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都子の話で斗真と揉めたあの日から、和奏と斗真の関係は何処となくギクシャクした日々が続いていた。
決して、本当に付き合っている訳ではない。あくまでも契約なのだからと割り切って接するが、それでも何処か不自然なぎこちなさは拭えなかった。
和奏が気にする事ではないと分かっている。都子の事は斗真の問題であって、彼と本当の恋人な訳でもない和奏には、まったくの他人事なのだ。
――しかし、それでも。
やはり、このままでいい筈が無いのだと思う。
そう考えていた和奏は、終業後に会社の近くに都子の姿を発見しても、もう驚かなかった。
都子は今日も、この間と同じように一人で居た。
「こんばんは」
和奏の姿を見とめた都子は、小走り気味にこちらへと寄ってきた。ぺこりと頭を下げた彼女は、
「せ、先日はその……みっともない所を見せてしまってごめんなさい」
と、気まずそうに話を切り出した。先日、和奏の前で泣きながら、斗真の事を奪らないで、と言ってきた事はまだ互いに記憶に新しかった。みっともない事をした、という自覚があったようだ。
「それと、これ……お借りしたハンカチと、お礼を」
そう言った都子が差し出した物は、和奏が普段使っている物よりも数段はレベルの高いブランドの物だった。和奏は思わず目を円くする。
「ちょ、ちょっと待って、こんな高い物は……」
「いいから! 受け取ってください。じゃないとわたしの気が済みません。国峰家の娘としても、お礼はきちんとしなくちゃならないんです」
「えっと……じゃ、じゃあ、どうも」
意外なほど強い剣幕で言われ、和奏は大人しく礼のハンカチを受け取る事にした。普段使いにするには勿体ない気がするので、しばらくは大事に仕舞っておこう、と考えながら。
それから二人の間に微妙な間と沈黙が流れた。
都子が今日ここに来た目的は何だろうか。斗真に会いに来たという訳ではなさそうだ。かと言って、礼を届けにきただけならば、これですぐに立ち去ってしまえばいい。
それなのに都子はまだここに居る。という事は、和奏に何か話す事がある、という事なのだろう。なのに、彼女はそれを口にしない。もしかすると、何処から話せばいいのか分からないのかも知れない。
和奏はふと浮かんだ疑問を口にしてみた。
「都子さんは、どうして斗真さんを好きなの?」
ふっと口から出た自然な問い掛けに、都子はゆっくりと目を瞬かせる。彼女の長い睫毛が何度も瞬く様は可憐だと、同性である和奏の目から見ても思った。
それから都子は緩く首を振る。
「……さあ。どうしてでしょう。もう分からなくなってしまいました」
「分からなく、って……」
「小さい頃から、ずっと斗真くんが好きだって思ってましたから。それがわたしにとって当然の事で、それだけが揺るぎない真実だったんです。どうして好きなんだとか、もうそんな事は分からなく……いえ、忘れてしまいました」
まるで独り言のように、都子は少しずつ言葉を紡ぎ続けた。
斗真を好きでいる事自体が、彼女にとってのアイデンティティのようなものだったのかも知れない。幼い頃から息をするような自然さで斗真を好きでいた都子にとっては、好きな理由などそもそも曖昧だったのだろう。
「……本当は」
ぽつり、と零すように都子は続ける。
「もう、斗真くんにはきっぱり振られたんです」
「えっ?」
和奏にとって、寝耳に水だった。
きっぱり振られた? 一体いつの間に? 自分は斗真にそのような話は一切聞いていなかったと言うのに。
驚愕する和奏をよそに、都子はぽつりぽつりと言葉を重ね続ける。
「悲しいし悔しい。貴方の顔見たら、もしかしたら引っ叩きたくなるかもって思ってた。でも、あんなみっともない所を見せたままなのは、わたしのプライドが許さなかったんです。だから今日、こうして来ました」
泣いていた状態を和奏の記憶に残すのは癪に障った、と。何だかんだで強気な都子らしい。
「斗真くんを幸せに出来るのがわたしじゃない事は凄く凄く悲しい。でも、もうどうしようもないんですものね。分かってるんです。ただ、心の整理はつかなくて……」
「都子さん……」
「だから、今日はこれで失礼致します。……でもね」
