第五話
――最近、宮野薫が変わった。
噂好きのこの学校で、薫はそんな噂を何度となく耳にしてきた。
そしてその噂が程なくして、「宮野薫は、櫻井綾奈のことが好きらしい」と形を変えたことも知っていた。
けれどそれに異論を申し立てるつもりなどないし、咎めるつもりもない。
「綾奈、ちゃん」
この日の朝も、薫は綾奈へと声をかける。
最初は、大げさなほどに周囲は驚いていた。
薫はずっと寡黙を保ち、決して自身から他人へと接しようとすることなど無かったのだから、無理もないのだが。
けれど周囲が驚いていたのも初めの数日だけで、今はもういちいち騒ぎ出す者はいない。
「あっ。おはよう、宮野くん」
「おはよう」
綾奈と交わす、なんでもない短い会話。
けれどこれまで、一度として他人と交わしたことはなかったものだ。
薫の心は喜びに包まれ、自然と表情も和らぐ。
まだ、笑顔を浮かべることはできないけれど――。
不思議なことだ。
以前まであんなにも「普通の人間みたいに、人を好きになってはいけないと」、得も言われぬ罪悪感のもと意地を張っていたというのに。
一度自分の気持ちを認めてしまうと、そんな罪悪感なんてものはあっさりと消え去ってしまった。
代わりに溢れ出すのは、歯止めのきかない欲望ばかり。
まるで滞っていた水が、一度に流れだしたかのように。
彼女が好きで、好きすぎて仕方がない。
好きで好きで好きで好きでたまらない。
目が合う。
言葉を交わす。
それを何度も繰り返しているというだけのことなのに嬉しくて、そしてやがて、それだけでは物足りなくなって贅沢になってゆく。
もっと、もっと――と、更なる快楽を求めてしまう。
それでも。
ただひとり、薄暗い帰路を歩いていると――彼女と接していた時間は、まるで夢のように思えてくる。
あの甘美な瞬間は、現実のものだったのだろうか。
それとも淡い幻想だったのかどうかさえ判らない、一抹の不安に駆られる。
けれど、それを確かめる術などない。
日が暮れて、朝がやって来るのを待つしか無い。
明日が来るのが。
彼女と話をできる明日が来るのが、とても待ち遠しかった。
――けれどそれまでの時間は、薫にとってはひどく永く感じられた。
帰りたくない、帰りたくない、と身体中で叫んで、それでも帰ってきてしまった我が家。
「どうして帰ってきたんだ!」
リビングのドアを開けると同時、暴れる父の口から、大きく叫び声が張り上げられた。
「っ」
薫はびくり、と身を震わせてしまう。
「お前はいらない!!! 薫、お前はいらないッ!!!!」
そんな薫に更に苛立ったのか、父は呪文のように叫びながら、革の鞄を薫へと投げつける。
「……ごめん、なさい」
投げられた鞄は薫の頬へと命中した。
薫はひりひりと痛む頬を抑えながら、項垂れる。
いつもなら後は、好き勝手暴れる父の酔いが覚めてくれるのをじっと待つだけだった。
けれど今日は、普段に増して父の虫の居所が悪かったらしい。
「なあ、死んでくれよ!!!! どうしてお前みたいのが生まれてきたんだっ!!!!」
父はさらに叫びを上げ、薫の背を思い切り張り倒した。
「……」
床に叩きつけられた薫は、無表情のままでどこか遠くに、すぐ目の前の父を見つめた。
――その何も語らない瞳が、父の苛立ちヒートアップさせる。
「俺はなぁ!!! お前のことが憎くて憎くて憎くて仕方がないよ!!!!!」
獣のような叫びが、またひとつ。
何度も肩を蹴られながら、薫は痛みの中でそっと瞳を閉じた。
暗い夜だ。
そして、とてつもなく長い夜。
この夜が更けることなどありはしない――そんな気もしてくる。
けれどきっと、あと少しで、暖かく眩しい朝日がやって来る。
じっと耐えていれば、こんな長い夜も終わりを告げる刻が来る。
大好きなあの子に会える朝が、やってくる。
会いたい。
早く会いたい。
大好きな可愛いあの子に会って、色々なことを話すんだ。
大好きな、あの子に。
薫は暴力を受けるたびに、更に強く綾奈を求める。
澱んだ欲望は止め処なく、ただただ薫の心から溢れ続けていた。




