―12―
都子が昼間から会社にやってきた。
そんな報告を和奏から受けた斗真は、軽い眩暈を感じたような気がしてこめかみを押さえた。
社内まで押し掛けてくるほどの非常識ぶりではないにせよ、健全な高校生としてはあるまじき行動だ。テスト期間だという事で学校をサボった訳ではないらしいが、しかし笑って過ごせるような状況ではない。
電話の向こうに聞こえる和奏の声は、やや疲れているように感じた。仕事だし図太いからあまり気にはしていませんけど、と言う和奏だが、それでも全く疲労を感じないという訳ではないだろう。それぐらい、斗真にだって分かっている。
「頃合い、か」
腹を決めたように斗真は呟いた。
極力波風を立てぬよう、都子の方から諦めてくれるのを待ちたい、と和奏には言ったものの、この段階まで来るとそれは恐らくゼロに等しい可能性である事は分かっていた。
だから、和奏の存在を或る程度都子に認知させたら、その後に告げようと決めていた。
自分が都子を選ぶ事は無い、と。
それから都子のテストが終わるまでの数日間を待ち、斗真は国峰本家を訪れた。両親が他界してから、厚意で度々世話になる事もあったその家――屋敷と呼んだ方がしっくり来るが――は、斗真にとって第二の家のような場所でもあった。今日は都子以外の家族は出払っているようだったが、斗真にとってそれは寧ろ都合が良い事だった。きっと都子を酷く傷つける事になる。あまり他の家族の顔を見たくはない。
若い女の使用人が斗真の来訪を伝えると、都子は上機嫌に彼を迎え入れた。紅茶を持ってきた使用人が下がり都子と二人きりになると、
「話がある」
と、静かに斗真が切り出した。
「お話? 何かしら?」
斗真の隣に腰を下ろしながら、都子は楽しそうに笑う。これから言われる事を彼女は知らない。
「大切な話なんだ」
「大切な……?」
一体何だろう、と首を傾げた都子は、次に思い当たったようにポンと手を叩いた。
「駄目よ、斗真くん。まだ早いわ。そりゃあ春には高等部を卒業するけど、わたしその後は大学部に進むんだもの」
「……は?」
あまりに唐突な都子の切り返しに、斗真は一瞬虚を突かれたようになってしまう。会社では決して見せない、少々間の抜けた返し方をしてしまった。そんな彼を置いて、都子は真面目な顔で続けた。
「でも決めておく所は決めておいた方がいいのかしら。お父様にもそろそろ相談した方がいいのよね、きっと」
「おい都子、何の話……」
「あのね、わたし式を挙げるなら帝国ホテルがいいと思うの。色々いい所はあるけど、やっぱり昔からある所が安心でしょ? だから――」
「都子!」
「っ!」
突然強く名前を呼ばれ、都子は大きな瞳を更に大きく円くした。次に、一体何だろう、と首を傾げる。こてりと首を傾げる仕草は愛らしいが、そこに恋愛感情を抱く事は斗真にはやはり出来ない。
都子の細い肩を掴み、斗真は彼女の瞳をしっかりと覗き込んで、告げた。
「俺は、お前とは結婚出来ない」
思えば、はっきりと否定の意を口にしたのは初めてだったかも知れない。逃げられぬように肩を掴まれた都子は、呆然と目の前の顔を見つめた。
「……斗真、くん?」
信じられない、とでも言うかのように、斗真の名を呼ぶ声が震えた。
「な……何で? どうしてそんな事言うの?」
「ここしばらく見てきて分かっただろう。俺には付き合っている相手が居る」
敢えて和奏の存在を誇示してきた。それは都子に「和奏は特別だ」と思わせる為だった。でなければ、意味が無い。契約してまで『恋人』を和奏に演じさせている意味が。
これまでの斗真の女付き合いを把握していた都子は、それが息抜きの遊びのようなものだという事にも気付いていた。どれもこれも言い寄ってきたのは相手の方で、斗真が本気になっている訳ではないようだった。だから大抵長続きはしていない事を、都子は知っていた。
そして、就職して以降の斗真に女の影は無かった。都子の知る限り、彼が学生時代を卒業してからは和奏が初めての恋人だったのだ。
「付き合ってるって……だって大学の時とか、今までの……遊びで付き合ってた人と一緒でしょ? そうよね?」
「違う。彼女は特別なんだ」
しっかりと芽を潰しておかなければならない。一片の希望も残らぬように。だから斗真は一言一句はっきりと、都子の耳へ流し込む。
