季節外れの転校生がパンダな理由
藤原家にはパンダの呪いがかかっている。
物心つくころには、じいさんに嫌というほど聞かされていた与太話だ。
じいさんの話では、六代前のご先祖様がかの大陸に渡った際に、雌パンダに恨みを買ったのがきっかけらしい。
「藤原家の男は総じていい男に生まれる。本当に好きな女ができるまでは、順風満帆だろうさ。だがな…」
じいさんは、はあ、とため息をつく。
じいさんと亡くなったばあさんは見合い結婚だったらしい。情熱はなかったが、仲の良い夫婦だったと聞いている。
「本当に好きな女には、藤原家の男はパンダに見えんだよ。相手にも好きになってもらえて、思いが通じりゃあ本当の姿を見てもらえる。通じなけりゃずっとパンダだ」
ばかじゃねーの、じいちゃん。
小学生だった自分は鼻で笑った。
じいさんは本当に好きだった人とは結ばれることがなく、見合い結婚でばあさんと結ばれた。
恋が実らなかった負け惜しみだろう、とずっと思っていたのだ。
ちなみにパンダの呪いは『藤原家の男』限定なので、婿養子をもらって藤原家を継いだ母さんはパンダの呪いなんて知らない。知るまでもない、子どもだましの話だ。
そう。
じいさんが子どもをからかうお伽噺のはずだった。
あのときまでは。
「藤原くん、入って」
担任の先生に呼ばれて、扉をあける。
小二からイギリスで暮らしていたから、正直日本の文化は自信がない。芸能界や漫画のことはある程度予習してきたから、大丈夫だろうか。
少々不安に思いながらも、顔をあげる。
うぉお! イケメン! とあちこちから歓喜の声が出る。
『総じていい男』の藤原家の男だから、こういうのはいつどこに行っても同じだ。イギリスにいたときは日本人の容姿をさしてクールだとかミステリアスだとか言われることが多かった。
いい加減慣れもする。そして、周囲だって三日もすれば慣れてくれるものだ。
好意的に受け入れてもらえそうだとほっとする。
あいさつのことばを口にしながら、余所行きの微笑みを浮かべて教室を見渡す。
―――今でもその瞬間は、はっきりと思い出せる。
モノクロの映像がいきなり3Dになったような衝撃。
肩に当たってはねた茶色い髪。長めのまつ毛に縁どられた大きな瞳がこちらを見て、驚愕に見開かれた。
それは、有体に言えば、人生初めての一目惚れだった。
女の子の名前は、小山内明日美さん。
本と映画が好きな物静かな人だった。
僕の周りには騒がしい連中が集まる。芸能界の話、昨日あったバカな話、明日遊ぶ話。それはそれで楽しいものだが、小山内さんはそういう輪には入ってこない。
休み時間小山内さんは静かに本を読んでいたり、数人の友人と話していることが多い。声を上げて笑うこともあるが、僕の周りのようにバカ騒ぎはしない。
何を話しているのか耳をそばだててもあまり聞こえない。本には大抵手作りのブックカバーがかかっていて、何を読んでいるのかもわからない。
怪しまれないように小山内さんの机付近をうろついて、ようやく作者名を知ることができた。
書店で購入して読んでみれば、下心を十分に裏切るほど面白かった。思わず夜中までかけて一晩で読んでしまったほどだ。
「小山内さん、その作家のデビュー作読んだよ。最後のどんでん返しがすごく面白かった」
内心のウキウキをなんとか抑えながらごく自然に微笑みながら話しかけたのに、小山内さんの頬はヒクリとひきつる。
「……そう。良かったね」
ドン引き、というのが透け透けな態度で小山内さんの視線は本に戻る。
いつも、こうだ。
小山内さんは他の人には普通に接するのに僕にだけひきつった笑みを浮かべてくる。
うっかり肩が触れ合うことさえないように、大きく迂回してすれ違う。
そこまでして避けられる覚えがなかった。
そして、好きな子に全く相手にされないなんて思いもしない程度には天狗になっていた僕は、落ち込んだ。
「おう、健坊。なにしけたツラしてんだ」
「うるせーじじい。恋の悩みだよ」
縁側で爪を切るじいさんに吐き捨てれば、カラカラと笑われた。
「そりゃ大変だな。その子にはお前はパンダに見えてるだろうよ」
またそれか、と顔をしかめると、じいさんは急に真剣な顔になる。
「あれだろ、お前が話しかけると怯えたり、お前をえらい迂回してったりすんだろ」
「なんで知って…!」
ずばり言い当てられて慌てると、じいさんは鼻を鳴らす。
