝手に消すなって言ってるでしょ!」
剣を振り下ろす。
黒い書き手はペンで受けた。
刃とペンがぶつかり、火花ではなく文字が散った。
『むかしむかし』
『あるところに』
『忘れられても』
『まだここにいる』
ウサギが時計を開いた。
「針を戻すには、読む者が必要だ」
「読む者?」
「物語は、読まれて動く」
アリスは黒い書き手を押し返しながら叫んだ。
「じゃあ読めばいいんでしょ!」
「誰が?」
「アタシが!」
アリスは机の上に開かれた絵本を見た。
黒く塗られたページ。
消えかけた花。
薄くなった妖精たち。
そこに、かすれた文字が残っている。
アリスは息を吸った。
「むかしむかし、ある森の奥に、妖精たちの里がありました」
世界が震えた。
黒い書き手が止まる。
「その里には、歌う花と、光る川と、やたらケーキがおいしい菓子屋がありました」
「おい、そこ入れるのかよ!」
パックが叫ぶ。
「大事でしょ!」
アリスは続けた。
「里の姫はさらわれたけど、毒舌でビビリな妖精が、今度はちゃんと助けに来ました」
「ビビリは余計だ!」
「そして、超一流の美少女魔法使いが、怪物王を物理で倒しました」
「魔法どこ行った!」
「物理魔法よ!」
絵本の黒が剥がれていく。
花が色を取り戻す。
小川の音が戻る。
姫の身体が光を取り戻す。
ウサギの時計が、ちく、と鳴った。
黒い書き手が初めて揺らいだ。
「未登録の物語は、保存されない。保存されないものは、消える」
「だったら登録すればいい」
「何?」
アリスはにやりと笑った。
「思いついた」
パックが嫌な予感を覚えた顔をした。
「お前のその顔、ろくなこと考えてないだろ」
「ろくでもないけど、正しいわよ」
ウサギの時計が、もう一度鳴った。
ちく。
ちく。
止まっていた針が、少しずつ動き出した。
最終話 アリスがゆく!
黒い書き手は、初めて焦ったようにペンを走らせた。
『閉じろ』
『終われ』
『戻れ』
『忘れろ』
ページいっぱいに黒い文字が増えていく。
けれどアリスは退かなかった。
「戻る方法はわかった」
アリスは言った。
「本を閉じれば、アタシは元の図書館に戻れる」
パックが息をのむ。
「でも、それだとこの世界は消えるんだろ?」
「そうらしいわね」
姫が静かに言った。
「この世界が現実へあふれれば、人間の世界を傷つけてしまう」
「それも困るわね」
アリスは腕を組んだ。
黒い書き手が告げる。
「だから選べ。閉じるか。壊れるか」
「嫌」
「選択肢は二つだ」
「嫌って言ってるでしょ」
アリスは、絵本のページをばしんと叩いた。
「アタシ、そういう二択が一番嫌いなの。どっちを選んでも損するやつ。そういうのはね、テストでも人生でも、問題を作った側がだいたい性格悪いのよ」
「第三の選択肢は存在しない」
「あるわよ」
アリスは黒い書き手を指差した。
「この本を、閉じるんじゃなくて、登録する」
パックが目をぱちぱちさせた。
「登録?」
「図書館のアーカイブに入れるの。未登録資料じゃなくすればいいんでしょ」
ウサギが時計を見た。
「本は、読まれる場所を得れば続く」
「でしょ?」
アリスは得意げに笑った。
「古い本だろうが、忘れられた絵本だろうが、検索したら出てくるようにすればいいのよ。現代をなめないで。図書館には管理システムがある。AIもある。バーコードなくても仮登録できる端末もある」
パックが呆れた顔をした。
「お前、図書委員の仕事サボってたくせに」
「今日覚えたのよ」
「浅い!」
「使えればいいの」
黒い書き手の空白の顔が、ぐにゃりと歪んだ。
「未登録の本は、閉じられるべきだ」
「だから登録するって言ってるの」
「権限がない」
「あるわよ」
アリスはポケットを探った。
そこには、なぜかカードキーがあった。
ベルバラ先生から渡された、地下旧書庫のカードキー。
夢でもない。
現実でもない。
でも、ここにある。
「図書委員、鏡野アリス」
アリスはカードキーを掲げた。
「本日限定かもしれないけど、旧書庫担当よ」
カードキーが光った。
暗闇の中に、図書館の検索端末の画面が浮かび上がる。
