季節外れの転校生がパンダな件
生まれて十七年、ほとんど風邪らしい風邪など引いたことがなかった私が、三十九度近く熱を出した。
「明日美が熱ぅ?」
疑ってかかる母にドヤ顔で体温計を見せたのがたった二日前。
ところが、だ。
急性扁桃炎と医者に言われたのに、元々頑丈なつくりになっているためか、丸一日寝ていただけで解熱。喉の腫れもなくなってしまった。土日を挟んでいたので、結果、学校も金曜日を一日休んだだけ。
滅多に味わえない病人気分もあっという間だったな。
少しだけ残念な気分で教室の扉を開けると、何やら教室が騒がしい。
全体的にざわついているのはいつものことだが、特に女子が浮わついている気がする。
「おはよー! 治って良かったねぇ」
席につくと同時に、隣の席の若菜がひらひらと手を振る。
真っ黒な髪をきっちりポニーテールにして、シャツのボタンも一番上までとめて、タイも規則通り。清涼飲料水のCMにでも出られそうな、正統派美少女ってやつだ。
「ありがとー。あっという間に治ったわぁ。…ね、何かあったの? 橘さんがエライ興奮してるけど」
「ああ、転校生が今日来るらしくて。すっごいイケメンなんだってさ」
橘さんは目立つタイプの美人で、クラスでもリーダー的存在だ。お祭り好きだし、面倒見もいいし、テニス部のエースだし、生徒会の会計もやっている。
「へー。イケメン」
「あっはは! あっちゃん超てきとー!」
若菜が指をさして笑ってくるが、仕方ないだろう。
私はお祭り騒ぎは好きじゃないし、面倒見も良くないし、同年代の男には興味がない。
男はいぶし銀。ゴリマッチョは好きじゃないが、しぼられた身体に色気や脂がのっているのがいいのだ。
色気や脂がのってくるのは早くて二十代後半だろうか。
私がそんな彼らに恋愛対象として見てもらえるのは、あと何年後だろう。
「おーい、席つけー」
ガラリ、と勢い良く扉をあけて、担任の白川が入ってきた。
ざわざわはちっとも小さくならなかったが、何とか皆自分の席へと戻る。
「えー、皆お待ちかねの転校生を連れてきたぞー」
きゃあ! と黄色い悲鳴が上がる。何の気なしにそちらを見やれば、つやっつやのグロス、毛穴ゼロの肌、無造作に見えて計算しつくされた髪。まさに臨戦態勢だ。
「藤原くん、入って」
担任の呼び掛けに、からり、と控えめな音を立てて扉が開かれた。
橘さんのグロスのラメ具合に見とれていた私は、うおおっ! という悲鳴を超えた吠え声に慌てて顔を上げた。
「………は」
いやぁ! かっこいい! 萌える!!
クラスのあちこちから称賛の声が飛ぶ。びりびりと窓ガラスが震えるほどの大騒ぎだ。
―――その時の私の驚きは、きっと生涯誰にもわかってもらえないだろう。
大きな大きな波が周囲でうねっているのに、私だけ放り出された途方もない孤独感。
目の前にあるものが信じられない、それをわかってもらえない驚愕を。
「すっごいねー、あれならオジ専のあっちゃんもキュンとするんじゃないの?」
「……キュン?」
若菜が身を乗り出して話しかけてきたが、私は転校生から視線を外すことができない。呼吸も何となく上手くいかない。
なに、あれ。
なんで誰も突っ込まない。
かっこいいって、何が。
何をもって格好がいいのか。
「藤原健吾です。よろしくお願いします」
親の仕事の都合で長く海外で暮らしていたので、日本の文化を色々教えてほしい。
言いながらぐっと口角をあげて微笑んでからぺこりと頭を下げたのは、
どこからどうみてもパンダだった。
「今日もすごいね、藤原くん」
「………そうだね」
