―7―
『詳しい事は明日話すが、今日羽山と付き合っていると公言した。明日からそれらしく振る舞うように』
そんなメールが届き、自宅で夕飯のオムライスを今まさに口に運ばんとしていた和奏は、スプーンを手から落としてしまった。乾いた音が響く。
「は……?」
携帯のディスプレイに向かい一人呟く。当然の事ながら返事は無い。
どういう事ですか、と返信を打ちかけて、和奏はそれを消した。詳しい事は明日話す、と向こうが言っている以上、きっと今訊いても斗真は話してくれないだろう。
分かりました、と物分かりの良さそうな無難な返信をして、改めてオムライスにスプーンを突き立てる。ふわふわのタンポポオムライスは、卵二つに生クリームとバターたっぷりの高カロリー食だ。このオムライスはアキラの好物で、何となく彼の事を思い出すから最近作るのを控えていたのだが、あれから一ヶ月以上経ち傷も癒えてきたのでそろそろ作ってみるか、と思い立ち久々に作った物だった。
つい数秒前までウキウキしながらこのオムライスを食べようとしていた和奏だが、今のメールで、先程までのその浮かれた気持ちが何処かへ飛んで行ってしまった。
付き合っていると公言した?
一体誰に?
どういう状況で?
そもそも何故今このタイミングで?
考え出すと気になって気になって止まらない。考えた所で恐らくあまり意味は無いし、最初からいずれこうなる事は分かっていたのだから、もうどうしようもない訳だが。
「それらしく振る舞う、って言ってもなぁ……」
どうやったら『それらしく』なるのだろうか。付き合っているのか、と問われたらそれを肯定する程度でいいのか。
「……まあいっか。なるようになる。うん」
自らに言い聞かせるように呟き、スプーンに掬ったふわふわ卵とチキンライスを纏めて口に放り込む。美味だ。カロリーを気にしなければ最高の食べ物だ。
何故、世の中の美味い物は揃いも揃って高カロリーなのだろうか。そんなどうでもいい事に、和奏は意識的に想いを馳せる事にする。そうでもしないと、斗真の事ばかりを考えてしまいそうだったからだ。今は考えても仕方のない事なのだから、一度、意識的に脳内から追い出すようにしなければ。折角の上出来オムライスを、余計な事を考えながら食べて堪能出来ないのは勿体ない。
テレビをつけると丁度グルメ番組がやっていた。焼き肉を頬張るタレントの満足そうな笑顔を見ながら、やはり高カロリー食は美味いものなのだと和奏は改めて考え直した。
◆ ◇ ◆
「で、どういう事なんですか」
昼休み、会社から徒歩五分ほど離れた位置にある公園まで呼び出された和奏は、ベンチで隣に座る斗真を早速詰問する事にした。
朝からこの時間まで、和奏はチクチクと突き刺さるような視線を浴びっぱなしだった。分かっていた事だしどうでもいいと言えばどうでもいいのだが、
――国峰さんって羽山さんと……。
――えー、マジマジ?
――マジらしいよ。でもどうして……。
という声まで聞こえてくる以上、全く気にしないという訳にもいかない。
それにしても、たった一日でどれだけ浸透するのだろうか。昨日、彼が一体どんな状況で『公言した』のかは知らないが、女社会のネットワークというものはなかなかに恐ろしいものだという事を、改めて考えさせられる。
斗真は何処から話したものかと思案した顔で数秒黙り込み、それから口を開いた。
「名前は伏せるが、昨日或る社員に告白された。だから最初、お前の名前は伏せた上で付き合ってる奴が居ると言って断ったんだ。そうしたら『それって羽山さんですか?』と返されてな」
「えっ! どうして!」
ふんふん、と話を聞いていた和奏は不意に声を高くした。一体何故そこで自分の名前が出てくるのだろうか。
「何でもお前が俺の車に乗り込んだのを見たらしいぞ」
「あ……あー……」
「どうも俺が帰りに女を車に乗せるなんて有り得ない事だそうだ。だから、お前の名前が出たんだろう」
「成る程、そりゃ確かに道理ですね……」
口元に手を当てながら和奏は考え込む仕草を見せた。
確かにこの一ヶ月、二人は定期的に斗真の車で食事に行っていた。会社の駐車場から出ているのだから見られても別におかしくはないが、まさかその事がこう作用してくるとは。
黙りこくって考える和奏を見て、斗真は困っていると判断したのだろう。彼は、
「不満か?」
と訊ねた。
予想外のそんな問い掛けに和奏は目を円くする。
「え? ああいえ、別にそういう訳じゃ……」
「元々、こうする為の『恋人役』なんだ。文句は言わせないからな」
