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―9―


 しずくと食事をした日から、和奏の脳内に新たな疑問が芽生える事になった。

 ――自分はあの男を好きなのか?

 いやいやそんな。まさか幾ら何でも流石にそれは。と自らに言い聞かせるが、正直な所よく分からなくなっていた。考えるという行為自体がそもそも無駄であるその事象について、それでも考えずにいられない。

 しかし、もしも斗真を好きだとして、それを彼に悟られてはならない。悟られたらそれが最後、契約が破棄になってしまうかも知れない。好意を抱く女を駆逐している斗真にとって、仮に和奏も好意を抱くようになったとしたら、それは駆逐すべき他の女たちと何も変わらない相手になってしまうのだから。


 そんな或る日。

 いつものように共に夕食に、と会社を出た斗真と和奏の前に、いつもの日常では居ない筈の人物がやってきた。


「何か食べたいものはあるか?」

「うーん、そうですねぇ」

 そんな事を話しながら、いつものように駐車場へと向かう。社内で二人が付き合っているという噂が流れてからしばらくは、やや周囲の視線が気になってはいたが、数日過ぎると皆も飽きたらしくそんなに注目を浴びなくなってきた。そんなものだろう。

「あ、じゃあ最初に連れてってくれたイタリアンのお店がいいです」

「あそこか。分かっ……」

 不意に斗真が言葉と共に歩みを止める。

 二人の目の前に、セーラー服の少女とスーツ姿の男が立っていた。どういう関係性かは分からないが、何やら慣れた様子で話をしているので知り合いなのだろう。

 桜を模した校章バッジのついたセーラー服は、お嬢様学校で有名な桜林(おうりん)女学院のものだ。陶磁器のような白い肌と対照的な長く艶やかな黒髪を持つ少女は、ぱっちりとした黒目がちな瞳を長い睫毛で彩り、可憐な雰囲気を纏っていた。

「わ、可愛い子……って、斗真さん?」

 隣の男が表情を固くしたのに気付き、和奏は首を傾げる。

「とうとう、おいでなすったか」

 諦めにも似たトーンの呟きに、和奏は更に不思議そうな顔をした。

 ――おいでなすった? 誰が?

 不意に、セーラー服の少女がこちらを見た。その表情が見る見る内に明るくなっていく。彼女はプリーツスカートの裾を翻しながら、和奏たちの方に向かい小走りに駆けてきた。

「斗真くん!」

 そして呼んだ。渋い顔をする眼鏡の男の名を。

「えっ?」

 その甘い声に和奏は思わず隣の男を見上げた。トウマクン、と発音されたその名前は、間違いなくこの男のものだ。つまり、お嬢様学校の制服に身を包んだこの美少女は、斗真の知り合いという事になる。

 斗真は一つ小さな溜息をつくと、口を開いた。

都子(みやこ)……」

「近くまで寄ったから来ちゃった。会えて良かったわ!」

 朗らかに笑いながら、一片の邪気も無いようなトーンで言う少女は、都子という名前らしい。当然のように下の名前を呼び捨てた斗真とこの少女は、一体どのような関係なのだろうか。

 訝しがる和奏に気付き、都子と呼ばれた少女はぺこりと頭を下げた。その動きに合わせて、艶やかな黒髪がはらりと肩から流れる。

「会社の方かしら。初めまして、国峰都子と申します」


 ――クニミネ?


 その単語に、和奏の脳内に浮かぶ疑問符が次々に数を増していった。同じ苗字という事はもしや兄妹なのだろうか。しかし、彼に妹が居るという話は聞いた事が無い。自分が聞いていないだけかも知れないが、記憶違いが無ければ確か彼は一人っ子だった筈だ。

 和奏が一人で状況を整理しようとあれこれ考えを巡らせつつ、礼儀として自分も自己紹介を返さなければ、と口を開きかけた所で、斗真がそれを制するように一歩前に出た。

「都子」

「なぁに、斗真くん」

「こちら、羽山和奏さん。会社の部下で――俺の彼女だ」

 その斗真の言葉を聞いた瞬間、都子の表情がピシリと凍りついた。

「……え?」

 時間までも凍りついたようだった。都子が斗真と和奏の顔を交互に見遣り、そして――笑う。

「ま、またまた。斗真くんってば嫌だ、面白くないわよその冗談。そんな事言ったらそちらの方にも失礼でしょう?」

「冗談じゃないんだ。今、将来も視野に入れて、彼女と付き合っている」

 その言葉に今度は和奏の表情が凍りつく。今この男は、将来も視野に入れて、と言わなかっただろうか。契約で恋人なのは構わないが、契約で婚約にまで話が発展すると流石に諸々面倒臭い事になるのではなかろうか。