私の厚焼き玉子と、若菜のアスパラベーコン巻きをとりかえっこしながら、遠くのグループを見る。
中心にいるのは、言わずもがな藤原くん。
囲んでいるのは女子が多いが、男子も結構いる。はじめは物珍しさで囲まれていた藤原くんだが、人あたりが良く話題も豊富らしく今ではすっかりクラスの中心になっていた。
衝撃の出会いから早二週間。
それとなく色んな人に聞いてみたが、藤原くんがパンダに見えているのは、私だけのようだ。若菜に詳しく描写してもらったところ、柔らかい焦げ茶の髪に、ぱっちりとした大きめの瞳。身長は百八十には足りないくらい、だそうだ。
体長二メートルをゆうに超えるであろうジャイアントパンダは私にしか見えない。
そして、みんなに見えている藤原くんを私は見ることができない。
ちなみに出会ったその日に眼科へ行ったが、両眼とも異常なしだった。納得はいかなかったものの、見えるものを正直に言ったら別の病院を勧められそうで、誰にも言うことはできていない。
「あっちゃんさぁ、藤原くんのこと嫌いなの?」
「………いや、別にそういうわけではない」
むしろパンダは大好きだ。
動物園に行ったら、一番長く足を止めて見るし、実はグッズも集めていたりする。
あの生きる気のなさに癒されるし、よく見ると獰猛な目つきをしているところも良い。
だが、同じ教室でパンダと机を並べるとなると話は別だ。
小さい椅子にこんもりとしたパンダの尻が乗っている様や、器用に箸を使って食事をとる姿だとか(ちなみに笹じゃなかった)、バレーの試合でリベロをつとめる姿は、正直シュールすぎる。
パンダはのんびり笹でも食べて、ゆるみきった昼寝姿を見せてこそだと思うのだ。
きびきびと動き、颯爽とごみ捨てに行き、喧嘩の仲裁に入るパンダなんて、誰が見たい。
「なんだよ、それ!」
笑い声とともに、藤原くんが隣の男子を軽く叩く。
私には、パンダがぶっとい腕を振り上げ、人間の肩へずどんと落としたように見える。
ああ、シュール。ここは動物王国じゃない。パンダが闊歩していいところじゃない。頭痛すら覚えて、こめかみを揉む。
「ねえ、小山内さん」
苦い顔で長考に入っていたせいで、気づいたときには目の前に白黒の大きな物体が立ち塞がっていた。
ヒッ、と息を飲みかけて、いやいや、と必死にブレーキをかける。
違う違う。これはパンダじゃない。クラスメイト。同じ十七歳のホモサピエンス(多分)。
ごくり、と口の中のアスパラベーコンを飲み込み、箸を置く。
「なに、藤原くん」
「今日みんなでカラオケ行こうって言ってるんだけど、小山内さんと木村さんも行かないかなって」
ぐあっと歯を剥き出しにして、パンダがカラオケへ誘ってくる。
多分、きっと笑っているんだろう。でも、私には威嚇してるようにしか見えない。笹は硬いからね。なかなか良い歯してる。
カラオケ自体苦手だし、マイク片手に盛り上がるパンダも見たくなかったので、どうやって断ろうか迷っていると先に若菜が口を開く。
「ごめーん、私今日バイトだから」
「あ、木村さん駅前の本屋でバイトしてるんだったっけ」
そうそう、と応じながら若菜がこちらを見る。
「あっちゃんも今日は用事があるから、無理だよね?」
「……うん。そう。ごめん」
自分で理由をひねり出さないで済んだことにホッとする。
私が口にはせずとも藤原くんを避けていることに気づいていて、気を回してくれたのだろう。さすが若菜。あとで飴をあげよう。
「そっかぁ…。小山内さんもか。残念。また行こうね」
パンダに眉毛はないので、細かな表情はわからない。
