―13―
「立川さん。立川さん、ちょっと」
キッチンの前を通った時、使用人仲間である坂口に呼び止められた立川は、一体何の話かを予測しながらそちらへ向かった。
「どうしましたか?」
眉を下げて難しい顔をした中年の男女は、二人同時にはぁっと溜息をついた。坂口夫妻は夫が料理人、妻が家政婦として夫婦揃って国峰本家で働いている。彼らは立川よりも早くからここに勤めていた。
そして坂口夫妻は揃って皿を指し示す。サラダもスープもベーコンもクロワッサンも、何もかもがまるっと残った皿を。
「お嬢様、ご朝食をまともに取られなくなって、もう三日ですよ。今朝もカフェオレを一杯召し上がっただけです。こんな事、今まで無かったのに」
「そう、ですか……今日も、召し上がりませんでしたか……」
都子が部屋で伏せて泣いていた日、立川はすぐに斗真に連絡をとり、事の顛末を聞いた。
立川には、斗真の行動を責める事は出来ない。斗真が都子に応える事が無いと分かっている以上、それはいずれ通らざるを得ない道だったからだ。避ける事など出来なかった。
しかし、三日だ。
都子はあれから、朝食どころか昼食や夕食もほぼまともに取っていなかった。何とか軽い物だけでも、と思うが、どうにも喉を通らないらしい。この状態が続けば、いつか確実に倒れてしまうだろう。
とは言え、いつまでも食べない訳にもいかない。きっと時間が解決してくれるだろうと立川は思う。ただ、それがいつになるかはまだ分からない。
◆ ◇ ◆
一日の業務を終え、いつものように彩夏と共に帰路についた和奏は、駅へ向かう途中にある公園でふと『彼女』の姿を見とめた。すっかり見慣れたセーラー服の彼女が、一人でこんな所を出歩くなど珍しい。思わず和奏は足を止めた。
「カナ? どうしたの?」
「うん……ごめん彩さん、ちょっと用思い出したから先行ってて」
「そう? 分かった、じゃあまた明日ねー」
手を振る彩夏に、同じように手を振って返しながら、和奏は都子の元へ足早に向かった。
わざわざ声をかけにいく義理など無い。寧ろ、見なかった事にしてさっさと帰ってしまえばいいのだ。けれど、和奏にはそれが出来なかった。何だかいつもと都子の様子が違うような気がしたからだ。
「都子さん!」
呼びかけると長い黒髪を揺らしながら都子が振り向いた。セーラー服の少女は、和奏の姿を見つけると驚愕に目を見開いた。会社近くの公園ではあるが、どうやら彼女に待ち伏せされていた訳ではないらしい。
――あれ?
都子に近づきながら、軽い違和感を覚えて和奏は首を傾げた。
この少女は、少し痩せたのではないだろうか。ただでさえ細かった都子の線が更に細くなっているように見える。それにいつもの覇気が感じられない。いつもと様子が違う気がすると思ったのは、どうやら勘違いではないようだ。その証拠に、和奏を見ても都子はいつものように噛みついてはこなかった。
「都子さん、えぇと……今日はお付きの方はいらっしゃらないの?」
「ええ、今日はわたし一人で……歩いていたら、いつの間にかこんな所まで……」
来ていました――と都子は結ぶ。やはりその声には覇気が無かった。これは一体どうした事だろう。
そのまましばらく黙りこくっていた都子が、不意にポツリと零すように言った。
「あの、羽山さん。一つ訊いてもいいですか」
「……? どうぞ?」
どうにも調子が狂ってしまう、と思いながら、和奏は都子に続きを促した。
一体何だろうか。今まで都子がこのように静かに話す事は無かったし、わざわざ断ってから発言する事も無かったように思う。やはり、何かがおかしい。
「羽山さん、いつから斗真くんと付き合ってらっしゃるの?」
「え……」
斗真に関した質問、という所では想定内であり、けれども肝心の質問内容自体は想定外でもあった。
「えぇと……九月、かな。まだそんなに長くはないんです」
あの日――借金を完済する代わりに恋人の真似事をする、という契約を交わしてから、まだ三ヶ月も経っていない。こうして考えてみると、この短い期間でもそれなりに色々とあったような気がした。
和奏の返答を聞いた都子は「そう」と短く呟き、そのまま俯いた。いつもの都子ならばきっと「たったその程度で」「そんな短い期間では斗真くんの事は何も分からないでしょう?」「わたしの方が斗真くんの事は知っています」ぐらいは返してくるだろう。
しかし、そんな都子からの言葉の砲撃は無かった。
その代わりに。
「……奪らないで」
「え?」
和奏は最初、その声が聞こえなかった。否、聞こえなかったのではない。聞こえていたけれど、意味が分からなかったのだ。
掠れるような声で都子はもう一度重ねた。
「斗真くんの事……奪らないで下さい……お願い……」
都子の白い手はプリーツスカートの端できつく握られ、ぶるぶると小刻みに震えていた。その細い肩も、艶やかな黒髪も、微かな呼吸すらも震えている。
「都子さ……」
「今、自分が凄くみっともない事を言ってるって分かってる……! フェアじゃない……こんなの、お願いする事じゃないってのも分かってます、だけど……!」
