第250話 ヒール
セーゲミュットがミュルサリーナに魔王の解呪を懇願していた頃、森の奥では一人のエルフの少女が膝を抱えて泣いていた。
「わたくしは……ヒーラーなのに……なのにっ……トーラスさまの傷を癒すことが……」
左腕を失くし、傷口からぼたぼたと血を溢すトーラスを見て、ただ傷口を押さえることしかできなかった自分。
そして、リリーが駆けつけてくれた時に、『これで彼が助かる』と心から安堵した自分。
そんな自分が嫌になり、リリーが彼の首を裂いて胸にナイフを突き刺したところを見届けてから、森の奥へとあてもなく歩いてみた。
途中で一度だけ後ろを振り返ったが、誰も追いかけてくる気配は感じられなかった。
誰も自分の事を気に掛けていないのだろう。
そう考えると腹が立って、自然と速足にもなる。
「もう……どうでもいい……ですわ」
気付けば此処が何処なのか、方角すらも分からなくなってしまった。
「これでいいのですわ。ヒーラーギルドなのに……ヒーラーなのに……一人の命も……いいえ、掠り傷すらも治せない、役立たずのお荷物ヒーラーは、ここで消えればいいのですわ」
セシルはそんな事を呟いて、再び両膝の間に顔を伏せ、涙を流す。
しばらくその状態で泣き続けていたセシルであったが、不意に、足音が聞こえて身体を小さく震わせる。
一瞬、仲間達の誰かが追い掛けてきているのかとも考えたが、その足音は明らかに四足歩行であると、彼女の鋭い聴覚が教えてくれる。
「……あぁ……ここは森の中ですものね……。こうしてモンスターに無惨に食い殺されるのが、わたくしにはお似合いなのかも知れませんわね」
セシルがぶつぶつと呟いている間にも、足音は次第に大きくなる。
セシルは未だ顔を伏せたままなのであるが、足音だけで既に獣の目的がセシルなのは明白であった。
ついに視認できる距離まで到達したのか、足音は突如激しい轟音を立てて高速で迫ってくる。
「グレインさん、ご安心下さい。ただの能無しヒーラーが一人欠けるだけですわ」
しかし、足音はセシルの手前で急速に勢いを弱め、再びゆっくりと歩み寄っている様子だ。
そしてセシルの目の前まで来たときに、足音は完全に止まる。
「……どこからが一番食べやすいのか迷っているのでしょうか……」
そのまま足音は沈黙し、獣と自分の呼吸音だけが聴こえる。
「……どうしたのです? 早くお召し上がりなさいな」
セシルがそう言って顔を上げたときであった。
小さな舌が、彼女の頬を舐め上げた。
「ひぃぃっ! ……ってあなた! ポップじゃありませんの! ハイランド様のお屋敷にいたはずでは!?」
「ププルゥ……プルプルプル」
それは、彼女がかつてポップと名付けた、背に翼を生やし、額に小さな角を持つ白い仔馬の聖獣であった。
「ぇ……わたくしの事が……心配で……?」
「ププゥ」
「でもでもでも……わたくしはただの役立たずヒーラーですのよ」
「プップー! プップルゥ!!」
「……そう言ってくれるのはポップだけですわ。実際、トーラスさまの命が危うくなった時も、わたくしには何もできませんでしたの」
「プ? ププー?」
「わたくしが治癒魔法なんて使ったら、トーラスさまの身体が弾け飛んでしまいますわ」
「プー……プルップッププ」
ポップは少し考えた素振りを見せると、そう嘶いて前足を折り、その場に座る。
「え……角を触ればいいんですの!?」
セシルがポップの角に触れると同時に、二人を中心に小さな竜巻が生まれる。
「……あぁ……角から流れ込んでくるのは……ポップの魔力ですのね。爽やかな……とても心地良い風を感じますわ。まるでポップに乗って野を駆け回っているような」
「ププップルゥ」
「……え?」
セシルは一瞬、ポップが何をしようとしているのか理解が出来なかった。
そもそも聖獣は存在しない伝説上の生き物とされているほど稀な存在であり、どのような力を秘めているのかすらあまり知られていない。
