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「カナ、最近何かあった?」

「えっ?」

「ここ数日ちょっと変だよ。あたしの勘違いだとか、カナが大丈夫ならいいんだけど」

 昼休憩の時間、彩夏と共に会社近くのファミレスに入った和奏は、一息ついた所で彩夏にそんな事を言われ、思わず目を円くした。斗真と都子を巡る問題についての悩みを、自分はそんなにも表に出してしまっていたのだろうか、と。

 水を一口飲んだ和奏は、少し迷ってから躊躇いがちに口を開いた。

「……彩さんはさぁ。こう、彼氏さんを好きな人が居た場合、どういう風に心の対処をつけるのかなって」

「何、まだ主任にちょっかいかける女が居たの?」

「そういう訳じゃ……ない事もないんだけど……」

 ぽろぽろと大粒の涙を零していた都子を思い出す。どうにもあの少女に対して複雑な想いを抱いてしまうのは、自分が斗真の本当の恋人ではないからだろうか。契約の事を話す訳にはいかないが、しかしこのままではあまりにも――。

 眉を寄せて口籠った和奏は、手持ち無沙汰におしぼりを開いては畳み、開いては畳みと繰り返した。

 彩夏は少し考えた様子を見せた後に両腕を組み、

「うーん。まあ、どうしようもないわよね」

 と、唇を尖らせながら言った。

「どうしようもない、かなぁ?」

「そりゃそうよ。……んー、詳細は伏せるけどさ。あたしの彼氏って結構モテるんだわ、これがまた。凄い数の女が近寄ってくるの」

 一体どんな彼氏なのだろう。これまで敢えて彩夏の恋人について訊いた事は無かったが、こんな話を聞くと段々と気になってきてしまう。

 彩夏は溜息混じりに続けた。

「だから正直、気が気じゃないよねぇ。そんなモテる相手と付き合わなきゃいい、って話なのかも知れないんだけど。でもやっぱり好きだし」

「好き……」

「そう。誰よりも一番、あたしがあの人を好きってつもりだからさ。負けらんないじゃん。やっぱそこだけは譲れないわよね」

 サッパリとした表情で言い切った彩夏は、和奏からすると何だか眩しく見えるような気がした。

 誰よりも一番好き、と。果たして自分はそう言い切れるだろうか? つい先日、都子に涙ながらに斗真への想いを告げられた事で、ようやく理解した程度の恋心で。そもそも、偽物の恋人の自分がそんな事を思ってもいいのだろうか?

 彩夏はテーブルの上で腕を組み、和奏の顔を下から覗き込むようにしてくる。カールされた彼女の髪が、ふわふわと肩から流れた。

「カナだってそうじゃない? 主任の事を一番好きなのは自分だって思ったら、他の女になんか絶対譲れないでしょ?」

「でも、私よりもその他の子の方が、もっと主任の事を好きだったりしたら……」

 和奏の発言を聞いた彩夏は、一瞬眉を顰め、直後に和奏の額に向かって指を弾き飛ばした。

「うりゃ」

「痛っ!」

 痛覚を口にしてから、和奏はデコピンをされたのだと気付く。目の前の彩夏は呆れたような顔でこちらを見ていた。

「何言ってんのアンタ。主任の事好きなんじゃないの?」

「う……それはその、好きだけど……」

 けれどもそれは、つい最近自覚したばかりの感情だ。胸を張って言える事ではない。そんな事でいいのだろうか。

 しかしそんな和奏の考えなどお見通しとでも言うように、彩夏は明るく笑った。

「ならいいんだよ、それで。もうちょっと自信持ちなさい。ウジウジすんの、カナらしくないよ」

 彩夏は何も事情を知らない。けれど、それでいいのだと言って貰えた、たったそれだけの事でも和奏の気持ちは不思議と軽くなった。悩んでいてもどうしようもないという事だけは間違いがない。

「……ん。そうだね。ありがと、彩さん」


 ◆ ◇ ◆


 少し古めかしい雰囲気のあるその喫茶店は、今日の待ち合わせ相手から立川が指定された店だった。先程届いたコーヒーを口にしながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた立川は、

「立川くん」

 と、不意に呼びかけられ、そちらへ意識を向けた。

「すまないな。こちらが呼び出しておいて遅れてしまって」

「いえ、大丈夫です。お疲れ様です」

 そこへ現れた斗真は、立川の正面へ腰を下ろす。店員にコーヒーを注文した彼は、眼鏡のブリッジを一度押し上げてから、ネクタイを少しだけ緩めた。

「それで、都子の調子は?」

「最近になって、少しずつお食事も取られるようになりました。今すぐには難しいかとは思いますが、時間が解決してくれると思います。それと――」

 立川は都子の事を報告する。彼が斗真にこうして都子の報告をするのは、今日が初めてではない。寧ろ、彼らはこれまでも同じような機会を設け、都子についての対処を相談する事があった。

