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―3―


 ビジネスとしての『恋人』の契約が成立した後、斗真は何とその日の内に借金の支払いを全て終えてしまった。

 既に十八時も過ぎているし、何も今日でなくてもいいと和奏は言ったが、彼は、

「こういうのは早い方がいい」

 と言って、あっという間に終わらせてしまったのだ。勿論それは和奏としてはありがたい事ではあったが、同時に、この男は一体どういう人間なのだろうかと僅かばかりの恐怖を覚えてしまった。もっとも、恐怖は元々抱いていたものではあるが。

「ありがとうございました」

 深々と頭を下げ、和奏は礼を言った。すると斗真は何か考える様子で自らの顎を擦り、難しい顔で口を開いた。

「羽山」

「はい?」

「過ぎた事はあまり言いたくないが、お前の元カレ、本当にろくでもない駄目男だな」

 何カ所もの消費者金融を回った後でそんな事を言われると、最早、和奏には返す言葉も無い。

「えーと……そうですねぇ」

 ははは、と乾いた笑いを漏らしながら曖昧に告げると、彼は「まあ、どうでもいいが」と溜息混じりに呟いた。そんな駄目男を彼氏にしていたような駄目女だ、とでも思われているのだろうか。否定出来ないのが悲しく虚しい所だ。

 実際の所、和奏は自分でもアキラとは何度も別れるべき局面があったと思っていた。ギャンブル癖が発覚した時、それをやめてくれと頼んでもやめてくれなかった時、彼が借金をした時、そして連帯保証人を頼まれた時。それらの事態に遭遇した時、それでも彼と別れる事を選ばなかったのは自分だ。

 好きだったから。

 どうしようもない駄目男でも、優しかったから。

 けれど、アキラが目の前から消えてしまった事で、その感情がすぅっと溶けていくように自らの胸から薄れていったのもまた事実だ。一体自分はこれまで、彼とどんな時間を過ごしてきたのだろうか。それが分からなくなった。

「しかしまあ、肩の荷が下りたって顔をしてるな」

 不意に斗真にそんな事を言われ、和奏は首を傾げる。

「え、そうですか?」

「ああ。お前、ここ数日間ずっと死にそうな顔をしてたからな。非常に辛気臭かった」

「……そりゃどうもすみません」

 そこまで落ち込んだ顔をしているつもりは無かったのだが、そう見えたのだろうか。もっとも、二百万の借金を抱え、会社を辞めようと思っていた所だったのだ。死にそうな顔で辛気臭いオーラを出していたとしても、それは当然の事だろう。

「別に謝る事も無いけどな。事情が事情だし、仕方ない事だろう」

「はあ……」

「それより羽山。『契約』は明日からだが、大丈夫か?」

「大丈夫です。ちゃんと分かってます」

 和奏の返答に斗真は満足そうに笑った。厭味の無いその笑顔は、これまでに和奏が見た事の無いものだった。

「ならいい。宜しく頼む」

「はい、宜しくお願いします!」

 これは仕事だ。やるからにはきちんとやり遂げなければならない。

 その決意を自らにも言い聞かせるように、和奏ははっきりと大きな声で返事をし、深く頭を下げた。


 ◆ ◇ ◆


「カナ、今日お昼どうする?」

 昼休みの時間になると、柔らかなウェーブがかった髪を揺らしながら小塚彩夏(こづかあやか)が和奏のデスクまでやってきた。

 彼女は和奏より二つ年上の同期だ。和奏が短大卒業で入社したのに対して、彩夏は大学卒業で入社した。今年で三年目の付き合いになるが、社内の人間で下の名前で呼ぶのはそれぞれ互いしか居ないほどに、気の合う同僚だった。

「お弁当持ってきてないから、食堂か外に行こうと思ってるよ」

「そっか。じゃあ外行かない?」

「いいよー」



 暑いのでサッパリと蕎麦でも食べよう、という話になり、和奏は彩夏と共に会社近くの蕎麦屋に向かう事にした。レディースセットについてくるサクサクの桜エビのかき揚げが美味しい店だ。

 ビルから一歩外に出ると、むわっとした熱気が二人を襲った。暦の上では秋の筈だが、東京の九月はまだまだ暑い。さっさと蕎麦屋に入って空調の利いた店内で涼みたい、などと話しながら歩きだした所で、和奏は不意に低い声に呼び止められた。

