27 呼び声
−ありさ、在幸。
どこかで声がする。懐かしい、でも知らない声。
探してるのに。
どうしても思い出せない。
「誰……?」
−あたしだよ。あたしを呼んで。
あたしを見つけて。
ああ、知ってる、当り前だ、この声は……。
返事をしようとして、息を吸い込んだ。あまい空気。
花の薫りのむこうで、歌が聞こえた。
とろけるような、あまい声。呪文のような見知らぬ響き。
ああ、これはシェリアさんの声だ。深く広がっていく声。
おねえちゃん。
歌声が、もう一つの呼び声をかき消した。
「………」
自分の声で、目が覚めた。
寝ぼけて何か叫んだみたいだけど、覚えていない。
あたしはぼんやりとあたりを見た。真っ暗だ。
体を反転させて、窓の方を見た。わずかに、月の光が差し込んでいる。
寝返りをうった時に、あまい花の薫りがただよってきた。夢の中でも嗅いだような気がする匂い。どこかに花でも咲いているんだろうか。
あんなに眠かったのに、朝になる前に目が覚めてしまうなんて、変な感じだ。
嫌な夢でも見たんだろうか? でも、その割には、嫌な気分じゃ無い。
いい夢だったとは思わないけど。なんだろう? 変な気分。おまけに、何故か眠く無くなってしまってる。
それでも眠ろうとしてじっとしていたら、歌声に気づいた。
遠くの鳥の鳴き声のようにささやかで、自然にその場に溶け込んだ微かな歌声。
シェリアさんの声だ。
すぐに分かる。あんな声、他には絶対ない。
暗闇の中、声と月明かりを頼りに廊下に出た。
声は、廊下に面した窓の方、外庭から聞こえてくるような気がする。
あたりだ。窓のはるか下、きれいに刈り込まれた茂みにもたれるように、埋もれるように座る、シェリアさんの姿が見えた。
目を閉じて、あたしには気づかず気持ちよさそうに歌ってる。あんなところで何をしているのだろう?
「リ ユーン シャル ヴィ ヴェ−ヴァ ヴィータ リヴァ……」
そっと、聞こえてくる言葉をなぞった。あたしには意味の分からない、ただの音。それなのに、どこか懐かしい、安心するような優しい響き。
そのまま歌声を子守唄に部屋に帰って眠ろうとした時、それとは違う声が聞こえてきた。
歌声をかき消す強さの、複数の人の少し苛立った声。押し殺そうとしても、もれてくる怒り。
急に、ここがあの自分の家のような感覚に襲われる。
布団をかぶっても、なぜかはっきり聞こえてきた、母さん達の言い争う声。
そんなものもう聞きたく無い。
ぎゅっと目を閉じた。早く部屋に戻って布団をかぶらなきゃ。
そう思って、あたしが体を反転させた瞬間。
「父上!」
聞き覚えのある、大きな叫びがして、またあたりは静かになった。
あたしは、耳が特別いい方じゃ無い。だから、はっきりとは言えないけど、あの声は、ラセルのものじゃ無いだろうか?
足音がした。
怒りに任せた、荒々しい音。ろうそくらしい光がこちらに近付いてくる。
あたしははっとして、立ちすくんだ。
部屋に戻った方がいい。そう思ったけど、とっさに足が動かない。
足音が、ゆっくりと立ち止まる。
ろうそくの光が、さっと掲げられた。
「誰だ!」
ろうそくに、金の髪の毛がてらされる。
やっぱり、ラセルだった。
「なんだ。お前か」
深くため息をついて、ラセルが片手を下げる。その手に、抜き身の刃物が握られているのに、あたしはぎょっとした。
おもちゃ……には見えない。あたしが使う包丁と同じ、刃物の硬いきらめき。
「あっ、なっ」
何すんの、と、言おうとした舌は空回りしてぱくぱくと唇だけが動いた。口の中が一瞬でからからになる。
人を傷つけることができる道具の、緊張した空気がぴりぴりとあたしを刺してくる。
「ああ。すまない、驚かせた」
ラセルが少し驚いた顔をして、ナイフみたいな短い剣をさやにおさめた。
「びっくりしたぁ……」
あたしの緊張が緩み、夜気に溶けていく。とっさに肩に入っていた力が、ふっと抜けていった。
静かになった闇の中に、再びシェリアさんの歌声だけが響く。
こんな綺麗な歌を聞きながら、ラセルは何を怒っていたのだろう。誰に?