 斗真にふられた直後は飯も食わず夜もあまり寝ていない様子だったが、時間が経つにつれて少しずつ元通りに回復しているようだった。物心ついた頃からずっと育てていた恋心を手折られ、一時はどうなる事かと立川も心配だったが、最近の様子を見るとそこまで心配する事も無いように思えてきた。

 一通り立川の話を聞き終えた斗真は「なら良かった」と小さく呟いてから、神妙な顔で続けた。

「……和奏に」

「はい?」

「和奏に接触した様子は、あるだろうか」

「羽山さんに、ですか?」

 斗真は先日の和奏の事を思い返していた。

 突然「都子と結婚する気は無いのか」「せめて偽の恋人だと告げるべきではないのか」と言ってきた和奏。彼女が何の原因も無しに、いきなりそんな事を言ってくるとは考え難い。

「私が知っている限りでは、特にそんな様子はありませんでしたが」

「そうか……」

 読みが外れたな、と斗真は苦笑交じりに続ける。

「何かあったのですか?」

「少し、な。和奏の様子がおかしくて……気のせいならいいんだが」


 ◆ ◇ ◆


 ――紅茶が飲みたいわ。


 時計が二十時を回った頃、内線で都子にそう言われた坂口は、都子の部屋まで紅茶を運ぶ準備をしていた。そこへ通りがかった立川は、まだ他に仕事が残る坂口に代わり、自らが紅茶を運ぶ役目を受けた。

「はい、これお嬢様がお好きなクッキー! これもしっかり召し上がってもらって!」

 最近の都子が少しずつ元気を取り戻している事が、坂口には嬉しかったらしい。夕食を終えた後だというのにクッキーはどうだろうか、と考える立川の背をバンバンと叩き、後は任せましたよ、と続ける。

 バターたっぷりのクッキーは実に良い匂いがした。トレイの上に乗ったクッキーとアールグレイの香りを感じながら、立川は都子の部屋の前に立つと、きっかり二回扉を叩いた。

「お嬢様。紅茶をお持ちしましたよ」

「ありがとう。入ってちょうだい」

 中から聞こえる都子の声も、一時期に比べれば幾分か張ったものになった。

 大丈夫。少しずつ彼女は回復している。立川はそう考えながら、静かに扉を開けた。都子はソファに座り本を読んでいたようだ。

 紅茶を受け取った都子は、クッキーにも手を伸ばした。夕食もちゃんと食べていたようだし、食欲も大分戻ってきたらしい。

 役目を終え、一旦下がろうとした立川を都子が呼びとめる。

「ああそうだわ、立川。明日なんだけど、学校の帰りにデパートに行きたいの」

「デパートですか? かしこまりました」

 何処かへ出掛けようという意欲が湧いてきたのは良い事だ。しかし、朗らかに返す立川に対して、都子の表情は少しの翳りを帯びたものになる。

「新しいハンカチを、ちゃんと買ってお返ししなきゃと思って……」

「お返し……?」

「ええ。羽山さんに」

 思ってもみない名前が都子の口から出て、立川はハッと目を瞠った。

 同時に、斗真に問われた事を思い出す。都子が和奏に接触した様子は無かったか、と。迂闊だった。立川とて、都子の専属使用人という訳ではない。ほぼそのような状態ではあるものの、かと言って都子と四六時中共に居る訳ではないのだ。

「この間ね、偶然会ったの。少し話したわ」

 そんな立川の様子には気付かず、都子はぽつぽつと零すように続けた。

「斗真くんの事とかを話して、悲しくて悲しくてどうしようもなくて……斗真くんを奪らないでって言いながら、わたし泣き出しちゃって……そうしたらハンカチを、だから」

「そんな事を仰ったんですか?」

 都子の言葉は立川の声に遮られる。

「立川……?」

 初めてだった。主の言葉を使用人が遮る事も、彼が都子の前でここまで低いトーンの声を出した事も。

 だから都子はその言葉の意味が理解出来なかった。言葉よりも前に、その状況に理解が追いつかなかった。

 見上げた立川の顔は――これまでに都子が一度も見た事が無いほど、険しいものだった。

 そして彼は言う。


「奪らないでも何も、そもそも斗真様は最初からお嬢様のものではありません」

「え……」


 それはあまりにも当然の言葉だ。けれど、都子はやはり理解出来なかった。言葉の内容よりも、立川がそれを発言しているという事が。

「お嬢様の恋は子供の我儘と同じです。自分が好きだから、自分が欲しいから……。斗真様のお気持ちや、お相手の羽山さんのお気持ちを無視して、彼らを傷つけて……」

「それは……」

「そんなものは恋とは呼べません。ただの我儘です」

「…………」

 都子には返す言葉が無かった。

 子供の我儘。

 自分の恋は、そうだったのだろうか? 恋だと思っていたものは、恋とも呼べないものだったのだろうか?

「……差し出がましい事を申しました。失礼しました」

 立川は神妙な表情のまま頭を下げ、部屋を出ていく。後には呆然とした都子が一人、静寂の中に取り残されるだけだった。




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