「羽山」

「あ、主任」

 一瞬だけ和奏は身を硬くしてしまう。彼との『契約』は今日から履行されているからだ。

「今の内に言っておく。今日、仕事終わったら待っとけ。飯食いにいくからな」

「へっ?」

 和奏はポカンと口を開けた。その隣で彩夏も同じような表情をして、和奏と斗真を交互に見遣る。斗真は言うだけ言うと、和奏の返事も聞かずにそのまま立ち去ってしまった。

 取り残された女子二人は、揃って同じような顔をしたまま立ち去る斗真の後ろ姿を見送っていたが、彩夏の方が先に我に返り、和奏の腕を掴んで思いきり揺さぶった。

「ちょっと、どういう事よっ。あんた、あれだけ主任怖いだの主任苦手だの主任は鬼だの言ってたじゃないっ。一体いつの間に……!」

「わわっ、彩さん落ち着いてっ」

「これが落ち着けるかっての。じっくり話聞かせて貰うわよ?」

 腕を掴まれたまま、和奏は彩夏にずるずると引き摺られるようにして歩いていく。

 そのまま蕎麦屋まで直行した二人は、揃ってレディースセットを注文し、それから斗真との関係について話す事となった。とは言え、勿論『契約』については秘密の為、色々とあってお付き合いする事になった、というような曖昧な説明になってしまう。彩夏はそれでも納得したらしく、出されたお茶を一気にぐいと煽った。

「それにしても分からないものねぇ。全っ然気付かなかったわ」

 彩夏は、はー、と尾を引く長い溜息をつくが、そんなものは気付かれなくて当然の話だ。実際に昨日まで二人の間には上司と部下というだけの関係しか無かったし、和奏はあの上司の事を怖いと思っていた――思っている――のだから。

「まあ元々、主任ってカナの事は気に入ってたぽいけどさ」

「えっ、嘘だ」

「嘘じゃないわよー。主任が女子社員で苗字呼び捨てにしてんの、あんただけじゃん」

「……そうだっけ?」

「そうよ。あたしも小塚さんって呼ばれるし、皆、さん付けで呼んでるのにカナの事だけは羽山って呼び捨てだから、なーんか他と違うのかなぁって思ってたもの」

 言われてみればそんなような気もする。二人の間に実際は恋愛関係など無い事を踏まえると、単純にナメられているのだろうか。

 そこへ注文したセットが届けられる。カラッと揚がったかき揚げは、見ているだけでも口に入れた後のサクサクとした音が聞こえてくるようだった。手を合わせて割り箸を割り、つゆに薬味を入れながら、和奏はやや気まずそうに彩夏の顔を見た。

「で、まあその……あんまり人に言わないで欲しいっていうか……」

「分かってる分かってる。バレてったら仕方ないけど、そんでもあんまり表沙汰にしたくないもんね、社内恋愛って」

「うん。ありがとう、彩さん」

 もっとも、斗真は和奏の存在を他の女性への牽制として使うつもりなのだろうから、表沙汰になるのも時間の問題なのだろう。こうして彩夏の居る場でああいう風に夕飯を誘ってきた事からもそれは分かる。

 ただ、まだその辺りの事についての詳細を話している訳ではないし、周囲に話が洩れていくのであれば、それは恐らく和奏からではなく斗真からの方が良いだろう。とりあえず、今はまだあまり話を流布させない方がいい。和奏はそう考えた。

 彩夏は蕎麦をすすり満足げな顔で咀嚼すると、にんまりと口元を歪めた。

「んー。しっかし、やるねぇ、このぉ」

「彩さん、何か言い方が親父っぽい」

「うっさい。でも主任ってばさ、確かに怖いけどイケメンだし仕事出来るし実家はお金持ちだしで、女性社員の憧れじゃん? よくあの人捕まえたね。狙ってる子、結構多いって話はカナも知ってるでしょ?」

 こくこくと和奏は頷く。正にその狙ってる女たちを一掃する為に偽の恋人になりました、本当は恋愛関係なんて全然ありません、とは口が裂けても言えない。

「それに、あたしは安心してんのよ」

「安心?」

「ほら、カナの前の彼氏ってさ、何かあんまりこう……だったじゃん?」

「……ああ」

 彼女の言いたい事を察して、和奏は曖昧に苦笑いを浮かべる。

 彩夏はアキラがギャンブル癖が激しいという事を知っていた。以前二人で飲んだ時、調子に乗って和奏が飲み過ぎてしまい、その時に彩夏に「彼がギャンブルをやめてくれない」と泣きついたのだ。

 流石に彼が借金をしてまでギャンブルを続けているという事は話していないが、彩夏はその話を聞いて以来、あまりアキラに対して良い印象を持っていなかったらしい。

「主任ならギャンブルとかまず無さそうだしさ。社内の女の子にあれだけアピールされても、なかなか靡かなかったって事を思うと、女性関係も大丈夫っぽいじゃない? 単に社内恋愛が嫌なのかなーって思ってたけど、カナと付き合うって事はそういう訳でも無さそうだし」

「う、うん。そうだね」

「だから本当に良かったわ。安心した」

 多分、彩夏は本当に純粋に喜んでくれているのだ。笑顔で「良かった良かった」と言う彼女を見て、和奏は自身の良心がチクリと痛むのを感じた。

 元カレが借金こさえたまま蒸発して、それを主任が肩代わりしてくれて、逆にそのお礼として恋人を演じるという仕事を請け負いました――と言えたならどんなに楽だろうか。

 そんな複雑な心境ごとまるっと呑みこむように、和奏は桜エビのかき揚げにかぶりつく。揚げたてのサクサクとした衣は実に美味だった。




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