―5―
明日出掛けよう、と言われたのは『契約』が始まってから二週間ほど経った頃だった。既に、暦は十月になっていた。
見たい映画があるから付き合え、という話だ。それはいわゆるデートではないのか、と和奏は思ったが、会社の外でもそれなりに恋人の真似ごとをすると予め聞いてはいたので、特に驚きはしなかった。以前彼が言っていた「興信所を使われている可能性がある」というのが一体誰の事を指しているのかは分からないが、その可能性がある以上はこういう事も必要なのだろう。
和奏はとりあえず無難そう且つお気に入りの花柄ワンピを選び、会社に行くよりも少し念入りにメイクをして、待ち合わせである駅に向かった。待ち合わせ時刻の五分前に着いた和奏は、既に着いていたらしい斗真の姿を見つけると慌てて駆け寄った。
「おはようございます!」
いつもの挨拶をするがもう昼だ。少し合わないかも知れない、と思ったが、
「ああ、おはよう」
と、斗真も普通に返してきたので、気にしない事にした。
「すみません、お待たせしちゃいましたか」
「いや。俺もさっき着いた所だし、まだ時間前だしな」
言いながら斗真は腕時計で時間を確認する。和奏も一緒にその盤面を覗き込んだ。待ち合わせ時刻のぴったり五分前だ。
そこで和奏はようやく、改めて斗真の今の姿を確認する事が出来た。いつもよりも多少無造作にセットされた髪、カットソーの上にネイビーのカーディガン、デニムに普段よりもカジュアルな靴。会社で会う彼よりも少し若い印象の男が、そこに居た。
「どうした?」
ぼうっと呆けたように見入る和奏を不思議に思ったのだろう。斗真は怪訝な顔で問うてくる。
「えっ? あ、いいえ」
和奏は慌てて首をブンブンと振った。スーツ姿しか見ていないと、こういう時に結構グッと来るのは仕方の無い事だ。
「えっと、主……斗真さんの私服、そういう感じなんですね」
「おかしいか?」
「いえ、全然。ただ私服の想像がつかなかったんで、もしかしたらスーツで来たりするのかなと」
「あのなぁ、お前は俺を何だと思ってるんだ」
プライベートが全く想像出来ない人です――とは口にしない。まあまあ、と曖昧に和奏が濁すと、斗真は眼鏡のブリッジを押さえながら溜息を一つ吐き出した。それから彼は、和奏の頭から足元までさっと一瞥した。
「そのワンピース」
「え?」
「いいじゃないか。似合ってる」
あまりにもさらりと褒められ、和奏は一瞬状況を理解出来ず、次にぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。この男はこういう事を口にするのか。言いそうにないタイプだと思っていたのに。
「あ。ありがとうございます……」
何となく恥ずかしくなり、軽く目線を下に向ける。同時に、自分も素直に「格好良いですね」と言ってやれれば良かったのに、と少しだけ自らの発言を悔んだ。
◆ ◇ ◆
サスペンステイストの映画を見終えてお茶でもしようという話になり、二人は映画館に併設している施設のカフェやレストランの並ぶフロアをぐるぐると歩いていた。
やがて一つのカフェの前で斗真の足が止まる。ディスプレイに並ぶ色とりどりのパフェ。どうやらそのカフェは甘味に特化した店のようだった。美味しそうだ、と思う和奏が隣に目を向けると、彼はそのディスプレイを食い入るように見つめていた。
――おや、これは。
「もしかして、パフェ食べたいんですか?」
思った事をそのまま訊ねてみると、彼はハッとしたように首を振った。
「いや別にそんな事は無いが」
「思いっきりじーっと見てましたよ」
あれだけ釘づけになっておいて「そんな事は無い」は無いだろう。先程斗真がパフェを見ていたような眼差しで、和奏は彼を見つめる。すると、少しだけ気まずそうに顔を逸らされた。
「よし、入りましょう、折角だし!」
「おい、ちょっ……」
斗真の腕をぐいと引っ張り、和奏はやや強引に店内へ足を踏み入れた。斗真は口では抵抗するような素振りを見せたが、実際には小柄な和奏に大人しく引き摺られる形を取った。
ウエイトレスが笑顔で迎え入れ、席に案内する。着席と同時に和奏はメニューを開いた。自分ではなく、正面に座る斗真に向けてだ。彼は複雑そうな顔をしていた。
その内、ウエイトレスが水を運び、注文を取りに来る。
「えーと、私はチョコレートパフェ。それから斗真さんはマンゴーパフェですか? さっきじっと見てたの」
「……抹茶パフェ」
「じゃ、抹茶パフェお願いしますー」
