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「国峰さん、今度飲みに行きましょうよぉ」
トイレに向かおうとしていた所、廊下の先から不意に甘ったるい声が聞こえ、和奏は足を止めた。この声はええと誰だっけ――と脳内で社内の人間の顔を思い浮かべていくが、パッと当てはまる顔が出てこない。
少しだけ様子を伺うようにチラッと廊下の向こう側を覗いてみると、営業部の女性社員が熱烈なアプローチをしている所だった。『ネット販売部の主任』に対して。
「うわ……」
嫌な所に遭遇してしまったな、と和奏は思う。このまま何事も無かったかのように通りすぎていくか、それとも引き返すか。しかし引き返しては、和奏は自分の目的場所まで辿り着けない。さっさと目前の二人が解散してくれれば、それに越した事は無いのだが。
そのまましばらく様子を伺っていると、やがて斗真がやんわりと断り始めた。出来るだけ穏やかに、相手との間に波風を立てぬように。そういうアプローチをもっとザックリ斬ってしまえばいいのだろうに、何故彼はそうしないのだろうか。仕事に関する時はビシバシと厳しい人なのに。それも人と上手くやっていく為の処世術なのだろうか。
その内、諦めた様子の女性の方が先に姿を消した。それを見送った後、斗真が大きな溜息を吐き出したのが見え、和奏はようやく廊下を進む事を許されたように感じた。
「お疲れ様です」
「……羽山」
「相変わらずおモテになりますね、主任」
社内での呼び方は以前と変わらぬままだが、主任、という単語をわざと強調して言ってみせる。少しトゲのある言い方になってしまったかも知れない。
和奏の言葉に斗真は苦笑した。
「お前、一体何処から見てたんだ?」
「飲みに行きましょうよぉ、って可愛く誘われてる所から」
「ほぼ最初じゃないか」
ならさっさとこっちに来てくれれば向こうだって退いたろうに――と彼は呆れたように言う。そんな事を言われても、流石にあの状況で気にせず出ていけるほど和奏は無神経ではなかった。
「いつもあんな風にやんわり断ってるんですか? もっとビシバシ『行かない』『迷惑だ』ぐらい言っちゃえばいいのに」
「それが出来れば苦労しないさ。だが人間関係ってのはそんなに簡単なものじゃないだろう。それに……」
くいと眼鏡を押し上げ、斗真は和奏を見下ろした。二十センチ以上高い所から見下ろされると多少の威圧感がある。
「お前という切り札をいつ使おうか、まだ状況を読んでいる所だからな」
――切り札と来たか。
一体自分がいつどのような状況で使われるのか、和奏だってそれは勿論気にしている事だ。しかし、そんなに大層なものでもないのだが。
◆ ◇ ◆
昼休み、化粧室から戻ってきた和奏の机に見覚えの無い物が置いてあった。個包装されたパウンドケーキだ。
「あれ。何だろう、これ」
「ああ、それ岡村さんと小山さんの旅行のお土産だって。カナ居なかったから、置いとくからねーって」
斜め向かいから彩夏が声をかける。見れば、今名前の挙がった女子社員とアルバイトの二名が菓子を配り歩いていた。そういえば今度旅行に行くのだと、先週辺りに話していたのを聞いたような気がする。
「ふーん」
後で礼を言っておこう、と考えながら和奏はそれを鞄に仕舞う。そこへふと、高めの甘い声が聞こえた。朝、廊下で聞いたのと同じようなトーンのものだ。
「主任は甘い物あまり得意じゃありませんでしたよね」
「だから甘くない物をと思って……」
見れば、土産を配っていた二人が斗真の席で違う包みを渡していた。甘くない物、らしい。パッと見た感じ、おかきや煎餅といった系統の物の包みのようだ。
「……あの二人、なかなかあからさまだねぇ」
彩夏は目を細めながら、和奏にしか聞こえない程度の声でぼそりと呟く。
「うん」
普通、甘い物が得意でないから、といってわざわざ一人だけ別の物を買ってきたりはしないだろう。余程親しくしている相手ならともかく、そういう訳でもないのだ。その行動の裏に隠された感情は、あまりにも見え透いていた。
その上、彼女たちのあの気遣いは無意味なものだった。斗真は本当は甘い物が好きなのだから。そのまま皆に配った物と同じ物を配れば良かっただろうに。
そんな彼女たちを見て何となく複雑な気持ちになり、和奏は誰にも気付かれぬようにそっと溜息をついた。
別にムカムカなどしていない。イライラもしていない。何ともない。
ただ少し、ほんの少しだけ、何故だか面白くないような気持ちが浮かんだ。この気持ちは一体何だろう。嫉妬だとか、そういう類のものではない――筈なのだけれど。
「羽山さん電話ですー」
「あ、はーいっ」
不意に名前を呼ばれ、和奏は現実に引き戻される。良く分からない燻る気持ちを抱えていてもどうしようもない。仕事モードに切り替えなければ。