 しかし現状、和奏に発言権は無さそうだ。色々と突っ込みを入れたい気持ちをグッと堪え、大人しく斗真の一歩後ろで黙ったままでいる事にする。都子の後ろに控えているスーツの男も、困ったような顔をしながら黙ったままでいた。

「……み」

 か細い声が聞こえた。声の主であると思われる都子は、その小さな手でぎゅっと拳を作り、ぷるぷると震わせている。

「認めないわ! わたし、そんなの絶対に認めないんだからっ!」

 そして高らかに宣言した彼女は、踵を返すとそのまま走り去っていった。現状を冷静に把握出来そうもない今は、一旦帰るという選択肢が一番適したものではあるのだろうが、しかし「認めない」とは穏やかでない事を言う。

 都子が走っていったのを見て、後ろに居たスーツの男も慌てて踵を返した。

「あっ、お嬢様! すみません斗真様、失礼致します!」

 ――お嬢様? 斗真様?

 スーツの男は斗真に頭を下げ、都子の後を追うように駆けていく。

 残された斗真は深い溜息をつき、和奏は呆然として走り去る彼らを見ていた。会社付近ではあるが、関係者には見られていなかったようだ。

「あの……今の彼女、国峰って……?」

 やや固まった表情のまま隣の男に問い掛ける。彼は「頭痛がする」と小さくぼやいてから、眼鏡を押し上げながら言った。

「イトコなんだ。国峰本家の」


 ◆ ◇ ◆


「一番避けたかったのはあいつなんだ」

「……はあ」

 連れられたイタリアンレストランで向かい合って座った斗真は、何だか妙に疲れた顔をしていた。

 国峰都子。齢十八の彼女は斗真のイトコだった。国峰本家のご令嬢ならば、お嬢様学校と名高い桜林女学院の制服を着ていたのも納得がいく。国峰の名に恥じぬ才色兼備である彼女は、昔からずっと斗真と結婚すると息巻いていたのだという。

「あの、すみません。ちょっと質問が」

「何だ」

「一番最初のご飯デートの時、興信所使われてるかも、みたいな事言ってましたよね? もしかしてそれって……」

「都子だ」

「デスヨネー」

 思わずカタコトになってしまう。国峰グループ本家のお嬢様ともなれば、興信所ぐらいバンバン使っていても何もおかしくはない。しかし、都子が和奏の存在を知らなかったという辺りで、結果的に興信所は使っていなかったようだが。

「でも、そもそもどうしてあんな状況になったんですか」

「どうして、と問われると返答に詰まる所ではあるが……」

 そして彼が話した事は、至極簡潔な話だった。それは昔々の物語。まだ三歳だった都子と中学生だった斗真の、他愛のない日常の会話。


 ――みやこ、とーまくんのおよめさんになる!

 ――そうだな、都子が大きくなったらな。

 ――うん! はやくおおきくなるから、そしたらとーまくん、みやこをおよめさんにしてね!


「そんな事言ったんですか!」

「三歳の子供の言う事は流石に無碍にはしないで同調するさ。当時の俺はまだ中学生だったが、昔から慈悲深く優しさに満ち溢れた男だったんでな」

「……嘘ばっか」

「何か言ったか?」

「あっ、いいえ! 何でもありませんとも!」

「まあそんな冗談はさて置き」

 ――冗談だったのか。

 やはりこの男の冗談は冗談に聞こえない。もっとおどけて言うとか、何か別の手法を覚えた方がいいのではないだろうか、と和奏は思う。

「子供の『お嫁さんになる』発言なんて、年を取れば普通は風化していくものだろう。だが、都子はそうならなかった」

 確かに、幼少の頃のそんな発言をいつまでも引き摺る人間は居ない。否、もしかしたら居るのかも知れないが、それはとても珍しい分類としてカテゴライズされるべきだろう。それぐらいに希少な存在だ。

 その希少な存在が、都子だった。

「今はまだあいつも高校生だからと言って何とか抑えているが、このままだと高校を卒業したら、本格的に婚約に向けて動き出しかねない。それを阻止したかったんだ」

「婚約って……そんなの嫌だって言えばいい話じゃないですか」

「出来るだけ波風は立てたくないんだ。極力、都子の方から諦めるように仕向けたい」

 溜息混じりにそう言った斗真の声には、疲労の色の他に憐憫と僅かの申し訳無さが滲んでいるように聞こえた。

 何か事情があるのだろうか。自分から「嫌だ」と言い出せない事情が。向こうが本家の人間、斗真が分家の人間だという以外にも、どうやら他に理由がありそうだ。

「……これは、俺の責任でもあるからな」

 苦笑しながらそう言った彼の言葉の意味は、その時の和奏にはまだ分からなかった。




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