そこで一度言葉を止め、都子は顔を上げた。それまでずっと俯いていた彼女の顔を正面から見て、和奏は息を呑んだ。都子の大きな瞳には大粒の涙が滲んでいた。
「だけど……それでも、斗真くんが好きなの……。ずっと斗真くんのお嫁さんになるって、わたし、それだけを考えてきたの……。わたしには……それしか無いの……」
「都子、さん……」
あの気の強い都子が、ぽろぽろと涙を零している。演技なのだろうと疑う余地すら無かった。これまで和奏が見てきた限り、恐らく都子はそこまで器用ではない。
きっと、何かがあったのだ。斗真と都子の間に、何かが。
「お願いします、羽山さん……」
けれど和奏には、そんな都子の言葉に応える事は出来なかった。
「斗真くんを……奪らないで……」
何故なら。
奪らないでも何も、そもそも、最初から和奏は偽物の恋人なのだから。
偽物には最初から、何の権限も用意されていない。あくまでも仕事だから彼の恋人を演じるだけだ。それ以上の権利は無い。
そしてここへ至り、ようやく和奏は気付く。
ずっとその予感はあったのだ。けれども、気のせいだと思うようにしていた。ずっと思い過ごしていた。だけどもう誤魔化せない。
斗真を好きだ。
多分、いつの間にか、きっと、確実に。
和奏は彼を好きになっていた。
まるで子供のようにしゃくりあげる都子に対して、和奏には何も言えなかった。そういう契約だとは言え、同じように彼を想う少女に嘘をついて、彼女の恋の芽を摘み取ろうとしている和奏には。
フェアじゃないのは都子ではなく、和奏の方だと言うのに。
だから和奏は、ぽろぽろと涙を流し続ける都子の頬に、自分のハンカチを押し当てる事しか出来なかった。
◆ ◇ ◆
PCの電源を落とすとそれまで響いていた機械音が無くなり、オフィス内は静寂に満たされた。フロアに残っているのは残業のあった斗真と、彼の残業に付き合って残っていた和奏の二人だけだ。
和奏は昨日の事をぼんやりと思い返していた。あの後、しばらくして都子は気まずそうにあの場を立ち去り、そして和奏も仕方なくそのまま帰ってきた。
昨日の事は斗真に報告していない。何となく、そうする事が憚られるような気持ちになったからだ。
机周りを片付けた斗真が立ち上がると、和奏は鞄を手にして彼のデスクまで歩み寄った。
「……あの。お訊きしたい事があるんですが」
「何だ」
「都子さんと結婚されるおつもりは、まったく無いんですか?」
言いながらも、和奏は一体自分が何故こんな事を言ってしまったのか分からなかった。
ただ、和奏は自分が都子と同じように斗真を好きなのだと気付いてしまった瞬間、今の自分の立ち位置が、フェアじゃないものだという思いに駆られてしまった。契約で『恋人』の立ち位置に居る自分。それではあまりにも、都子に対して不誠実ではないだろうか、と。
しかし和奏の言葉に、斗真はあからさまに眉を顰めた。
「一体何だ唐突に。馬鹿言うな」
「でも……だって幼い頃から知ってる訳だし、それに都子さんの事、お嫌いじゃないんでしょう?」
「俺はロリコンじゃない」
「ロリコンって……そんなの、あと数年経っちゃえば気にならないじゃないですか」
そこまで言うと、斗真ははぁっと大きな溜息を吐き出した。眼鏡の奥の瞳を眇め、和奏を見下ろす。彼の強い視線に気圧されたように、和奏は一歩二歩と後ずさって壁を背にした。
「何だ、妙に突っかかると言うか薦めてくるな。都子と何かあったのか」
「別にそういう訳じゃないですけど……ただ、やっぱり嘘ついてっていうのは良くないんじゃないかと……」
「じゃあ訊くけどな。お前は愛の無い相手と結婚出来るのか」
「…………」
「それに俺だけじゃない。都子にも悪いだろう。……愛の無い相手と結婚したとして、傷付くのは都子だ」
斗真の言う事は正論だった。彼は自分だけでなく、都子の事もきちんと考えている。双方共に想い合わなければ意味が無いのだと。例えこのまま結婚しても、自分の感情が都子に向けられないと分かっている以上、将来的に都子が酷く傷つく事になると。
その言葉の意味は和奏にもちゃんと分かっていた。
――だけど、それでは。
和奏の事を本当の恋人だと思い涙した都子が、あまりにも不憫ではないだろうか。
「ならせめて都子さんに、私たちは本当の恋人じゃないって、……ッ!」
その瞬間、強く壁に押し付けられる。壁の冷たい感触を背中に感じながら、和奏は目の前の顔を見た。こんな状況でも、その近過ぎる距離に心臓は激しい鼓動を奏でている。けれど、彼の眼差しは酷く冷たい。
あまりに近いその距離で、斗真は片手を和奏の肩に、もう片手では壁を押さえながら低い声を出した。
「和奏」
「っ……」
「お前、自分が何を言っているのか分かってるのか?」
耳元へ直に低い声を感じ、和奏はゾクリと全身が粟立つのを感じる。怒っている。今、彼は本気で怒っている。
「だって……」
「契約内容の漏洩は許さない。絶対にだ」
「…………」
それ以上、和奏には何も返せなかった。