―4―
仕事が終わり、斗真の言いつけ通りに彼を待っていた和奏は、そのまま彼の車に押し込まれた。「食べられない物はあるか」と問われ「虫以外なら何でも行けます」と即答する和奏に、斗真は愉快そうに口元を歪めた。
そして気付くと、二人は小洒落たイタリアンの店に着いていた。
コース料理を注文する斗真と注文をとるウエイターは顔見知りのようだった。どうやら彼はここの常連客らしい。車で来ている為に食前酒を断った彼に付き合い、和奏も酒は飲まない事にした。気にするなと言われたが、上司が飲まないのに気にしない方が無理だ。
出されたレモン水をぐいっと煽った和奏は、正面の眼鏡男子を目を細めて見遣った。
「あの、これっていわゆるご飯デートってやつじゃないですか?」
「そうとも言うだろうな」
「ビジネスライクな契約恋人なのにデートとかするんですか」
会社の女子たちを遠ざけるのが目的ならば、わざわざこうして外で夕飯を食べる必要など無いのではないか。よく分からない、という顔をすると、斗真もグラスに口をつけながら澄ました顔で言った。
「興信所を使われている可能性があるんでな。それなりに恋人の真似ごとはして貰う」
「興信所?」
はて、会社の女子社員に興信所など使う人間が居ただろうか。彼を狙う女子は相当数居た筈だが、そこまで手の込んだ事をして彼を調べようという女は流石に居ないだろうと思うのだが。やはりよく分からない。
そんな事を考えている内に前菜が届いた。一枚のプレートの上に乗った、モッツァレラチーズとトマトとバジルのカプレーゼ、生ハムのサラダ、魚介のマリネ。皿の上の美しい色彩は、視覚だけでも充分に満足させてくれる出来だった。和奏はまず最初にカプレーゼを口に運んだ。オリーブオイルと塩と胡椒というシンプルな味付けのそれは、口の中で瑞々しいトマトの味わいが広がり実に美味だった。
「美味しい!」
「だろう?」
素直に和奏の口から出た感嘆の言葉に、斗真はふっと笑った。当然だ、とでもいうように。
「ここの店主は高校時代の友人でな。店の規模はあまり大きくはないが、常連客に芸能人も居る程度には人気だそうだ」
「えっ、そうなんですか? 凄い」
常連客に芸能人、と言うとそれだけで一種のステータスのように感じる。一般人の脆弱な想像かも知れないが、少なくとも和奏にとってはそうだった。
――しかし、高校時代、か。
この男の高校時代などさっぱり想像がつかない、と和奏は思う。昔からこのような威圧感のある男だったのだろうか。それとも成長するにつれ、だろうか。
しかし彼は国峰グループの子息だという話だし、金持ちは大抵こういう威圧感を持っているものなのかも知れない。
――あれ? そういえば。
そもそも、彼が国峰グループの子息だというのは本当の話なのだろうか。前菜をもしゃもしゃと口へ運びながら和奏は考える。実に今更な事ではあるが、和奏自身、その話は又聞きでしか聞いた覚えが無いのだ。
折角いい機会だし訊いてみようか、いやでも訊いたら嫌な顔をされるだろうか、嫌な顔をされたら怖いし――などと様々な考えを巡らせた挙句、和奏はそれを訊いてみる事にした。和奏は一度気になりだしたらどうにも途中で止まらない性質の女だった。
「あの、主任」
おずおずと呼びかけると、斗真はフォークを使う手を止め、静かな瞳で和奏を見た。
「呼び方」
「え?」
「俺とお前は『恋人』だろう。仕事じゃない時は呼び方を変えろ」
「って言われましても……」
いきなりそんな事を言われても、一体どうすればいいのか。和奏は困ったように口籠るが、斗真はお手本を示してくれる気は無いらしい。
「ええと……国峰さん」
とりあえず役職から個人名に変えてみる。だが、目の前の彼は眼鏡の奥の瞳を細め、渋い顔をした。
「恋人だと言っただろう」
今までずっと『主任』呼びだったのだから、苗字呼びは充分恋人らしいと思うのだが。どうやらそれでは駄目なようだ。
ならば他にどう呼べば、と考え、和奏は次に浮かんだ呼び名を口にする。役職じゃなくて苗字にさん付けでも駄目なら、後は立場的に浮かぶ呼び名といったら。
「国峰先輩」
斗真の顔は益々渋くなる。その顔が正直な所少し怖くて、和奏は「あはは」と苦い愛想笑いを浮かべた。全くちっともさっぱり全然これっぽっちも誤魔化せていないようだが。
「おい待て、何故退化する」
「退化って言われましても、うーん……」
「俺の下の名前は斗真だ」
はあっと深い溜息と共に吐き出された彼の声に、和奏は動きを止めた。
つまり、下の名前で呼べ――と?