白い入力欄。
点滅するカーソル。
『未登録資料を確認しました』
管理AIの声が響いた。
黒い書き手がペンを振る。
『登録不可』
『分類不能』
『著者不明』
『保存価値不明』
アリスは鼻で笑った。
「価値がわかんないから保存するんでしょ」
彼女は端末に手を伸ばした。
キーボードがない。
でも、文字は打てた。
アリスが思い浮かべると、画面に文字が現れる。
『タイトル』
アリスは少し考えた。
パックが言う。
「姫様の物語、とか?」
姫が微笑む。
「妖精の里の物語、でもよいのでは」
ウサギが時計を見ながら言う。
「時計の止まった絵本、というのも悪くない」
アリスは首を振った。
「違うわね」
彼女は入力した。
『アリスがゆく!』
パックが叫んだ。
「自分の名前入れた!」
「アタシが来た話なんだから当然でしょ」
「強引すぎる!」
「覚えやすい方がいいのよ」
次の欄が光る。
『分類』
「分類って何?」
「そこからかよ!」
アリスは少し考えた。
「児童文学。ファンタジー。異世界。あと、コメディ」
画面に文字が並ぶ。
『内容紹介』
アリスは一瞬止まった。
それから、ゆっくり入力した。
『忘れられかけた絵本世界に迷い込んだ少女が、妖精の姫を助け、止まった物語をもう一度動かす話。』
パックが小さく言った。
「……まともだ」
「失礼ね」
姫が微笑む。
「とても素敵です」
「でしょ」
黒い書き手が叫んだ。
「保存するな! 古い物語は、不要だ!」
「古いから不要って誰が決めたのよ」
アリスは剣を抜いた。
端末の画面に、最後の確認が表示される。
『この資料を仮登録しますか?』
選択肢は二つ。
『はい』
『いいえ』
アリスは笑った。
「こういう二択なら好き」
黒い書き手が突進してきた。
ペンが槍のように伸びる。
アリスは剣で受けた。
「パック!」
「何だよ!」
「押して!」
「俺が!?」
「小さいからちょうどいいでしょ!」
「小さい言うな!」
パックは姫をウサギに預け、端末へ飛んだ。
黒い書き手の文字鎖が、パックへ伸びる。
姫が手をかざした。
花びらの光が鎖を止める。
「行って、パック!」
「はい!」
パックは羽を必死に動かした。
端末の前へ飛ぶ。
画面には『はい』のボタン。
パックは両足で、思いきり蹴った。
「登録しろぉぉぉ!」
ぴっ。
軽い電子音がした。
『仮登録が完了しました』
その瞬間、世界が光った。
黒いページが白へ戻る。
消えかけていた花が咲く。
小川が流れ出す。
妖精たちの声が戻る。
星見の塔が夜空を取り戻す。
ウサギの懐中時計が、ちくたく、ちくたくと動き始める。
黒い書き手は、光の中で崩れ始めた。
「未登録では……ない……?」
「そうよ」
アリスは剣を肩に担いだ。
「これからは検索できる物語よ」
「読者が……いなければ……」
「いるわよ」
アリスは言った。
「少なくとも、アタシは読んだ」
黒い書き手が完全に崩れた。
黒いインクが空中に散り、最後には一枚の白紙だけが残った。
そこに、小さな文字が浮かぶ。
『つづく』
パックがそれを見て、笑った。
「続くんだな」
「勝手に終わるよりマシでしょ」
姫がアリスの前へ飛んできた。
「アリス様。本当に、ありがとうございました」
「報酬は?」
「台無しだよ!」
パックが叫んだ。
姫はくすくす笑った。
「もちろん、ご用意します。ですが、今のアリス様に必要なのは、こちらでしょう」
姫は小さな光の鍵を差し出した。
「元の世界へ戻る鍵です」
アリスはそれを受け取った。
「これで帰れるの?」
「はい。ですが、帰れば、この世界で過ごした時間は曖昧になります。夢だったのか、現実だったのか、きっとわからなくなるでしょう」
「今もだいたいわかってないから平気」
「アリスらしいな」
パックが笑った。
アリスはパックを見た。
「姫、助けられてよかったじゃない」
「……まあな」
「次は最初から逃げないことね」
「うるせえ」
「でも、逃げても戻ればいいんでしょ?」
パックは少し黙った。
そして、小さくうなずいた。
「ああ。戻ればいい」
ウサギが時計を閉じた。
