5 アーロネッサ
夢を見ていた。薄い、ピンク色の花のした。甘い香りが辺りにただよう。
暖かくて気持ちいい。
『もうすぐ、弟が生まれるの』
あたしの声が、そう嬉しそうに告げている。
『楽しみ?』
知らない声がそう聞いた。
あたしが、笑って頷く。
『愛してあげて』
誰かが、そう言った。
『あの子を、愛してあげてね』
だれ?
「なお?」
あたしはまだ半分眠ったままで、呼び掛けた。返事は、無い。
とたんに、意識がはっきりした。さっきまでの記憶が蘇る。
「尚?どこ?大丈夫?」
慌てて辺りを見回す。頭がぐらぐらする。一体何が起きたんだろう?空襲?学校で見た、戦争の映画が頭をよぎって、あたしは、苦笑した。そんな馬鹿な。でも、もしかして。
思わず不安になって、周りを確認する。大丈夫。どこも焼けてない。
ほっとして、周りの木々を見回すと、何故か恐くなった。何かが間違ってる?訳の解らない不安感が込み上げてくる。
「なお、どこ?」
やっぱり、返事はない。しんと静まり返った森に、あたしは恐くなった。
くすくす。
突然、笑い声がして、あたしは体を強張らせた。慌てて辺りを見回す。
尚だ。
あたしが立っている場所の、少し下の方に、道があった。そこに、尚が立っている。世界を確かめる様に、両手を広げて、笑っている。
「帰ってきたのね。やっとここに」
嬉しくてたまらないというように、笑いは全身に広がっていく。
尚。そう呼び掛けたいのに、声が出ない。本当に、あれが尚?チョコレートの好きな、すぐ泣くあたしの妹?
「やっと、あいつに復讐できる」
そう言って笑っているのは、だれ?尚は、頭がおかしくなってしまったのだろうか。
「なお?」
尚が、こっちを向いた。
「何だ、やっぱり付いて来ちゃったのね。あんたがゲートに入り込んできた時はどうしようかと思った」
子供っぽい、ほわほわの眉がひそめられる。馬鹿にしたような微笑。
「ま、いいわ。こうやって、帰って来れたんだもの」
「なお?」
あたしには、尚の名前を呼ぶしかなかった。呼べば、尚が『お姉ちゃん』て答えてくれると信じたかった。
尚が、うるさそうに頭を振る。
「その名前で呼ばないでくれる。いちいちあんたはそれしか言えないの?」
言葉遣いが、変だよ。尚。いつもなら、叩いて怒ってる。
なのに、なぜ、そうすることが出来ないんだろう。大人ぶった言葉を使って。と笑い飛ばすことが出来ないんだろう。
「あたしの名前はアーロネッサ。言ってもあんたには解らないでしょうけど」
何も、言えなかった。呼び掛ける言葉を、あたしはもう持ってなかった。
「あたしはもう行くわ。じゃあね」
そう言って、くるりと背を向ける。
「なお!」
呼んでも、絶対振り返らないって判ってた。でも、他にどうすればいいのか解らなかった。何も考えられない。これは夢だと信じたくて、あたしはぎゅっと目を閉じた。
その瞬間。空気が震えた。
ずしんと重い衝撃を感じて、耳が聞こえなくなる。唇に、頬にぶつかる砂粒の感触。
もう何がなんだか解らない。ただ夢中で体を丸める。腕に、何か熱いものがぶつかる痛みが、あたしが感じた最後の感覚だった。