半ば無理矢理に注文を済ませてしまうと、斗真も諦めた様子で肩を竦めた。何処か憮然としたような顔にも見えるが、きっと気のせいではないのだろう。
ウエイトレスが注文の確認をして立ち去った後、溜息混じりに水を口にした斗真を見て、和奏は小さく笑った。こんな風に自分が優位に立てている状況は初めてではないだろうか。上司と部下、雇い主と雇われの身、だけれどもそう思うと少しだけ面白い。
「食べたいなら食べたいって素直に言えばいいのに」
「いや、別に俺は食べたいとは……」
「抹茶パフェに決めてたんでしょう? 食べたいって事じゃないですか。……でも意外でした。いつもブラックコーヒーを飲まれてたんで、あんまり甘い物は好きじゃないのかと」
「まあ、コーヒーはな。それに、俺が甘い物が好きというのはイメージじゃないだろう」
「成る程、確かに。……ふふっ」
最近はスイーツ男子という言葉もあるほど、甘い物を好きな男性も増えてきたが、斗真はそれでも自分のイメージを気にするらしい。少々時代錯誤な所もあるなと思いつつ、それが案外可愛らしい行動に見えて和奏は思わず含み笑いを漏らしてしまった。
「何がおかしい?」
「いやいや、そういうイメージを気にしてるとか、案外可愛い所もあるんですね」
「っ……」
和奏の言葉に斗真はゲホゲホと咽込んだ。照れているのだろうか。
そうこうしている内に、和奏の前にはチョコレートソースのたっぷりかかったパフェが、斗真の前には白玉や小豆で装飾されたパフェが届けられた。和奏は突き刺さっているポッキーでクリームを掬って口に運んだ。甘い。小腹の空いてきた身体に染み渡る。
斗真も抹茶アイスを口に運ぶと、心なしかほっとしたような表情をした。やはり甘い物が結構好きなのだろう。そういった部分がチラチラと見えてくると、少し可愛いと思う。
「……あのですね。ちょっと怒られるかも知れない事、言ってもいいですか?」
「ん? 何だいきなり」
「結構慣れてきたから言っちゃいますけど、実は怖いなって思ってたんです、斗真さんの事」
「怖い?」
「ほら、契約成立の日に『苦手としている』って話が出たじゃないですか。あれ別に嫌いとかそういうんじゃなくて、ただ単純に威圧感があって怖いっていう……」
苦手としているからこそ、彼は和奏を選んだのだと言う。勿論それだけでなく、ああいう特殊な状況に陥ったから、というのがそもそもの理由ではあるだろうが。
「お前、そういう事は普通本人には言わないものだぞ?」
呆れ顔で斗真が言うと、和奏は頷いた。
「そうですね。普通言いませんけど、私たちの関係って普通じゃありませんし。あと今のは前置きですから。今はもう怖くないです。案外喋り易いし、結構可愛い所もあるんだなって分かったし」
「…………」
どう返答すべきか迷ったように斗真は複雑そうな顔で和奏を見つめ、そして結局何も言わず、生クリームを口に運んだ。可愛いだとか若干気に喰わない発言もあったが、そこに反論するのは何だか子供染みている、と彼は考えたようだ。
「でも斗真さん、会社でもこんな感じでいればいいのに。そうすればもっと親しみ易いと思いますよ。って、親しみ易くなったら今よりもっと女の人が群がってくるかも知れないけど」
「それじゃあ意味が無いだろうが」
溜息と共に吐き出すように言う斗真に、まあ確かに、と和奏も同意する。
「まあどうしたって、仕事とプライベートは違うからな」
「今はプライベートなんですか?」
「女と映画見てパフェを食う事の、一体何処が仕事なんだ?」
「私は一応『契約のお仕事』なんですけど」
「お前はな。俺は違う」
それは確かにそうなのだが。何処か釈然としないものを感じて、和奏は唇を尖らせた。
「……何かずるくないですか、それ」
「何がずるいんだ? 俺は雇用する側、お前は雇用される側だろう。それだけの話だ」
「まあそうなんですけど……うーん」
和奏は難しい顔をしたまま首を捻る。
てっきり斗真も仕事のつもりなのかと思いきや、プライベートなのだと言われて少し得をしたような気分になりつつ、何故そこで自分が得をしたような気になるのか分からないまま、しかし和奏はやはり契約の仕事をこなしているのだという状況。和奏の中には、何とも不可思議なこの状況を、一体どう処理すべきなのか悩む部分があるのかも知れない。
「ほら、むすっとした顔をするな。白玉一個、分けてやるから」
「えっ、わーい」
「……本当に単純だな」
ぽつりと呟かれた斗真の言葉には、和奏は聞こえないふりをした。それは、自分が餌付けに弱いという自覚があったからだった。