それでもどことなく悲しそうな姿に、チクリと胸が痛んだ。
あれから藤原くんはことあるごとに私に話しかけてくるようになった。
グループごとで交換、という非常に断りにくい状況で致し方なく連絡先を交換してからは二日に一度はメールがくる。迷惑、とも言えない絶妙な頻度。その上、狙い済ましたように暇な時間に送られてくる。
夕焼けが綺麗、という写真つきのものもあれば、明日の小テストの範囲を教えて、というものもあった。デコメが苦手な私でも、返しやすいものばかりで助かる。
…幸か不幸か、パンダがスマホを操作してメールを作成している姿は、まだ肉眼では見ていない。
指とか、どうなってんだろ。
誰とでも仲良くしている藤原くんだが、女子に頻繁にメールを送ったり話しかけたりするのは珍しいらしい。
藤原くんとのやりとりを特に誰かに話したことはなかったが、どこからかあっという間に噂になった。
「ねーねー、明日美ちゃんってさ。藤原くんのことどう思ってるの?」
とある放課後、橘さんのグループに呼び止められた。
教室には少なくない人が残っているが、見て見ぬふり、という様子だ。
若菜は日直だったので、職員室へ行ってしまっている。
「…どうって言われても」
動物園にいるパンダより毛並みが綺麗で柔らかそうだな、とか。裸に見えるけど服はどうなってるのかな、とか。そもそも何でパンダなのかな、とか。
「付き合いたいなーとか、ないの?」
「え、えー? いやいや。だってさ。ないでしょ。可愛いなとは思うよ。でもあり得ないよ。そういう対象としては見られない」
バサバサッ、と何かが落ちる音がして振り向けば、そこには藤原くんがいた。
「…あ、…ご、ごめん。聞くつもりじゃ…」
わなわなと震えたパンダは落ちたプリントはそのままに、猛然と走り出した。
急いでいても二足歩行、とぼんやりそれを眺めていると橘さんが叫ぶ。
「ちょっと! なにボーッとしてんの! 追いかけて!!」
「え、は?」
何のことかと呆然としているうちに、グイグイと教室を追い出されてしまう。
なぜ私が、としばし廊下で立ち尽くしたが、あんなにモテる年頃の男子が対象外宣言をされたのだから、さぞ傷ついただろう。
もう少しことばを選んだ方が良かったかな。
二人の間の壁を乗り越えられない、とか。
体格差がだいぶ厳しい、とか。
見つめているだけで満たされる、とか。
うんうん唸りながら、すれ違う人に藤原くんを見なかったか聞いていく。
探しはじめて五分。クラスのみならず有名人な藤原くんは、すぐ見つかった。
中庭のベンチに座り、項垂れている、ように見える。だってパンダは猫背だし。
「あのー、藤原くん?」
声をかけると、びくりとパンダの肩らしきところが震えた。
白と黒の塊が、ゆっくりと方向を変えてこちらを向く。
「お…、小山内さん…」
「……泣いてるの?」
パンダの表情はとてもわかりにくい。でも、目尻を濡らすものがあれば、さすがにわかる。
「あの、その。…ごめんね、ひどいこと言って」
慌てて謝れば、ぶるぶると藤原くんは首を振る。
「違う。いいんだ。わかってる。小山内さんは、僕のことパンダに見えてるんだろ」
涙混じりのことばに、ぎょっとしてしまう。
なぜそれを。クラスメイトがパンダに見える、なんて口にしたこともないのに。
「パンダがメール送ってきたり、遊びに行こうって誘ったり、あり得ないよな。僕だってそう思うよ、でも…」
膝の上で、巨大なこぶしがぎゅうっと握られる。
「でも僕は小山内さんが好きなんだ!! いつか…いつか必ず、人になってみせるから…!」
避けたりしないで…!