「こちとら経験ずみだ。お前のことがパンダに見えてっから、身体のでかさの分避けてくんだよ。怯えるのはあれだ。普段檻の中にいる動物がうろついてたら、そりゃ怖ぇだろ」
「……」
じいさんに今まで言われたパンダの話を思い出す。
小山内さんは、意味もなく誰かを嫌ったり、過度に避けたりするような人ではない。
嫌われるようなことをした覚えももちろんない。そもそも接点がないのだから。
納得のいかないことが、パンダの呪いですべて片付いてしまう気がした。
小山内さんには僕がパンダに見えているとしたら。
ひきつる理由も、迂回していく理由も、僕がどんなに体育で活躍しても生ぬるく見られる理由も、すべて。
―――僕がパンダに見えているから。
がっくりと肩を落とすと、じいさんが神妙な顔で頭を撫でてきた。
「あのな、健吾。俺も俺の親父もじいさんも、パンダの呪いは乗り越えられなかった。俺のじいさんなんざ、“変な獣がいる!”って大騒ぎされてな。その娘さんは病院送りになったらしい」
わからないでもない話だ。日本にパンダが来たのは1970年代だったはずだ。ひいひいじいさんの時代なんて、パンダを見たことのない人の方が多かったんじゃないだろうか。恋が叶わなかったひいひいじいさんも、そして何より病気扱いされた相手の娘さんがかわいそうすぎる。
「…呪いって、両想いになったら解けるんだろ」
「だが、俺が知る限り、解いた奴はいない。パンダのまんま好きになってもらうのが無理なんだろ」
なんだその無理ゲー。
怒りと悲しみがどっと押し寄せる。
僕が小山内さんのことを好きじゃなくなれば、パンダには見えなくなる。小山内さんが僕のことを好きになってくれれば、パンダには見えなくなる。僕の一方通行が解消されない限りは、ずっと白黒の毛玉だ。
「まだ十七の孫にそういう夢のないこと言うかぁ?」
「まあ、頑張れや。今はほれ、パンダブームだったか? ぐっずだかもたくさんあるじゃねえか。うまくいきゃパンダの健吾も好き、とか言ってもらえるかもしれねぇぞ」
どこまで本気なんだかわからない口ぶりでじいさんは笑った。
そこから、僕の真剣勝負が始まった。
伊達にモテ人生は送ってきていない。意識したことはなかったが、昔から周りには女の子がたくさんいた。その子たちが喜ぶこと、好きなことはたくさん知っている。
まずは小山内さんの連絡先を聞き出し、こまめにメールをした。
送る時間も考えて、内容も押しつけがましくないものを吟味。オープンな質問を心がけて、キャッチボールが続くようにした。
小山内さんは物静かな人だったが、好きなものには貪欲で、女子高生らしくはしゃぐ姿もあった。
一つ知る度に、小山内さんの魅力に胸がいっぱいになる。
僕が話しかけると警戒する様子はまだあるが、少しずつ慣れてきてくれたのを感じる。
なりふり構わない僕の様子に気づいた周囲から、冷やかされることも増えた。それすらも歓迎だ。小山内さんが僕のことを少しでも気にしてくれるきっかけになるなら。
ところが、だ。
「あり得ないよ」
橘さんに僕のことをどう思うか、付き合いたいと思わないか、と訊かれた小山内さんは、恥ずかしがる様子もなく即否定した。
あり得ない、と。
鈍器か何かで殴られたようなショックで、目の前が真っ白になった。
あり得ない。そう、そりゃそうだ。あり得ないよ。
だって小山内さんのつぶらな瞳にうつる僕は、パンダなんだ。
どこの誰がパンダと付き合いたいと思うだろう。
檻の中にいるから可愛いんだ。
イラストにデフォルメされてグッズになっているから可愛いんだ。
このまま頑張れば好きになってもらえるかもなんて。
なんて、勘違い。
死ぬほど恥ずかしい。
気づけば僕は全力で校舎を走り抜け、中庭のベンチに座っていた。
悔しくて、恥ずかしくて、涙が出てくる。
イケメンだなんて持て囃されて、パンダブームなんだしパンダも割と可愛いんじゃないかなんて思い上がって。
そんなわけがない。
どうやってパンダと恋愛できるっていうんだ。
「藤原くん?」
後ろから呼ばれて、びくっとしてしまう。
振り向けばバツの悪い顔をした小山内さんがいた。
慌ててぐいぐいと涙を拭う。
「あの、その。…ごめんね、ひどいこと言って」
もじもじとスカートを握って、小山内さんが謝ってきた。
違う。小山内さんは何もひどくない。