それまでずっと俯きがちだった都子が顔を上げた。キッと強気な表情で和奏を見据える。
「わたしが……わたしが斗真くんの事、誰よりも幸せにしてあげる筈だったの! だから! 羽山さん、貴方かなり責任重大なのよっ! 絶対に斗真くんの事を幸せにしてあげなきゃ、わたし、許さないんだからっ!」
キッパリと言い切った都子は、ビシッと和奏の鼻先に指を突き付ける。行儀の悪い事だと都子も自覚しながら、それをやっているようだった。
それからペコリと深く頭を下げ、彼女はセーラー服の裾を翻しながらパタパタと駆けていった。もうここに来るのは本当にこれで最後なのだと。その証拠のように、決して振り返る事は無く。
都子の姿がどれだけ小さくなっても、和奏は呆然と少女の走っていく方を見たまま、微動だにしなかった。
『絶対に斗真くんの事を幸せにしてあげなきゃ、わたし、許さないんだからっ!』
斗真を幸せに――と都子は言ったが、それは和奏の役目ではないのだ。偽物の恋人。契約の恋人。そんな和奏に、彼と幸せになる権利は無い。
「どうした。こんな所でぼけっとして」
「えっ?」
不意に後ろから声をかけられ、和奏はハッとして振り返る。最近どうにも気まずくなった上司が、そこに居た。
不審げな顔をした斗真は、次に和奏がそれまでずっと見ていた方を見遣り、そこに見覚えのあるセーラー服の後ろ姿を見つけた。
「都子……あいつ、また」
「あ、違うんですっ」
苦々しい顔でそう口にした斗真に、和奏は慌てて声をかける。
「都子さんは、その、きっともう来ないと思います。多分……全部、これで終わりです」
恐らくあの少女はその為に今日、和奏へ会いに来たのだろう。燻り続ける自分の気持ちに、ケリをつける為に。
◆ ◇ ◆
立川は車の外に立ち、都子が戻ってくるのを待っていた。今日は一人で行きたいからここで待っていろ、と待機を命じられたのだ。都子の様子がこれまでと違っていた為に、恐らく今日で決着がつくのだろうと立川も思っていた。
先日、つい出過ぎた発言をしてしまった。その事を立川は後悔する気持ちもあった。けれど、もしかするとあの発言があったから、都子も考え直したのかも知れない。それならば――。
不意に立川の視界に見慣れた姿が映る。都子が長い黒髪を揺らしながら、小走りに駆けてきた。
「お嬢様。おかえりなさいませ。……大丈夫ですか」
車の手前まで来ると、都子は呼吸を整えながらフフンと強気に微笑む。
「大丈夫よ。わたしを誰だと思ってるの? 何を心配していたのかしら」
立川が後部座席の扉を開けると、都子はその中に乗り込む。まるで傷付いてなどいない、何も無かったのだと、彼女は強気な表情だった。
立川は少しだけ考え込んだ後に、
「失礼します」
と、自らも後部座席に乗り込んだ。
突然の事に都子は奥へ追いやられるように移動しながら、大きな瞳を更に大きく円くした。
「ちょ、ちょっと立川、どうして貴方がこっちに――」
運転手が後部座席に乗り込んでは、車が動かないではないか。怪訝な顔をする都子の艶やかな髪に、そっと立川の手が触れた。父が娘に、兄が妹にするような自然な仕草で、立川は都子の頭を優しく撫でる。
「立――」
「……よく、我慢しましたね」
「…………」
そんな彼の言葉を聞いた瞬間、都子の瞳からぽろりと大粒の涙が零れた。それまでずっと堰き止めていたものが、決壊して一気に溢れ出す。
「な、何よそれっ……子供扱いしないで……っ」
立川の手は大きくて温かくて、何よりも優しかった。
全て見透かされていたようなその動きに、都子はどうしようもなく切なくなる。溢れる涙を止められない。
「大体、貴方はねっ、いつもそうやって余計なお世話ばっかり……っ」
「すみません。ですが一人で泣くより、この方がまだ気持ちは楽じゃありませんか?」
都子は答えない。ただ黙ってぽろぽろと涙を流しながら、それを誤魔化すように立川の胸に顔を押しつけた。
これで終わりだ。今度こそ本当に、都子の恋は終わりを告げた。多分生まれた時からずっと、たった一人に恋をしてた。両手でも足りない月日を重ねた恋が、今、ようやく。
――だけどね、斗真くん。わたし、本当に貴方の事が大好きだったのよ。
今回で都子編終了です。次回からまた少し展開します。