斗真のその言葉を聞き、都子はしばらくの間、黙りこくっていた。彼に言われた言葉の意味を必死で整理し、脳内で咀嚼しようとしているようだった。
やがて、その薔薇色の唇が小さく声を紡ぐ。
「斗真くん……羽山さんの事が、好きなの……?」
「ああ」
「わたしをお嫁さんには……してくれないの……?」
「……ああ。出来ない」
「だって……昔、約束して……」
「お前が大人になったら、いずれ忘れるだろうと思ってたんだ。……今まで言い出せなくて、すまなかった」
都子の肩から手を離した斗真が、静かに頭を下げる。
ひゅっと都子の喉から息を呑む音が聞こえた。それ以降、彼女が言葉を発する事は無かった。
立ち上がった都子はふらりとリビングの扉へ向かう。彼女はそのまま廊下へ出ると、自室へと戻っていったようだった。てっきり目の前で泣きだされるかと思っていた斗真は、その予想が外れた事に驚きながらも、国峰本家を後にした。
車に乗り込んだ斗真は、真っ直ぐ自宅へ帰る事にした。ハンドルを握りながら、呆然とした都子の顔を思い出す。
罪悪感が付き纏っていた。
幼い頃から都子の事は知っていた。都子は我儘だが良く笑う少女で、斗真にはとても懐いていたので斗真の前ではいつも楽しそうな顔をしていた。
――あんなに傷付いた顔を見たのは、初めてだ。
斗真にとっての都子は妹のようなものだ。結婚などは出来ないが、そこを除けばこれまで普通に可愛がってきた。あのような傷付いた顔はあまり見たくはなかった。
信号が赤になる。斗真はブレーキを踏み、助手席に放った携帯電話をチラリと見た。契約で結ばれた彼女には、この事を報告するべきだろう。
「……やめるか」
だが、何となく気が引けてしまった。まったくそういう対象ではないといえ、他の女を傷つけた後で和奏の声を聞く事が、何故だか憚られる気持ちになったのだ。
◆ ◇ ◆
これまでの都子には、手に入らない物は何も無かった。
子供の頃から、友達が持つクマのぬいぐるみが可愛いと言えば、それよりももっと大きなぬいぐるみを買って貰えた。同級生がイミテーションの宝石のネックレスをつけている頃、都子は本物の宝石のネックレスをつける事が出来た。新発売の化粧品は皆よりも一足早く手に入ったし、映画の試写会のチケットだって幾らでも手に入った。
だけど――。
「うっ……うぅ……」
電気も点けない暗い部屋に、低い嗚咽が響く。ベッドに伏せて泣き続ける都子の顔は、既に涙でぐしゃぐしゃだった。
「どうして、斗真くん……お嫁さんにしてくれる、って……わたし、ずっとそれ信じて……ひっく……」
都子自身、こんなにも長い間、幼い頃の口約束を引き摺るのは少しおかしいのではないか、と気付いていた。周りの友達は皆、幼少の頃の初恋などさっさと忘れて、新しい恋をして新しい彼氏を作っている。そういう点において、都子は自分が周りと違うと分かっていた。
――でも、好きだったから。
小さい頃からずっと斗真を好きだったから。
「なのに、今更……ひどいよぉ……うぅぅ……っ」
どうせならこの想いを、もっと早く断ち切ってくれていたら良かった。だけど斗真はそうしなかった。都子が成長すれば、勝手に潰える程度の想いだと彼は考えていたのだろう。
嗚咽に混じり、コンコン、とノックの音が響いた。
「お嬢様、夕飯のお時間です」
扉の向こうから聞こえたのは立川の声だった。都子がそれを無視すると、もう一度ノック音が響く。
「お嬢様? いらっしゃいませんか?」
黙っているのだからそのまま諦めて立ち去ってくれないだろうか。こんな気持ちの時に他人と顔を合わせたくない。
しかしそんな都子の想いとは裏腹に、控え目にドアノブが回される音がした。暗い部屋の中に一筋の光が漏れこむ。
立川は最初、やはり都子が居ないのかと思ったようだが、すぐにベッドの上で丸まっている主の姿を発見して目を円くした。
「お嬢様?」
斗真が来た時、立川は屋敷に不在だった。帰宅してから斗真の来訪を聞かされ、それならばきっと都子のテンションも高いに違いないだろうと彼は考えていた。だから部屋の電気が点いておらず、泣いている様子の彼女を見て酷く驚愕した。
「……入ってこないで」
声をあげて泣いていたせいか、掠れ気味になった低い声で、呟くように都子が言った。
「……ご飯も要らないわ。だから放っておいて。……早く出ていって」
そんな主の声に、立川が逆らう事は出来なかった。