「分かってます、大丈夫です。ただ、やっぱり案外見られてるもんなんだな、と思っただけなので」
「まあ、そりゃあな」
この返事を聞く限り、斗真は目撃される事を前提に意図的に動いていたようだ。直接的に伝えるよりも、まずはそういった目撃情報で信憑性を高めておく事が大事だ、とでも思ったのだろうか。その辺りの彼の考えは和奏には分からないが、少なくとも今回はそれが有効に働いたようだった。
「それでだ。無いとは思うが、もしも何か妙な事をされた場合はすぐに言え。いいな?」
妙な事、というのは嫌がらせの類だろう。和奏は素直に頷いた。
「はい。分かりました」
とは言え、周囲に居るのは流石にいい歳をした大人だ。嫌がらせなどは無いと思いたい。
これからしばらくの間、多少は耳が痛くなる事もあるだろうが、時が過ぎれば周りも次第に飽きていくだろう。その程度の事ならば、最初から覚悟済みなので大して辛くはない。気にはなるけれど。
寧ろ、そういった事を請け負うのも当然の契約だと思っていたので、斗真がそこを気にかけてくれたという事の方が、今の和奏にとっては驚きだった。
◆ ◇ ◆
「バレたわね」
仕事が終わり、帰宅の為に会社から駅に向かう途中、彩夏が溜息混じりに言った。
「うん。バレちゃったみたい。凄いね、あっという間に話が広がっちゃって……社内のネットワークって怖いよ」
あはは、と力無く笑って返す。彩夏には出来るだけ秘密にしていてくれと頼んでいたのだが、本当にその通り誰にも洩らさなかったらしい彼女に対しては、ほんの少しの申し訳無さがあった。
夕暮れから夜の藍色に変化する街並みを、二人は並んで歩いていた。
陽が落ちると少し肌寒さを感じる。彩夏は一つに纏めて縛っていたウェーブの髪をほどいた。寒かったのかも知れない。雑踏の中、行き交う人の服装が少しずつ厚手になっている事を確認し、本格的な秋の訪れを和奏は感じていた。
「しばらくの間は、ちょっと周囲の視線が気になるかも知れないけどさ。あんま気にしないようにね」
「ん、分かってる。大丈夫。ありがとね、彩さん」
気遣うような言葉をかけてくる彩夏に、和奏は頷いた。既に今日の段階で、やや周囲の目が気になるものである事を、彩夏も気付いていたようだった。誰かに直接問われる事は無かったが、社内に居た女たちの目が「本当に付き合っているの?」と言っている事は明白だ。
「堂々としてなよ。何言われたって、結局カナが勝ち組なんだから」
「勝ち組って……」
「だってそうでしょ? 主任が選んだのはカナなんだし」
彩夏は勝気そうにつり上がった瞳を細め、和奏を励ますように微笑んだ。しかし実際の所、和奏は別に勝ち組でも何でも無いのだ。和奏と斗真はあくまでも、契約で結ばれた偽物の恋人なのだから。
「まあでも、結果としてバレて良かったかも知れないわね」
「え?」
やや意外な言葉が聞こえ、和奏はふと隣を歩く彼女の顔を見た。
「だってこれで主任にアプローチかける女も……居なくなるとは断言出来ないけど、数がグッと減る事は目に見えてるでしょ? そうしたら、カナもやきもきする必要無くなるじゃん」
そう言った彩夏は、ふっと表情を翳らせた。
「辛いからね。周りに内緒の恋愛って」
普段、明るく強気な表情ばかり浮かべている彩夏が、こんな風にしおらしく苦笑を浮かべる所など、和奏はこれまでに見た事が無い。
そういえば、和奏は彩夏の恋人の話を詳しく聞いた事は無かったように思う。付き合ってそれなりに長い彼氏が居るらしい事は知っているが、それ以上の話を聞いてはいない。彩夏が自ら話してくる事が無かったし、あまり話したくなさそうな空気を纏っていたからだ。
「……彩さん?」
大丈夫? と続けて訊くと、彩夏はすぐにいつも通りの笑顔で「ごめん、大丈夫」と答えた。
もしかしたら、彩夏の恋愛も周囲には言えない彼女なりの事情があるのかも知れない。誰にだって一つや二つ、抱えている秘密はあるものだ。和奏に聞く事の出来る話ならば和奏は喜んで聞くが、彩夏が話してこない以上、それは和奏の踏みこんで良い領域ではないのだろう。
――秘密、か。
自分の秘密もそれなりに大きいのだが、と和奏は思う。
彩夏は同じ会社の人間だ。吐き出したくとも流石に出来ない。そもそも契約内容は口外してはならないものなのだし。
それでも何処かで誰かに吐き出せないだろうか。一人でずっと抱えるのはそろそろ辛い。そんな事をぼんやりと考えていた和奏の携帯に、その日の夜、旧友から数ヶ月ぶりのメールが届いた。