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成宮さんの態度に迷いはなかった。
思えば彼女は既に決断していたのだろう。
最善の策をとる、それが彼女のポリシーだとすれば、何も持たずに黒竜に殺されるよりは、よほどバウニャンと戦い命を散らすほうが相応しかった。
「いいのか……?」
アルコが不安そうに訊ねる。
「それが最善だよ。きっとね」
僕の迷いの無い態度にアルコは驚いた顔をするけど、そのうちに納得したのか、何も言わずに顔を引き締めた。
ヤドカリたちの広場を後にし、泉の部屋、バウニャンの待つ部屋へと向かう。
扉を開けると、いつもと同じ姿のバウニャンがそこにいた。
まだ変異していない。目も、赤く濡れていない。
ただ、こちらを無表情にじっと見つめていた。
動物に明確な表情というものを求めるのも変な話だけど、普段はのんびりと穏やかな表情をしているのに、今は無機質で機械のような、薄ら寒い表情に見えた。こちらの心の持ちようかもしれないけど。
「ただ部屋に入っただけじゃ、変化しないのね」
「泉の水を飲んで回復したら……ってことかよ」
「ペナルティだと考えるなら、利用した後だろうね。変なところでフェアだなあ」
「泉の水の利用が条件だとしたら……先に瓶を補充しましょう」
「飲むのが先じゃなくていいのか?」
「飲んだら回復するでしょう? 確実にバウニャンは変化すると思うの。でも、瓶の水なら、その時点では使っていないとも言える。それに、もし変化が始まったとしても、瓶の水を飲めば回復できるから」
「なるほど……瓶に水を入れたとしても、その場で捨てる可能性だってあるもんな。捨てねーけどさ。なんか、法の隙を突くみたいな考え方だな」
「とにかく、瓶の中身を補充しようか。すぐに使えるよう、アルコが補充したほうがいいかな。僕は盾になろう。成宮さんは……」
「サポートのために、少し離れた位置にいるわ。ネックレスはアルコが持ってるから、ただの木の矢だけど、注意を逸らすことくらいはできると思うから」
「分かった。それじゃ、みんな、準備はいいかな」
二人が頷く。
アルコが瓶を取り出し、泉の水に近づく。
バウニャンの様子を見る。
扉の前に移動している。まだ変異していない。その目だけがらんらんと輝いている。
成宮さんが壁際に移動したのを見届けて、アルコが瓶に水を注ぎ始める。
「注いだぜ」
アルコが瓶の蓋を締める。
バウニャンは……まだ元の姿のままだ。
「予想はあたり。水を使うまでペナルティは発生しないのね」
「それじゃ、このまま部屋を出れば?」
「なるほど……試してみる価値はあるわね。でも、おそらく閉ざされていると思うわ」
「だろうね……怖いけど、やってみる」
無駄かもしれないけど、もし扉が開いていたら、それこそバウニャンと無駄に戦うことになる。
足元のバウニャンの視線に怯えつつ、扉のノブに手をかける――
「だめだ、開かない」
「マジかよ……やるしかないのかよ……」
アルコが憔悴した様子で呟く。
見れば、成宮さんも険しい顔をしていた。
僕も、同じような顔をしているのかもしれない。
これから訪れる展開に、緊張感、恐怖、哀れみ、虚しさ……様々な感情が入り乱れていた。
「じゃあ、飲むぜ」
アルコとバウニャンを直線で結んだ間に移動し、盾を構える。
背後で、アルコが水を飲む音が聞こえた時、
「グルル……」
扉の前のバウニャンが獰猛な唸り声を上げたかと思うと、すぐにゴキゴキと骨が軋むような音が響き、バウニャンの体が巨大化していった。
人型の狼となったバウニャンは、赤い目を輝かせ、僕ら三人を睨みつけ、一気にこちらへと跳躍した。
「グルァッ!」
鋭利な爪の一閃。
腕が横に流れそうになるけど、力を込めて盾を構えて、なんとか弾く。
すぐに次の攻撃が、今度は縦方向に振り下ろされる。
盾を頭上に構えて防ぐ。けど、凄まじい勢いで、立っていることができない。無様に尻もちを突く。
――だめだ、やられる。
「はっ」
成宮さんの矢がバウニャンの腕に刺さる。
効いたかどうかは分からない。けど、バウニャンは怒ったように唸り、その矛先を成宮さんへと変えた。
「成宮さん!」
「大丈夫! アルコ、準備して!」
「りょ、了解!」
アルコが杖を回転させつつ、壁際へと向かう。
アルコとバウニャンと結ぶ線を空けるわけにはいかない。
僕もすぐに立ち上がり、移動して、盾を構える。
バウニャンと成宮さんが対峙していた。
僕からはバウニャンの背中と、ほんのすこし成宮さんの足が見えた。
バウニャンが跳躍、成宮さんに襲いかかる。
成宮さんが側転、攻撃を避ける。
すぐに次の攻撃が襲いかかる。
成宮さんが短剣を投げる。
バウニャンが、それを腕で弾く。
その隙をついて、成宮さんが距離を取る。
が、距離が足りない。
バウニャンの爪が、成宮さんの足を吹き飛ばす。
血飛沫。
成宮さんが床に転がる。
生きている。しかし、逃げることもできない。
もう待てない。
剣を構え、バウニャンに斬りかかる。
バウニャンは僕に気がついていない。
いける――そう思った瞬間、
「グルァアァアァ!」
バウニャンが咆えた。
胸を反らし、咆哮する。
「体が……!」
動かない。
金縛りのように、頭だけははっきりしているのに、体を動かすことができない。
剣を構えた状態のまま硬直した僕に、吠え終わったバウニャンが静かに向き直る。
そして、その黒い爪を薙ぎ払った。
体が引き裂かれる。
いや、かろうじてつながっている。ちぎれてはいない。
だからなんだと言うのか。すぐに死が訪れるだろう。
世界から音が無くなっていく中、杖を構えたアルコが傍らに立っている。
いつのまにか、壁際まで吹き飛ばされていたらしい。
アルコの顔が歪み、口を大きく開け、何かを叫ぶ。
合体魔法……。
杖の先から赤い、いや赤と呼ぶには眩しすぎる、マグマのように白と赤が入り混じったような光が溢れる。
そして、一瞬の間をおいて――竜が炎を吐くような、巨大な炎が、回転し、ねじれながら吹き出した。
炎がバウニャンを包み込む。
もう、熱さも感じない。
ゆっくりと、目の前が暗くなっていく。




