序、灰色のキャンバス
「はあ……またかあ」
ふぅっと華奢な肩で小さくため息をつく。
眼前の水彩キャンバスに今しがた描いたばかりの白い影をみつめる。
ミズナの虹彩の青よりもっとやわらかに描かれた池の水面には、小さな蓮の花が心もとなげに浮かんでいた。
「……うん、そう。これじゃ……ダメなんだよ」
パレットに宝石のように散りばめられた色とりどりの絵の具を、白銀より白い左手の指先で絡めた平筆でぐるぐると混ぜ合わせると、練りあがった灰色の絵の具を筆先にたっぷり取る。
「わたしには、できないの」
口癖のようにそう呟くと、首をぶんぶんと大袈裟に左右にふる。
軽くウェーブのかかった銀色のショートヘアーが窓から射す光をキラキラと反射する。
「言ってても……うん、始まんない」
筆を握り直すと、キャンバスの右上からさきほどすくい上げた絵の具を少しずつ塗り広げるように筆を往復させる。
ほどなくして、水彩キャンバスはムラ一つ無い灰一色に染め上がる。
幾日前までは真っ白だったはずの白い空間たちが、部屋中のそこら辺りに灰色に塗りつぶされて所狭ましと並んでいる。
「なんだか、この部屋……」
言いさすと、ミズナは平筆とパレットを古びた簡素な作業台に静かにおいて部屋をぐるっと見回す。軋む樫の丸椅子に腰をかけると、小さな膝を軽く揃えて視線をゆっくりと正面のキャンバスに向ける。
「灰色の世界。これが今のわたしの全て」
背後の板壁からミズハの声が反響して同じセリフで問いかけてくる。
ふと窓際に飾られたフォトフレームの青い光と視線が合った。
ミズナより少し年長の穏やかな瞳から微笑が投げかけられる。
「こんなとき、なんて言ってもらえるのかな」
思い出そうとすると、どうしてなのか上手くその人の声を再生できない。
「もう過ぎたこと、ってことかな。……うん、今日はもうやすもう。ちょっと疲れちゃったな」
曖昧な想像を放棄して、頼りない音を立てるベッドに全身をゆだねると、ミズナは大きく息を吐いて、それから静かに瞼を閉じた。
灰色のキャンバスたちとフォトフレームに反射する青い光が、横たわるミズナを静かにみつめていた。