サラリーマンの夢
私は木田武司。しがない中年サラリーマンだ。
最近は仕事が忙しく、遅くまで残業をする日々が続いている。
こうして電車に揺られている今も、強烈な睡魔に襲われしまうほどだ。
まぶたが自然と下りてきて、疲労困憊している私は、駅に着くまでの三十分で仮眠を取ることにした。
心地よい揺れに身を委ねまどろんでいると、大きな車内アナウンスの声で目が覚めた。
「次は~秋貝~秋貝~」
「おっと、もう降りなくては」
慌ててホームに降り立ち、改札を目指して歩く。
ふと、何だか視線を向けられているような気がした。
どうやら、周りの人達が私をジロジロと見てひそひそ話をしているらしい。
(何だ……?スーツに目立つ汚れでも付いているのかな……?)
そう思い、ざっと身体をチェックしてみるが、特に変な所はないようだ。
訝しんで再び周囲を見てみると、平日の朝だというのに私服を着た人達しかいない事に気付いた。
最近は暑いから、軽装でもおかしいわけではないが、私が降りたこの駅は有名なオフィス街だ。
通勤ラッシュで疲れた顔をしたスーツ姿のサラリーマンで、毎日ごった返しているのが普通である。
もしかして、私が忘れているだけで今日は祝日だったのだろうか?
「おじさん、朝から遊びに行くの?」
思慮しながら佇んでいた私に、チャラチャラとした、いかにも今時の若者という風貌の男が話しかけてきた。
頭の悪そうな大きいサングラスと、派手な色の帽子が目に痛い。
「バカ言うな。見れば分かるだろう、今から仕事だよ」
「えっ、嘘でしょ?うわっ、おじさんヤバイねー。朝から気合い入ってんなー」
「はあ?」
特に若者が嫌いというわけではない私だが、さすがにこの会話の噛み合わない若者には腹が立った。
普段はやらないことだが、文句の一つもつけてやろうとした。
だが、男はすぐに興味を失ったのか、後から来た仲間と立ち去ってしまった。
「なんだったんだ、あいつは……」
もしかしたら、今流行っているYouTuberとやらの類だったのかもしれない。
突拍子もない事をいきなり言って、反応を楽しむ輩が世の中にいるのだとニュースで観たことがある。
そう考えれば呆れはするが、もはや怒る気も失せるというものだ。
何にせよ、世間が休みであろうと今日が仕事であることに変わりはない。
遅刻する前に、私は一社会人として会社に向かわなければならないのだ。
「まったく、朝からいいご身分ねー」
近くにいた中年女性の、完全に同意できる陰口を聞きながら、私は駅の改札口を抜けていった。
「……何だこれは……」
思わず、愕然としてしまう光景だった。
いつもであれば、駅を出れば葬式かと見紛うほどに、黒いスーツ姿のサラリーマンがたくさん歩いているのだ。
だがしかし、なぜこれほど私服を着た人が溢れかえっているのだろう。
いくら祝日だと言っても、このオフィス街でこんな光景は見たことがない。
ゴールデンウィークやお盆でさえ、こんな風にはならないだろう。
まるで、狐につままれたような気分だ。
「どうしたんだ今日は……いや、よく見たらむしろ、スーツを着ているのなんて私ぐらいじゃないか?」
戸惑っていると、またもや周囲から好奇の視線に晒されていることに気付いた。
皆がこちらを見ながら笑ったり、珍しそうに携帯で写真を撮っている者までいる。
「お前達、何がそんなにおかしいんだ!」
わけのわからない状況に苛立っていたからか、私が思わずそう叫ぶと、視線を反らしてそそくさと立ち去っていってしまった。
まるで、電車の中で突然叫ぶ人を見かけた時のような反応だ。
なぜ普通に出勤しているだけなのに、ここまで笑い者にされ、反撃すれば腫れ物扱いを受けねばならないのか。
憤りで心がグシャグシャになったような気持ちになったが、とにかく全ての雑念は捨てて会社を目指す事にした。
そして行く先々で嘲笑されること十五分、やっと職場である秋貝商事に辿り着くことができた。
私は安堵のため息を漏らしながら、扉に手をかける。
すると、見知った顔の警備員が慌てた様子で私の腕を掴んできた。
「ちょっとちょっと、ダメですよ勝手に入っちゃ!」
その男は佐々木という名前で、私が入社した時からずっとこの会社の警備員として働いている。
そんな人が、私の事をまるで不審者を見るような目でこちらを見ているのは、ショックだった。
「佐々木さん、私ですよ、木田です。毎日顔を合わせているのに、こんな朝から悪い冗談はやめてくださいよ。遅刻してしまうので、手を離してください」
「いやいや、何を言っているんです?木田さん、いくら見知った顔でもいきなり勝手に入られたら困りますって」
「いきなりって、毎日私はこうやって出勤しているじゃないですか。今さら、勝手も何もないですよ」
なおも食い下がる私に、普段は温厚な佐々木さんが、眉間にシワを寄せた。
「えっと、木田さん。昔みたいに皆が普通に働いていた時代じゃないんですから、勘弁してくださいよ。決まりは決まりなので、入るのはこの用紙にサインをしてからにしてください」
「サイン……?会社に入るだけなのに、サインがいるんですか?」
「そりゃ、当然ですよ。さ、こちらに必要事項を記入してください」
混乱している私に、佐々木さんはクリップボードとペンを差し出した。
クリップボードには黄色い用紙が1枚挟まっていて、それに目を通すとこう書いてあった。
『アミューズメントパーク 秋貝商事!ロボット技術の革新的な進歩により、人類が働かなくても衣食住が足りる時代が来て早十年。そこで、仕事が生き甲斐だったあなたのために、わが社が提供するアミューズメント施設がこちら!楽しい会社ワークを、簡単に体験することができます。一時間五千円コースから』
日本語が読めるのに、全く意味がわからなかった。
ロボットがいきなり進歩して、人間が働かなくても食えるようになっただって?
