第ニ話
プリントをぶちまけたあの少女――櫻井綾奈は、陸上部に所属しているらしい。
一年生ながらも確かな実力を備えており、期待のエースだと言う。
そして、あのとき綾奈と一緒にいた青年の名は高城智也。
彼もまた陸上部に所属しており、綾奈とは幼馴染の間柄である。
他人とは関わりを持たない薫でも、そんな情報は自然と耳に入ってきた。
別に地獄耳な訳ではない。
単に、噂好きな人間がクラスに多いだけなのだ。
――新しいクラスになって、一ヶ月と少しが経った五月のある朝。
最近は初夏らしく、ほのかに暑い日が続いていた。
春の季節は、もうずっと昔のことのように感じられる。
「……あつい」
座席に着いて担任の到着を待ちながら、薫は額に浮かんだ汗粒を拭う。
最近は、どの薬局へ行っても日焼け止めが目立つ位置に配置されている。
あまり日焼けしない体質の薫には、関係のないことではあるが。
「……」
顕になっている己の手首を、じっと見つめる。
それは自分で見ても驚くほど白く、透き通るようだった。
「おはよ、宮野くんっ」
そこに智也と共に姿を現した綾奈は、薫とは対照的に健康的な小麦色の肌をしていた。
「最近暑いよね、本当。あたし、いっぱい日焼け止め塗ってるのにすぐ焼けちゃって」
座席に着くより前に、綾奈はいつも薫の席へ寄る。休み時間も大抵そうだ。
話す相手なら持ち腐れるほどいるくせに、よく薫の席へやってくる。
単に人懐こい性格であるだけなのか、以前プリントを拾ってもらった借りを返しているつもりなのか――真相は明らかでないが。
「けど、宮野くんってすごい肌白いよね。一年中冬の気温の中で過ごしてるみたい。なんか美容グッズでも使ってるの? 高級な日焼け止めを愛用してるとか」
「……………違うよ。こういう、体質なんだ」
ペラペラと喋る綾奈に、薫は俯いたまま首を横に振った。
「体質かあ、いいなーうらやましい! ホント、あたしと交換してほしいくら……」
「――綾奈」
綾奈の弾丸トークを制したのは、冷静な智也の言葉だった。
「お前はギャーギャー喋りすぎなんだよ。困ってるだろ、宮野も」
ノートで軽く頭を叩いてきた智也に、綾奈は焦って反論した。
「ぎゃ、ギャーギャーなんて喋ってないけどなあ!」
「喋ってんだろ。ごめんな、宮野。毎日毎日、こいつの話に付き合わされて――大変だろ」
智也はため息を吐き、薫へと苦笑を向ける。
「ううん」
薫は、小さくそう否定することが精一杯だった。
まるで保護者のように、「ほら、席着くぞ」と綾奈を座席へと連れていく智也の背をぼんやりと見つめ、薫は机の上に項垂れた。
この席には、よく陽が当たる。
ずっとこうしていると、溶けてしまいそうだ。
「……どういうつもり、なの」
机の上に頬をを寝かせながら、薫はぽつりと呟く。
綾奈は、知り合ってから一ヶ月経っても、飽きずにずっと話しかけてくる。
対する自分は、ロボットのように「はい」か「いいえ」しか応えないことがほとんどなのに。
どうしたらいいのか、わからなかった。
今まで、こうして接してくれる人間なんて――自分を、普通の人間として見てくれる人間なんて、一人として存在しなかったのだから。
物珍しさ故に、興味本位で話しかけてくる人間ならまれにいたけれど。
……きっと、彼女もそうなのだ。
物珍しさ故に、からかっているだけ。
あの弾けるような笑顔も、彼女の口から堰止まることなく溢れていく楽しい話題も、きっと偽りのもの。本心のものではない。
だから――からかわれているだけなのだから、少しも喜んでしてはいけない。
ずっと孤独な人生。
それが自分に与えられた宿命で、一番似合っているのだ。抗う理由などあるだろうか。
――そう、強く思っているはずなのに。
心の片隅には、もっと彼女と接したいと願っている自分がいて。
薫は、それがたまらなく嫌だった。