「……まだ寝てなかったのか? もう夜半だぞ」
ラセルが窓の外を見ながら、聞く。
「寝てたけど、なんか目が覚めちゃったんだ」
変な夢を見たような気がする。
「俺達の所為か?」
「え?」
ラセルの言葉の意味が分からなくて、聞き返した瞬間に、その意味を理解した。
あたしの目が覚めたのは、ラセルの話し声の所為じゃ無い。短く首を振って否定した。
「たぶん、違うと思う。変な夢を見ただけ」
ラセルは、眉をしかめたけど何も言わない。沈黙が居心地悪くて、あたしはもぞもぞとつま先を動かした。
「……俺には、父上が何を考えているのだか分からない」
あたしの言葉を聞いているんだかいないんだか、ラセルは勝手に喋りはじめた。
何が、言いたいのだろう?
「本当なら、晩餐の席でア−ロのことを皆に言うべきだった。それを隠して、皆に警戒もさせずに『大丈夫だ、お前は何も心配する必要は無い』だなんて」
ラセルの言葉は、他の誰かに喋ってるみたいで、何が言いたいのか良く分からない。
さっきまで言い争っていたのは、ラセルのお父さんだったってことだろうか。で、魔女の事をみんなに秘密にしていたのを、ラセルは怒ってる?
確かに、危険な魔女が王様を狙ってるかも知れないなら、みんなに教えておいた方がいい。
「大丈夫な訳は無いんだ。ア−ロは父上を狙ってる。お前も知ってるだろう?」
あたしはラセルの迫力に押されるように、こくこくと頷いた。
アーロネッサは言っていた「やっと、あいつに復讐できる」って。
「なのに、何で」
ラセルが唇を引き結んだ。
「父上はいつもそうだ。大事なことを、何も言わない」
はき捨てるように言って、そのままうつむく。
「ずっと、アーロは死んだと思っていた。」
ラセルが少しだけ小さな声で言った。
「父上を殺そうとして逆に殺されたと、そう教えられた。朝起きたらアーロはいないし、父上の目と足はあんなふうになってるし、皆の言葉を信じたよ。アリーシャが教えてくれなければ、今も信じていただろうと思う」
彼の声が少しだけ掠れた。泣いてるのかと思って慌てたけど、その眼に涙は無い。口をきつく結んで、あたしの後ろの闇を睨んでる。
「もうすぐルスの森から魔女が戻って来ると、そう彼女に言われてやっと、父上は真実を教えてくれたんだ。アリーシャが俺に話さなければ、今回も俺には何も言わないつもりだったのかも知れない」
そういって、口の端だけで笑う。
その笑いが、ちっとも楽しんでいるものじゃ無いのがあたしには分かった。 伝わってくる、苛立ち、怒り、不安と……たぶん、悲しみ。うまく言えない色々が混ざった感情。
だってあたしも、同じ気持ちを知ってる。
この世界に来てから。ううん、ここに来る前からずっと知っていた。
子供には聞かせないように喧嘩して、「大丈夫、何の心配もしなくていいのよ」って言って別れた母さん達。
自分が、何も出来ないと思うこと。自分だって関わりたいのに、そのなかに入ることすら許されない。
「……あたし達が、子供だからなのかな。何を言っても役に立たないからなのかな」
もっと大人だったら、あたしは二人をつなぎ止めておけたのだろうか。
「そんなことない。俺は、父上の助けになれる」
ラセルが言い捨てる。そのまま、こっちに背を向けた。
その背に灯りを遮られ、急にあたりが暗くなる。あたしの白いねまきに、ラセルの黒い影が伸びた。
「お前も、もう寝た方がいい」
闇で、ほとんど茶色に見える金髪が、一度も振り返らずに早足で遠ざかる。ろうそくの光さえも、じきに闇にまぎれた。
静かになった廊下で、ずっと小さく聞こえていたシェリアさんの歌声が、急にはっきりと耳に聞こえてくる。
ラセルは、自分がお父さんの助けになれるっていっていた。
あたしはどうなんだろう。
あたしは、両親に何をしてあげたくて、何が出来なかったんだろう。
暗闇にもう少し目が慣れるのを待って、あたしはその場からゆっくり、自分の部屋へと足を踏み出した。
二人が、別れてしまうのが怖かった。家族が無くなるのが怖かった。
自分にどうしようもないところで自分にとって大切なものが無くなっていくのが怖かった。
あたしにも、なにか出来ることはあったんだろうか。
歩くと、あたりの空気が冷たく感じて身震いする。話していた間は興奮していたからだろうか、気づかなかったのに。
木綿みたいなあっさりしたワンピースは、夜気から身を守ってはくれない。
「はっくしょん」
大きなくしゃみが出た。鼻をすすって、少しでも暖まろうと、両腕を体に巻き付ける。
風邪を引きたく無いなら、早く布団の中に戻った方がいい。
あたしは早足でベットにたどり着くと、その布団に潜り込んだ。
そうやって布団をかぶって、あたしは自分の頭の中に広がったごちゃごちゃから逃げ出そうとした。目を閉じて、耳を塞いで。
布団の中は暖かい。いつものように、だんだんと心地よい温もりが体に広がっていく。
それと一緒に襲ってきた眠気に、あたしは身を任せた。