和奏は自らに活を入れるように、パシッと両膝を強く叩き、受話器を手に取った。
「お電話替わりました、羽山です――」
◆ ◇ ◆
「……分かってましたけど、斗真さん本当にモテますよね」
暗い車の中、窓の外を流れ行く景色を横目にしながら、和奏はポツリと呟いた。突然の言葉に、運転席の斗真は一瞬だけ助手席に目線を寄越した。
「何だ唐突に」
「あの営業部の人もですし、岡村さんと小山さんも……。普通、皆に配る物が苦手だろうからって、わざわざ特別なお土産買ってきたりしませんよ」
隣の男がモテるという事は和奏も充分に知っているつもりだったが、こうして改めてそれを意識してみると、本当にやたらモテていた。あんな風に、角を立てないようにとやんわり断っているとは知らなかったが。
「まあ確かに、わざわざ買ったりはしないだろうな。少なくとも俺ならしない」
「ですよね」
会話が途切れる。それ以上をどう続けていいのか、和奏には分からなかった。
休みの前日は共に夕飯を食べに行く事が何となく習慣づけられて、もうどれぐらい経ったろうか。まだ一ヶ月は経っていない筈なのだが。今日もその習慣通りに食事に行き、そして今は食事をした店から和奏の自宅に向かう途中だ。
美味しいご飯を食べた直後は和奏のモヤモヤとしていた気分も晴れたのだが、少し落ち着いてくるとやはり何だか胸の辺りがつかえたような気になってしまった。
一体何がこんなに引っ掛かるのだろう。一体誰がどれだけ斗真に言い寄ろうが、本当に彼と付き合っている訳でもない和奏には、関係の無い話だ。だから誰が彼を好きでもどうでもいい筈なのだ。
だけど、それが出来ない。
何故だかモヤモヤして、面白くない。
そうこうしている内に、車は和奏の自宅アパートの前に到着した。礼を言って車を降りようとした和奏は、その前にふと思い出したように呟いた。
「あ、そうだ。忘れてた」
和奏は鞄の中を漁り、目当ての物を見つけると運転席に向かって差し出した。
「どうぞ」
すい、と差し出されたその包みを見て、斗真は珍しく目を円くする。
「……何だ、これは」
「お昼に貰ったパウンドケーキです。食べたくないんですか?」
「いや、食べたくない事はないが……」
それは昼間、約二名が配っていた土産だった。「いいのか?」と続ける斗真に和奏はこくりと頷く。
昼間のモヤモヤした気持ちをまだ引き摺っていた和奏は、このよく分からない燻る感情を抱えながら、貰った物を食べる気にはなれなかった。別にパウンドケーキに罪は無いが、彼女たちが配っていた物を何となく口に入れたくない気分だった。それならば、甘い物が好きな彼に渡すのが一番だろうと思ったのだ。
和奏の手から包みを受け取った斗真は、少し考えた後にその場で包みを開封した。
「――和奏」
「はい?」
「口開けろ」
「へっ?」
いきなり何を、と怪訝な顔をする和奏に、もう一度「口を開けろ」と彼は繰り返す。仕方なく言われた通りに口を開けて待つと、斗真は包みから取り出したパウンドケーキを一口大に千切り、それを和奏の口に押し込んできた。
「美味いか?」
口に放り込まれた物を咀嚼すると、爽やかなオレンジの香りがふわっと広がった。それをごくんと飲みこんでから和奏は頷く。
「ん……ん、美味しいです」
「そうか。じゃあ安心して食えるな」
「えっ、ちょ、どういう意味ですか。私、毒見役ですかっ?」
自分を指差しながら騒ぐ和奏を横目に、斗真も一口分を千切って自らの口に運んだ。彼は眼鏡の奥の目を細め、満足そうな顔で咀嚼している。
「って言うか、ずるいですよ」
「ずるい? 何がだ」
「私も斗真さんにあーんやります。ほら、ケーキください」
和奏はずいと手を差し出すが、斗真はそれに応じず、彼女に触れさせぬようにとケーキの包みを反対側へ運んでしまう。
「丁重にお断りする」
「えー。やられるだけって恥ずかしいんですよ?」
「一人で恥ずかしがってろ。俺はわたわたしながら口ポカーンと開いたお前の顔で、しばらく思い出し笑いをしてやるから」
「意地悪! 鬼畜! 変態!」
「お前、上司に対していい度胸だな」
斗真は苦笑交じりにそう言って、小さく続けた。
「充分元気だな。心配して損した」
「え……?」
心配――と聞こえたような気がしたのだが。あまりにもサラッと流されてしまい、それ以上を和奏に突っ込む事は出来なかった。
そんなにモヤモヤした気持ちが顔に出ていたのだろうか。それは宜しくない傾向だ、と思いつつ、けれども今の斗真の行動が彼が自分を元気づかせようとしてくれた事だとしたら、それが何故だか無性に嬉しくて。
車を降りる時に後ろ髪ひかれるような想いになってしまったのは、きっと今のように気を遣わせてしまった事が申し訳無くて、でも嬉しかったからなのだろう。
そしてこの一週間後、二人の関係はあっさりと周知のものになる。