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「俺が二百万払ってやると言ってるんだ。その代わり、俺の『恋人』になってくれ。……ビジネスライクな関係で」
そんな斗真の言葉はなかなかにエキセントリックだった。和奏の呼吸を五秒ほど止めてしまう程度には。
ぴったり五秒間、思わず息をする事を止めた和奏は、ハッと気付いたように慌てて呼吸を再開した。驚愕する間ずっと息を止めていたら死んでしまう。けれども、人間がするべき当然の事である呼吸の存在を忘れてしまうほどに、今の斗真の発言は衝撃的だったのだ。
その言葉の真意を測りかね、和奏は探るように斗真の顔を見た。何だか口元に笑みを浮かべてはいるが、それでも冗談を言っているような顔には見えない。
和奏はしばらくどう返すか迷った挙句、思った事をそのまま口に出す事にした。考えても分からないものは分からない。妙な誤解が生じる前に、さくっと意味を訊いてしまった方が確実だ。
「……あの、主任。質問があるんですが」
「何だ」
「えぇと、どうして『恋人』なんでしょうか。あと『ビジネスライクな恋人』ってのがよく分からないんですが」
斗真の提示した『仕事』の内容で引っかかったのがその二つだ。恋人になってくれ、という彼の言葉は愛の告白でない事は充分に分かる。だが、それならば何故そんな『仕事』を提示したのだろうか。ビジネスライクというのも益々分からない。
和奏の質問に斗真は一つ頷くと、はぁっと重い溜息と共に吐き出すように言った。
「鬱陶しいんだ」
――鬱陶しい。
一体何がだろうか。和奏は首を傾げながら続きを促す。
「と、言いますと?」
「誰とは言わないが、うちの部署で四人、秘書課に二人、営業部に一人、あと……何だったか忘れたが、とにかく困るんだ。言い寄ってくる女子社員が」
「あー……モテますもんね、主任……」
その言葉で和奏も彼の言わんとする事を理解した。高身長で見た目も宜しく国峰グループのお坊ちゃんだというこの独身男に言い寄る女は実に多い。誰が言い寄っているのか、片手程度なら和奏でも即座に名前を挙げられるほどだ。
つまり、そういった女子社員の虫除けとして『恋人』の存在が欲しいという事らしい。
「成る程。何となく分かりました。でも、それなら本当に彼女作っちゃえば済む話じゃないですか」
「馬鹿言え。それが嫌で、言い寄ってくるのを適当にあしらってるんだろうが」
「あ。それもそっか」
社内の女性は却下なのか、それとも単に恋人を作る気が無いのか。社外で付き合っている女が居る訳ではないから恐らく後者なのだろうが、草食系と呼ぶよりは単純に仕事以外に興味が無いというように見える。だから恋人は作らないのだろう。
かと言って、恋人も居ないのに断り続けるのにも限界がある。一人振ってもまだ次が居るからだ。
斗真はブラインドの隙間から外を見下ろしている。窓の外は、もう殆ど夜の群青色に染まっていた。
「念の為に言っておくが、お前に頼むのはあくまでも『恋人のフリ』だけだ。別に肉体関係を強要したりはしないから安心しろ」
「はあ……」
身体を買われる、という訳ではないらしい。和奏は僅かに安堵する。
「それから期間は無期限だ。無期限と言うのは俺にとって都合のいい期間だが、永久という訳じゃない」
「つまり、契約のせいでいつまで経っても私が本当の恋人を作れない、って訳じゃないって事ですね」
「作る気があるのか?」
「いや、今は無いですけど……一応、傷心真っ只中ですし」
これでもそれなりに長い期間付き合った彼氏が消えたばかりなのだ。既に彼に対しての好意もあまり残ってはいないが、新しい恋人を作ろうとは思わない。否、思えなかった。
寧ろ当分の間、男は要らないという心境だ。それを思えば、ビジネスでの恋人というのは悪い話ではないかも知れない。新しい彼氏は作らないのか、などと突っ込まれる可能性も無くなるだろう。対外的には新しい彼氏が出来たと言えるのだから。
「どうだ? 悪い話じゃないと思うが?」
「うーん。そりゃ悪い話じゃないですけど……」
和奏は唸りながら難しい顔で考え込む。何せ、二百万という大金がかかっているのだ。あまり簡単に結論を出してしまうのは良くない。
借金の返済の代わりに彼の恋人を演じる。それが斗真が提示してきた内容だ。肉体関係は強要しない。けれど、期間は無期限。それなりに人気のある斗真の恋人を演じるという事で、若干社内の女性からの風当たりは強くなるかも知れないが、和奏にとってはそれは割とどうでもいい事項だ。メンタルが強い事には自信がある。
寧ろ、相手が苦手意識のある斗真というのが、和奏にとってはなかなかの悩み所だった。こうして対峙して話しても、眼鏡の奥の眼光が鋭い彼は、やはり少し怖い。
