第306話 『黒い森』
セシルは、疲れた身体でとぼとぼと木々の間を歩き続けていた。
集落を追い出されてしまったので、もうこの森に居続ける必要はないが、ここまで運んでくれた聖獣も集落の中に連れ去られてしまった。
かと言って、あまり森の中をうろうろしていると、今度は本当に同胞から危害を加えられかねない。
特に、自分を奴隷のように扱き使っていたあの家族であれば──考えただけで背筋が寒くなるのを感じた。
そうすると彼女が向かう先は一つしか無かった。
『黒い森』──アドラード大森林の一角に、黒緑色の葉が鬱蒼と生い茂る地帯がある。
アドラードに住むエルフたちは、幼い頃からそこに近寄ってはいけないと教えられて育つのだった。
そのため、黒い森にエルフは近付きたがらない。
今のセシルにとっては絶好の場所であった。
そこで一息ついて、今後のことを考えるしかない。
「はぁ……」
彼女は深い溜息を吐いた。
「トーラスさま……。会いたいですわ……。帰って……謝らなきゃですわ……。一人で舞い上がっていたこと、家出してしまったこと……。一旦あそこで一休みしてから、ポップが居なくとも、たとえ何日かかろうとも、この足で……歩いて帰りますわ!」
彼女はそう結論を出すと、深呼吸をしようと大きく息を吸う。
その瞬間、彼女の身体は反射的に強張り、呼吸を止めてしまう。
「っ……! この匂い……」
セシルは小走りに匂いを辿る。
それは自分が今歩いてきた道を逆戻りしているのだが、鼻の奥が熱くなるほど濃い血の匂いに驚くセシルはそれにも気が付かない。
辿り着いた場所には、血溜まりの中に倒れている人間族の男と、辺り一面に同胞達の身体がばらばらに散らばっている惨状が広がっていた。
「ひぃっ!」
セシルは突然目にした光景に、思わずその場に蹲り、嘔吐してしまう。
それと同時に、激しい目眩を引き起こす視界の中で、周囲の木々に何箇所も洞が開いていることに気付く。
木の洞を自由に集落と繋ぐ、里長特有の能力が機能していない──それが意味することは、唯一つだった。
「もう……里長は……」
次の瞬間、近くの洞から悲鳴が聞こえる。
「ヒィィィィッ!! たすけ、助けてくれェェェッ!」
そう叫びながら洞から飛び出してきたのは、セシルのよく知る者達であった。
「アルテ……それに、お父さま!」
アルテは、突然名前を呼ばれた事に驚きながら、涙と洟でびしょびしょになった顔を彼女に向ける。
「お前……セシルか!? ちょ、ちょうどよかった! お前、俺達の代わりにここで戦って死ねよ! お前が殺されてる間に俺と父さんは逃げるからよ!」
「アルテ、一体、ここで何があったのです!?」
「うるせぇ! お前はここで俺たちの言うことを聞いてればいいんだよ!」
「孤児になったお前を引き取ってやった恩を忘れたのか!? 今はアルテの言うとおりにしろ! 追手が来るからここで囮に──」
アルテに続き、口を開いた彼の父であったが、彼の言葉はここで途切れる。
彼が倒れると同時に、背後にあった洞の中から、剣を持った手が、そして身体が現れる。
「っ!? 父さん!? やべぇっ! おい、てめえら! ここからは俺の姉さんが相手になってやる!」
「ん? 姉というのはその少女か? 強いのか? 強いならば文句はないぞ」
全身をすっぽりと漆黒のローブで覆った、剣を持つ女がセシルの方を見て笑みを浮かべる。
「今だ! …………っ! はっ、離せ!」
それを見てアルテは茂みの中に駆け出すが、彼の目の前の洞から別の女が現れ、アルテをあっという間に抑えつける。
「はいはーい、姉だか妹だか知らないけど、レディを囮にして逃げようだなんて、性根が腐ってるよねー。で・も・ね? 残念だけど、エルフは全員殺せって皇帝陛下からの命令なの。だから、一匹たりとも逃がすわけにはいかないんだよね〜」
そう言いながら、女はアルテの身体に手足を回し、彼の身体の自由を奪っていく。
「いだっ! アァッ! ぐぅぅぅ!」
身体中の骨が折られ、関節が外され、聞いてる方が痛くなるような音があたりに響く。
「セシルッ! ねえさん! たす、助けてくれっ!」
アルテは、セシルに向かって必死に叫ぶ。
「わたくしは……あなたの家に引き取られてから、人間らしい生活をしたことがありませんでしたわ」
アルテに向けられたセシルの目には、全く感情がこもっていないような濁りがあった。
「深夜であろうと早朝であろうと、あなた方の命令を聞き、逆らえば暴力を振るわれ、食事も満足に与えられず……それでも生きてこられたのは、エルフの里が……この森が……守ってくれたからですわ。寒い冬には暖かい木の洞を寝床にして、空腹に耐えられない時は、木の実やキノコ、自然の恵みをいただき……。わたくしは、この森に育てていただいたのですわ」
「ほう……。こいつら、とんだクソ家族ではないか」
黒衣の女の背後から、さらに筋骨隆々とした男が現れて、そんなことを呟く。
彼は激しい戦闘の後なのか、身体の所々から血を流していたが、特に気にしていない様子であった。
「まぁ、たかが魔物に家族などと……正直どうでもいい話だ」