そんなバカな話があるか。
仮に実現するとしても、すぐになるわけがないだろう。
そもそも、私の会社が会社名だけそのままに、遊びの施設になったとでもいうのか。
「ふざけるな!」
勢いよくクリップボードを地面に叩きつけると、佐々木さんは思わず飛び退いた。
「落ち着いてください、いきなり何をするんですか!」
「何をするんですか、じゃないですよ。いい加減にしろ!これはテレビのドッキリか何かか?オタオタしている私を撮って楽しんでるんだろう!?もう十分私は恥を晒したよ、もうおいだろう、やめてくれよ!」
「木田さん、どうか落ち着いてくださいよ。警察を呼びますよ!」
「勝手に呼べばいいだろう、テレビ局を訴えてやるからな、覚えとけよ!」
興奮する私におののきながらも、佐々木さんはしばらく私を宥めようと努めた。
だが、努力のかいもなく、私の今日一日分の怒りは膨れ上がっていくばかりだった。
結局、佐々木さんは私を片手で制しながら、携帯電話で警察を呼んだ。
ほどなくして、警官二人に私は取り押さえられ、近くの交番に連れ込まれてしまった。
暴れている男がいると通報されたにも関わらず、憔悴しきった様子の私を憐れんでか、少し年のいった警官は、静かに話を聞いてくれた。
思わず涙が出そうになる。
「駅からずっとおかしいんですよ。周りの人達がジロジロ見てきて、何とか会社に行ったらアミューズメントパークになっていて、もう頭がどうにかなりそうなんですよ」
「なるほど。でもね、公務員以外はほとんど働いていないご時世に、スーツ着てたら変に見られるかもしれませんよ?結構珍しいですからね」
「昨日まではこうじゃなかったんだ!」
思わず机を叩いてしまったが、警官は冷静に語りかけてきた。
「わかりますよ、わかります。仕事一筋で生きてきたら、いきなり働かなくてよくなっても困りますよね。僕も似たようなもんです。十年たった今でも、あなたのように引きずっている人はたくさんいるんですよ」
「そういう話じゃないんですよ、本当に昨日までちゃんと働いていたんだ……働きすぎて、妻が家を出ていくぐらい真面目に……」
年がいもなくボロボロ泣く私を見て警官は一瞬ギョッとしたようだが、慌てることなくお茶菓子を勧めてきた。
それを私が無言で断ると、警官は紙に何かを書き込んで手渡してきた。
「じゃあ、今日の所は厳重注意という事で結構ですよ。ここの空欄に、名前と住所、連絡先を書いたら終わりです」
よほど私が面倒な人間だと思われたのだろう。
要するに、さっさとこれに書いて帰れということだ。
もはや私にも、それについて抗議する気力はなかったので大人しくサインするしかなかった。
交番から一歩出ると、強烈な太陽の日差しを感じた。
今日は朝から夏のような暑さだ。
もう、会社に行く必要もなくなってしまった私は、フラフラと街を徘徊した。
道行く人々は、やはり私に好奇の目を向けている。
もうどうでもいいことだ。
何だか、頭がクラクラしてくる。
熱中症だろうか。
「いかん、ちょっと日陰に行こう……」
ちょうどベンチが日陰にある公園が、少し遠い場所に見える。
覚束ない足取りでそこを目指したが、途中で目の前が真っ暗になって、私は倒れてしまった。
そこからの記憶はないが、気が付くと私は電車の中にいた。
そこにはいつもと変わらない車内の風景が広がっていて、私は安堵することができた。
どうやら、眠ってしまっていたらしい。
あまり思い出せないが、私は悪い夢を見ていたようだ。
「次は~秋貝~秋貝~」
大きいアナウンスが車内に響く。
私が降りる駅はここだ。
(今日は秋貝商事に行ってみるか。楽しみだなー)
雑誌で貰ったクーポン券を握りしめ、私はウキウキとしながら秋貝商事へと歩いていった。