プロローグ
『お前なんか生まれてこなきゃよかったんだよ!!』
父の声は、とてもとても冷たかった。
たださえ真っ暗な闇に、さらに暗黒を落としてゆくような。
『お前は何で生きてんだよ? 何も出来ない癖して、俺が稼いだ金はどんどん喰らっていってよぉ!!! 頼むから消えてくれよ!! なあ!』
酒に酔った父は、真っ赤な顔で何枚もの皿を割っていく。
耳を劈く音が卒然と生まれ、それを追うようにしてまた生まれる。
『なあ、聞けよ。俺はな……』
父はタバコを咥え、ライターに火を点けながら言った。
『俺はお前が大嫌いだよ。薫』
――その笑顔は、ひどく歪んでいた。
「……いやだ……っ!!」
――午前七時。
叫び声と共に、薫はハッと夢から覚めた。
「……っ……、……」
運動をした後のように、息が切れる。
胸にそっと手を当てると、不規則に鼓動を刻んでいた。
シーツの生暖かさがいやに気持ち悪くて、薫はベッドから降りて長いため息を吐く。
静かな空間に唯一響いている時計の秒針は、鬱陶しい。
まるで、責め立てられているような気分になるから。
――いやな夢を見た。
すごく、すごくいやな夢を。
暴れる父。
為す術もなく、父の乱暴にじっと耐えていることしかできない自分。
幼い頃から、何度も味わってきた絶望。
頬に伝う生温い涙を指先で拭い、薫は目元まで下りてきた前髪をかき上げた。
七時十五分。
のろのろとした所作でありながらも制服に着替え終え、薫はリビングに出た。
そこに父の姿はない。
いつものことだ。
どこかの女のところにいるか、酔いつぶれているのだろう。
だけど寂しいとは思わない。
それよりも父がここにいないことに、薫はとても安心していた。
この世界は真っ暗だ。
寂光を簡単に呑みこんでしまうくらいに真っ暗で、どうしようもなく広い。
だけど、この広い世界に存在するのは自分だけ。ただひとりだけ。自分を映す鏡すらない。どこかへ行きたいと思ったって、右も左もわからない世界じゃどこにだって行けやしない。
そう。この世界は、誰とも共有できない孤独な世界なのだ。
どんなに大声で誰かの名を呼んでも、応えてくれる声はない――ひとりぼっちの世界。
そして、この身が朽ちるまで、きっとずっと続いていく世界。
(……僕は死ぬときまで、ずっとひとりぼっちのままなんだ)
薫からは、自然と自嘲的な笑みがこぼれる。
――朝食も終わり、七時四十分。
「……いってきます、お母さん」
薫は仏壇に一声かけると、鞄を担いで家を出た。