そしてセシルの耳は、ポップから『力を分けてあげる』と聞いたのだ。
次の瞬間、二人の周囲に渦巻いていた竜巻が、聖獣と少女の接点──ポップの角に向けて収束する。
轟音とともに竜巻は角に、セシルの手に吸い込まれるように消滅し、再び周囲には静寂が戻る。
「プッププ」
「え、終わったんですの? 特に何も変わっていないような……」
セシルは念の為、近くの大木目掛けてヒールを放つ。
彼女の手のひらを離れたヒールの光球は、周囲の空間を歪めるほど濃密な空気の渦を巻き起こしながら飛んでいく。
「えぇぇぇ! 何ですのこれぇぇぇぇ!!」
そのヒールは大木へと命中すると、空気の渦が大木を木っ端微塵に切り刻む。
「あ……あうう……こんな魔法、もはやヒールではなくなってしまいましたわ」
しかし次の瞬間、切り刻まれてグズグズになった大木が元通りに治癒していくのを見て、セシルは更に驚くことになる。
「あれ? え? 治っ……え?」
「プップルルル! ププー……プッププ」
「え? ……わたくしのヒールが強すぎるから、ヒールに破壊力を……付与して? ……強すぎる分を……消せばいい……?」
ポップが考えたのは、所謂オーバーキルとオーバーヒールを重ねて相殺し、ヒール分だけを残す作戦であった。
「ポップ、ありがとう。あなたの優しさ……温もり……爽やかな魔力……伝わりましたわ」
そう言ってポップを抱きしめるセシル。
彼女は聖獣との間に心と魔力を通わせるという、歴史上にも例をみない偉業を成し遂げているのだが、そんな事は誰も知る由もない。
「……ちょっとだけ……求めていた力とは方向性が違うけれど」
「プルッ!?」
「……いえ、せっかく人並みのヒールを使える力をもらったのに……わたくしったらそんな罰当たりな事を言ってごめんなさいね」
「プー……ププッ! ププルププルルップップル」
「え? 風魔法と治癒魔法の比率は変えられる? ……えぇ、では少しだけ風魔法を強めにイメージして……」
そして再び先ほどと同じ大木に向けて、セシルはヒールを詠唱する。
ただし、風魔法の威力を大きく──吹き荒れる嵐をイメージしながらヒールを詠唱する。
それは天まで届きそうな巨大な竜巻となり、標的の大木どころか周囲の草木全てを薙ぎ倒して突き進んでいった。
「えぇぇ……ヒールはどこいったんですの……」
茫然とするセシルの背後で、どさりと何かが落ちる。
「う……うぅ……。 セシルちゃん……やっと見つけた! さっきの竜巻……大丈夫だった?」
それは木の上から竜巻にあおられながらも跳躍、着地に失敗したリリーであった。
「リリー……ちゃん……。どうして?」
未だ地面に蹲るリリーを、セシルは泣き腫らした真っ赤な目のままで心配そうに覗き込む。
「どうして……か分からない? あなたを……探しに来たに決まってる。こんな森の奥で、モンスターに襲われたらって心配に……痛っ」
リリーの声には僅かながら怒りがこもっているのをセシルは感じ取る。
しかし同時にそれが自分の身を案じてくれた事から来る感情だと悟り、セシルは少しだけ嬉しくなった。
「あれ……。ポップちゃんもいるの? ……乗せてくれないかな……ちょっと……歩けそうに……ない」
「大変! 右足から血が流れていますわ!」
「最後に跳んだときに……木の枝に引っ掛けちゃって……。……包帯できつく締め付けておけば……たぶん大丈夫」
リリーの右足首はざっくりと切り傷があり、そこから絶え間なく血が流れ落ちていた。
その時、セシルは気が付く。
「ププルゥ!」
それはポップも同じであった。
以前のセシルにはどうすることも出来ず、このまま移動するだけであったが、今のセシルならば。
「リリー、あの……一つお願いがあって。わたくしのヒールを……右足の傷に掛けさせてもらえません?」
「……え……。つまり……右足を……切断するって事?」
以前のセシルしか知らない者には当然の反応であった。