いやそれは流石にどうだろう、と和奏は躊躇する。本当に恋仲な訳でもないのだし、立場としてはあくまでも上司と部下、或いは雇い主と雇われた側になる訳だ。
しかし彼を雇用主だと考えるならば、その指定に従って然るべきなのだ。
「と……」
最初の一文字を声に出す。斗真は呼ばれるのをじっと待っているようだ。
「斗真、さん……?」
彼の名前を読んだ後、何故だか無性に気恥ずかしい感情に襲われ、和奏はごくりと唾を呑む。そういえば男性の事を下の名前で呼ぶなど、この数年間でアキラ一人ぐらいしか無かったのではなかろうか。
和奏の声に斗真はようやく満足そうな笑みを浮かべた。
「ああ。合格だ、和奏」
そして斗真も至極当然の事のように、和奏を下の名前で呼んだ。彼の低い声で名前を呼ばれるのは酷く新鮮な響きがして、和奏はマリネを纏めてフォークに突き刺すと口の中に放り込んだ。気恥ずかしさを食べ物と一緒に咀嚼して飲みこんでしまおうというつもりで。
「えっと、しゅに……斗真さんってあの国峰グループの御子息、なんですよね?」
適度に冷静さを取り戻した和奏は、とりあえず先程から気になっていた事を訊く事にした。
「それがどうかしたのか」
「いや、その話って本当なのかなぁって。噂はいっぱい流れてますけど、ご本人からそういう話を伺った事が無かったんで」
あれだけ大量に流れているのだから、流石に嘘という訳は無いのだろうが。けれども本人の口から聞いた訳ではない話を、事実なのだと断定する事は出来ない。
斗真は成る程と呟いた後、
「まあ国峰は国峰だが、うちは分家だからな」
と、何処かつまらなさそうな顔で応えた。
「へえ、そうなんですか」
「そうだ。だから金目当てで俺に近付いても何もいい事は無いぞ。持ってないって事も無いが、本家と比べりゃ雲泥の差だ」
「…………」
――それでも二百万払って頂きましたが。
とは言わない。和奏の場合は、あくまでもビジネスだからだ。無償ではなく、代わりに仕事を提示されているのだから。言ってしまえば、和奏は彼に二百万で買われたようなものなのだ。
そこへパスタが届く。トマトソースのサッパリしたスパゲッティは、するすると口の中へ運ばれていく。この後メインディッシュの皿も来るらしいが、ここまでの料理が美味なので次への期待も自然と高まっていく。
さっきの話の続きですが、と前置きをして和奏は続けた。
「別に斗真さんに言い寄ってくる女の人、みんながお金目当てって訳じゃないと思いますよ」
「半分ぐらいはそうだろ」
「半分ぐらいはそうかも知れませんけど、あと半分ぐらいはそうでもないと思います」
「じゃあ何だ。顔か」
自分の顔の造形がいいという自覚があるのだろう。そんな斗真の堂々とした――或る種ナルシズムを感じる――発言に、和奏はあからさまに顔を顰めた。
「……うっわ」
「おい、聞こえてるぞ。聞こえてなくても顔が相当だぞお前」
「すみません。どう突っ込もうか考えていたら、それよりも先に顔と声が勝手に」
「全く……冗談と本気の区別ぐらいつけろ」
「冗談のつもりだったんですか! 全然笑えないんですけど!」
「お前な」
「だってリアルですもん。その顔で、自分の顔目当てとか言っちゃうと」
実際に斗真の顔の造形はかなり良い部類に入る。そうでもない顔ならば、逆にどうとでも突っ込みようはあるのだが、顔通りの発言をされるとどうにもならない。
しかし、今のが冗談のつもりだったとは。まったくもって笑えない。もっとおちゃらけた感じに言ってくれたなら、まだ冗談だと分かり易いのに。もしかしたらこの男はこういう喋り方しか出来ないのかも知れないな、と和奏は思った。
◆ ◇ ◆
食事の後、財布を出そうとした和奏はその動きをサラリと斗真に封じられてしまった。
「元々飯に誘ったのは俺だろう。誘っておいて、女に金を払わせるのは主義じゃない」
勿論、最初に誘ってきたのは彼なのだが。彼は上司で自分は部下な訳だが。けれど、彼にはつい昨日二百万もの借金を返済して貰ったばかりなのだ。せめて飯の一回ぐらいはこちらが出した方がいいのではないだろうか。
「でも流石に悪いですよ、それは」
「いいから。タダメシ食えてラッキー、ぐらいに思っておけ」
「……んむ」
そんな軽いテンションでいいのだろうか。瞬き二回分ほどの時間を和奏は思考を纏める事に費やし、それから一つ頷いた。
「まあ、それもそっか。じゃあご馳走様です!」
また次に何かの機会があったら、その時は自分が出す事にしよう。和奏はそう考えた。契約が続く以上、きっとこうして夕飯を共にする事は今後もあるのだろうし。
「……呆れるぐらい単純な奴」
「何か言いました?」
「いや別に。何でも無いさ。行くぞ」
斗真はエスコートするように扉を開き、和奏に先に出るよう促す。彼の隣をすっと通り抜け、和奏は店の外に出た。
彼の車に向かいながら、隣を歩く男の顔を見上げて和奏はぼんやりと考える。
思えばこの二日間、驚くぐらい彼とたくさん話した。入社してからの三年間で交わした会話よりも、寧ろこの二日間の方が会話量が多いのではないか、と思ってしまうほどだ。
こうしてじっくり話してみると、それほど怖い相手でもないのかも知れない。分かりにくいが冗談も言うようだし。顔つきが怖いとか喋り方が怖いとか何だか威圧的に感じるとか、そんな事は自分が気にし過ぎていただけだったのだろうか。
何にせよ、きっと先は長いのだ。少しでも親しめる方が契約恋人の仕事はやり易いに決まっている。
無理をせず少しずつ慣れて行こう、と和奏は思った。