「時間だ」
「急かすわね」
「時間とは、いつもそういうものだ」
「最後まで面倒くさい」
アリスは光の鍵を握った。
足元に、絵本のページが開く。
白い光があふれる。
妖精の里。
星見の塔。
パック。
姫。
ウサギ。
全部が少しずつ遠ざかる。
「アリス!」
パックが叫んだ。
「また来るのか?」
アリスは少し考えた。
そして笑った。
「検索できたらね!」
光が弾けた。
アリスは落ちた。
落ちた。
落ちた。
そして――。
「……あと五分」
自分の声で目が覚めた。
頬に当たっているのは草ではなかった。
冷たい床だった。
地下旧書庫。
旧書庫B。
アリスは、倒れた本棚の前に転がっていた。
「……痛っ」
身体を起こす。
服は制服に戻っている。
水色のワンピースではない。
腰の剣もない。
手の中の光の鍵もない。
本棚は崩れていなかった。
いや、少し本は散らばっているが、大事故というほどではない。
まるで、何も起きていなかったみたいだった。
「夢……?」
アリスはつぶやいた。
でも、すぐに否定できなかった。
髪に、小さな花びらが一枚ついていた。
アリスはそれを指でつまんだ。
淡い金色の花びら。
妖精の里で見たものと同じ色。
「……ふうん」
そのとき、端末が鳴った。
『未登録資料の仮登録が完了しました』
「え」
アリスは端末を見た。
画面には、一冊の本の情報が表示されている。
『タイトル:アリスがゆく!』
『分類:児童文学/ファンタジー/コメディ』
『状態:仮登録』
『所在:地下旧書庫B』
表紙画像も表示されていた。
深い緑色の古い絵本。
中央に、金色の線で描かれた小さな扉。
アリスはしばらく画面を見つめた。
それから、少しだけ笑った。
「ま、悪くないじゃん」
そのとき、遠くから足音が聞こえた。
「アリスー!」
ベルバラ先生の声だった。
「無事かしら、私の可愛い図書委員!」
「うわ、帰ってきた」
アリスは即座に端末を閉じた。
ベルバラ先生が旧書庫へ駆け込んでくる。
なぜか薔薇をくわえていた。
「アリス! 逃亡図書委員を三人捕獲したわ! あなたの任務はどう?」
「終わりました」
「え?」
「未登録本、一冊見つけて仮登録しました。あと残りは他の委員にやらせてください」
ベルバラ先生は目を輝かせた。
「すばらしいわ! 青春ね!」
「便利に青春って言わないでください」
「ところで、何か変わったことは?」
アリスは一瞬だけ考えた。
妖精。
パック。
姫。
ウサギ。
黒い書き手。
星見の塔。
そして、ケーキ。
「別に」
アリスは髪の花びらをポケットにしまった。
「ちょっと本を登録しただけです」
ベルバラ先生は満足そうにうなずいた。
「それでこそ図書委員ね」
「今日で辞めたいです」
「ダメよ」
「なんで」
「あなた、才能あるもの」
「いらない才能ですね」
アリスは旧書庫を出た。
階段を上がる。
図書館の窓から、夕方の光が差し込んでいる。
スマホを見ると、葵から大量のメッセージが来ていた。
『ミルフィーユおいしかったよ』
『でも食べすぎた』
『ちょっと動けない』
『アリスちゃん、終わった?』
アリスは短く返信した。
『終わった。おごりで追加注文ね』
すぐに返事が来た。
『えっ』
アリスは笑ってスマホをしまった。
何事もなかったように、図書館の自動ドアを抜ける。
冬の空気が冷たい。
けれど、どこか甘い花の匂いがした気がした。
アリスは一度だけ振り返った。
巨大な図書館の窓に、自分の姿が映っている。
金髪ツインテール。
制服。
いつもの鏡野アリス。
でも、その背後に一瞬だけ、小さな羽の影が見えた気がした。
「……気のせいね」
アリスは前を向いた。
そして、いつもの調子で歩き出す。
図書委員アリス。
超一流の美少女魔法使い。
物理魔法の使い手。
未登録の物語を、図書館に保存した少女。
本人はもちろん、そんな肩書きを名乗る気はない。
ただ、駅前のスイーツ店へ向かいながら、ひとことだけつぶやいた。
「次は、最初からケーキ付きの世界にしなさいよね」
ポケットの中で、金色の花びらが小さく光った。