―――衝撃のことばとともにすがりついてきたその手は、思ったよりも柔らかい肉球と毛皮でできていた。
あの涙のカミングアウトから、三ヶ月。
私は藤原くんの強い希望もあり、彼を避けることをやめた。
数人で遊びに行ったり、場合によっては二人で出かけることもあり、すっかりパンダが横にいることは気にならなくなった。
それどころか、藤原くんはとても優しいし話も上手で趣味も合った。やや気弱なところもあるが、人のいけないところはいけないと言える、手間を惜しまない人だった。
私は、どちらかと言えば面倒がって流してしまったり、傷つけたくないと逃げることが多いから、とても尊敬する。
魚を綺麗に食べられるんだな、とか。
倒れていた誰かの自転車をそっと戻してあげたりとか。
後ろの子のために、黒板を写すときはちょっと左に寄っているのだとか。
一つ一つは小さなことだが、日に日に藤原くんへの好意は積もる。
藤原くんはもの好きにも、まだ私のことを好いてくれているらしい。それも、異性に対する意味で。
「明日美ちゃんが好きだから、人になる!!」
黒目がちの目をキラキラさせながら、藤原くんが口角をあげる。
左手にはチョコミントとストロベリーチーズのダブルアイス。
私は、ありがとうと言いながら、マシュマロとチョコのアイスを食べる。
何を、とか、どうやって、とか。
そもそもなぜパンダ、とか聞くことはできなかった。
その日は、藤原くんと映画を観に行く約束だった。
マイナーな映画だったので、昼間は一回しか上映されない。逃すわけにはいかなかったので少し早めに待ち合わせ場所へ行った。
エスカレーター下の時計台は、いつも待ち合わせの人であふれている。
でも、藤原くんのことは、どんな人混みでも見つける自信がある。
パンダだし。
たくさんの人が行き交う中で、ぼんやりと考える。
藤原くんとこうして会うようになって、彼の人となりを知って、近頃否応もなく気持ちが揺さぶられている。
もう、パンダでもいいじゃないかと。
でもその度、そんなわけなかろう、ともう一人の私が待ったをかける。
藤原くんをパンダと認識しているのは、視覚だけじゃない。触覚だってパンダと認識しているのだ。
もし、思いが通じて付き合うことにでもなれば、キスだってするだろう。遠からずそれ以上先へも進むだろう。
そこまで想像すると、無理、と泣きたくなる。
異類婚姻譚はお話で読むからいいのだ。しっぽと耳だけとかなら、まだいいのだ。
どうやってあの毛玉と愛し合ったらいいのだろう。
でも。
もしも、こんな気持ちごと藤原くんが受け止めてくれるのなら。
いや、でもやっぱ無理。
ぐるぐると考えていると、急に声をかけられた。
「お待たせ。行こうか」
ちらりと顔を上げれば、すらりと背の高い男の人が立っていた。同い年くらいだろうか。甘く整った顔には優しい笑みが浮かんでいて、アイドルグループにいても違和感がないような容姿だ。
…不自由してなさそうなのに、物好きだな。
二秒ほど男性の顔を見てから、手元のスマホへ目を落とす。
藤原くん、遅いな。いつもなら時間前には着いているのに、もう待ち合わせ時間だ。
「え、あのー。ねえねえ、聞いてる?」
馴れ馴れしくもナンパ男は肩に触れてきた。
過剰に見えないように身をよじって避ける。
「……人を待ってるんで」
なるべく低い声で言うと、男性がポカンと口を開けた。
イケメンなのに隙だらけだな。
「…もしかして、明日美ちゃん、僕のことが…」
「…は? なんで名前を…っ」
いきなりイケメンが抱きついてきたため、ぐぇっと変な音が口から出た。
手足をばたつかせるが、身長差もあってびくともしない。
変態! 痴漢!! ただしイケメンに限るが有効だと思うなよ!!
その叫びは、とうとう音にならなかった。
「…明日美ちゃん、僕だよ。健吾だよ」
信じられない思いでイケメンの顔を見ると、大きめの瞳がうるうると揺らいでいる。
「うそ」
「本当だよ」
眉が下がって、長いまつげがプルプルと震えている。
ああ、私は、この人を知っている。
ずっとそばにいた、気がする。
「今日観る予定の映画は」
「捨て子がサーカスで成功して全世界で活躍する話」
「私の好きなアイスは」
「チョコとマシュマロが入ったやつ。ナッツは多めが良いんだよね。もぐもぐしたいから」
次々と訊くが、淀みなく答えられてしまう。
白と黒の面影は、どこにもない。
でも、この人は。
「…私が、一番好きな動物は」
これが、愛の告白だって、一体誰が気づくだろう。
気づくことができるのは、きっと一人だけ。
見上げるイケメンが一瞬目を見開いて、本当にうれしそうに微笑んだ。
顔が熱くて仕方がないから、きっと真っ赤だと思う。
「…もちろん、パンダだろ」
きゅっとさらに抱きしめられて、優しい声が熱い耳に落ちてきた。