そして和奏はふと或る事に気付き、その疑問を素直に口にした。
「と言うか逆に、主任にあんまりメリットが無いんじゃないですか?」
「俺のメリット? 何故だ?」
「だって二百万ですよ二百万っ。それだけあったら某浦安の夢の国のホテルの一番いいスイート、四泊も出来ちゃうんですよ!?」
「詳しいな」
「いつか泊まるのが夢なんです! ……って、そうじゃなくて!」
思わずノリツッコミしてしまい、和奏は少し気恥ずかしそうに「えぇと」と言葉を繋ぐ。
「とにかく、女子社員の虫除けに恋人の真似っこをして、それで二百万とか……。主任に分が悪過ぎじゃないですか?」
そうなのだ。偽の恋人という程度の役割で二百万では、斗真の方が割に合わない。
二十九歳の独身男ならば或る程度の蓄えはあるだろうし、そうでなくても国峰グループの人間だと言うのだから、自由になる金もそれなりにあるのだろうが。だからと言って、やはり二百万は割高過ぎではないだろうか。
そんな和奏の指摘に、斗真は肩を竦めながら言った。
「そうでもないさ。相手がお前だからな」
「何ですそれ。どういう意味ですか」
普通ならば心ときめく台詞かも知れないが、今の彼の言い方からそんな甘い意味ではない事は容易に分かる。彼の言わんとしている事を読み取るようにじっと見つめる和奏を、斗真は真っ直ぐに見つめ返した。
そして彼は、
「羽山は俺を苦手にしているだろう」
と、努めて冷静に言った。
その瞬間、和奏の背筋を冷たい汗が伝い降りていく。
「……ぎくっ」
「おい、擬音を口で言うな」
「いや、何かもうそんなにバレバレだったら、いっそ茶化した方がいいんじゃないかなぁって、あははは……はは……は……」
――そうか、バレていたのか。
あまり表に出さないように気をつけていたんだけどな、だって怖いんだもの――などと考えながら、和奏は愛想笑いをした。高めの笑い声が休憩室に虚しく響き渡り、そして段々と消えていく。
やがて困った和奏が完全に黙ったのを見計らい、斗真はまるで気にしていない様子で口を開いた。
「あくまでも契約だ。ビジネスライクを基本にしたい。途中で本気にされちゃたまらないからな。それならいっそ、俺を苦手だと思っている相手の方が都合がいい」
「うぅん、成る程。そりゃ理にかなってますよ、ねぇ……」
確かに、契約という名称で恋人を演じて、やっぱり本気で好きになってしまいました本物の恋人になりましょう、などという話になってしまったら、それは結局駆逐しなければならない他の女たちと何も変わらなくなってしまう。
それに和奏はこの上司の事を苦手にしているが、別に嫌っている訳ではない。威圧感や鋭い目つき、遠慮の無い喋り方が怖いというだけだ。生理的に嫌悪感があるという事も決して無い。
「それで? どうする? 別に返事は今じゃなくてもいいが、出来るだけ早い方が羽山にも都合がいいだろう?」
促すような斗真の言葉に、和奏は考えて考えて考えて、そして――静かに頭を下げた。
「宜しくお願いします」
背に腹は代えられない。会社を辞めずに借金を早く完済出来るのならば、恋人のフリぐらい何て事は無い。何だかんだで彼氏は蒸発して傷心中な訳だし、新しい恋を探す元気も無い。それならいっそこの契約に乗るべきだろう。
はっきりとそう言った和奏を見て、斗真は、
「契約成立、だな」
と、満足そうに口端を吊り上げて笑った。
「ちなみに一ついい事を教えてやろう」
「いい事?」
何ですか、と和奏は首を傾げる。
「今回のお前みたいなケースだと、警察に行くのが普通だ」
「警察? いや、でもまだ壮絶な取り立てとかに遭った訳じゃないんですが……」
「だが、羽山の元恋人は蒸発して、それでお前が借金を押しつけられたんだろう? 普通、知り合いが姿を消したらまず警察に行くだろうが」
「あー……」
――そりゃそうだ。
アキラは独り暮らしだった。彼の実家は勿論、彼が姿を消した事など知らないだろう。そうすると普通、届け出を出すのは恋人だった自分の役目ではないか。
探さないでくれ、という伝言があったのと借金の事で頭がいっぱいになり、警察の事など頭からすっかり抜け落ちていたが、やはり然るべき所へ届け出るべきだったのだろうか。勿論、これが家族だったなら間違いなく届け出ていたのだが。
「と言うか、警察って借金問題解決してくれるんですか?」
「警察は民事には介入しないさ。だが失踪届は出せるだろうし、弁護士ぐらいは紹介してくれるんじゃないか?」
寧ろ弁護士なら俺の知り合いにもそれなりのが居るが、と彼は続ける。
「まあそんな事はどうでもいい。契約は成立したんだ。今更無効とは言わせないからな」
「うぐっ……」
眼鏡の奥の瞳を細めて微笑む斗真は、何だか悔しいけれども実に絵になる笑顔で、和奏はこれから先の事を考えて小さく項垂れるのだった。