新しい涙がこみ上げるのをぐっと抑える。
「違う。いいんだ。わかってる。小山内さんは、僕のことパンダに見えてるんだろ」
涙混じりに言えば、小山内さんは目に見えてぎょっとした。
やっぱり、そうか。
小山内さんに恋をした、初めて出会ったあの日から、僕の姿はパンダだった。
なんて滑稽なんだろう。
「パンダがメール送ってきたり、遊びに行こうって誘ったり、あり得ないよな。僕だってそう思うよ、でも…」
ぐっと両手を握りしめる。
気持ち悪いと思われるかもしれない。
迷惑かもしれない。
でも、まだ諦めてたまるか。
だって好きなんだ。
「でも僕は小山内さんが好きなんだ!! いつか…いつか必ず、人になってみせるから…!」
どさくさに紛れてそっと触れた彼女の手は温かく、少しだけしっとりとしていた。
思えば僕は本気で恋をしたことがなかった。
優しく丁寧に接していれば可愛い子はたくさん周りに寄ってきてくれたし、二人きりで遊ぶよりも大勢でわいわいする方が楽しかった。
告白されて付き合ったことも何度もあったし、キスをすればドキドキだってした。
でも恋はそんなものじゃなかった。
小山内さんが笑う顔を他の男が見るのが嫌だ。
風でスカートが揺れるのを隠してしまいたい。
僕といないときに何をしているのか全部知りたい。
どろどろで汚い、みっともないこの感情が恋だと、初めて知った。
小山内さんが笑うと下がる眉も、考え事をしているとうめぼしになる顎も、怒ると赤くなる耳たぶも、誰にも見せたくない。
二人きりでずっといたい。
でも、ずっと二人きりだと色々とまずい。
僕だってお年頃だ。
グループデートや二人きりのデートを繰り返してじりじりと距離を縮めながら、何とか『明日美ちゃん』と呼べるようになった。
早すぎると軽薄だし、加減が本当に難しかった。
気づけば出会ってから三ヶ月が経とうとしていた。
「あー…。よりによって今日かよ」
ICカードを改札に触れされながら、足早に駆け抜ける。
今日は明日美ちゃんが楽しみにしていた映画を観に行く約束だった。
県内でも二ヶ所しか上映されないその映画を、彼女はずっと楽しみにしていた。
そんな日に限って電車が遅延とか…!
人混みの中をもどかしい思いで縫うように走る。
ほどなく、時計台の下に立つ明日美ちゃんが見えた。
ふんわりしたピンクのスカートに、ノースリーブの白シャツ。今日もニヤニヤするほど激かわいい。
「お待たせ。行こうか」
声をかけると、ちらりとこちらを見た明日美ちゃんはすぐに手元のスマホへ視線を落としてしまう。
「え、あのー。ねえねえ、聞いてる?」
もしかして、時間ぎりぎりに着いたから怒っているのだろうか。そっと肩に触れると、身をよじって避けられた。
地味に、でもざっくり傷ついて彼女の顔を見ると、低い低い声で言われる。
「……人を待ってるんで」
……人を待ってる?
何を言ってるんだ?
首をかしげかけて、一つの可能性が閃いた。
僕が目の前にいるのに、明日美ちゃんは僕を僕だとわからない。
「…もしかして、明日美ちゃん、僕のことが…」
それは。それはもしかして。
ここ数ヵ月の出来事が走馬灯のように駆け巡る。
込み上げてくる気持ちにブレーキがかけられない。
ぎゅっと抱きしめれば、腕の中で明日美ちゃんが震えた。
「…明日美ちゃん、僕だよ。健吾だよ」
そっと囁くと、腕の中でもがいていた明日美ちゃんが慌てて顔をあげた。
「うそ」
「本当だよ」
「今日観る予定の映画は」
「捨て子がサーカスで成功して全世界で活躍する話」
「私の好きなアイスは」
「チョコとマシュマロが入ったやつ。ナッツは多めが良いんだよね。もぐもぐしたいから」
ぽんぽんと飛び出す質問に、迷いなく答えていく。
迷うわけがない。ずっと見ていて、ずっと好きだったんだ。明日美ちゃんのことは、一つもこぼさないよう刻んできたんだ。
そして、僕がパンダに見えなくなったってことは。
胸がいっぱいで、涙が出そうだ。
何がパンダの呪いだこんちくしょう。
おかげでこんなに時間がかかった。泣き虫なわけじゃないのに、何度となく泣いた。
「…私が、一番好きな動物は」
かすれた声に顔をのぞきこめば、耳まで真っ赤になった明日美ちゃんが見上げてきていた。
「…もちろん、パンダだろ」
もう、君だけのパンダには会えないと思うけどね。
抱き締める温もりに、呪いがほどけていくのがわかった。