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 それからというもの、国峰都子はちょくちょく和奏たちの会社に現れるようになった。斗真の話によれば、彼女はお嬢様らしく複数の習い事を掛け持ちしているらしい。その為か、毎日やってくるという事は流石に無かったが、それでも彼女は相当な頻度で来るようになっていた。

 そして和奏の顔を見るなり、こう言うのだ。


「羽山さん、早く斗真くんと別れてくださらない?」

「どうせ今回もただの遊びですもの」

「わたしは貴方の為を思って言っているんです」

「傷は浅い内の方がいいですよ?」

「だから、早く斗真くんと別れてくださいな」


 傍若無人にも程がある。そんな台詞の数々を、彼女は和奏に向かって告げてきた。

 元々、和奏と斗真が共に帰る日は殆ど無く、大抵は和奏の方が少し早目に会社を出ていた。だから和奏が一人で居る所を、或いは彩夏など他の誰かと居る所を捕まえてそう言うのだ。そしてその後、都子は何食わぬ顔で斗真が出てくるのを待っているらしい。熱心な事だ。自分の知らぬ間に和奏という『恋人』を斗真が作っていた事が、余程気に食わなかったらしい。

 都子の発言は非常に厭味なものではあるが、凛とした表情で綺麗に背筋の伸びた美少女にそう言われると、苛立ちよりも先に迫力を感じるものなのだと和奏は初めて知った。堂々とそんな無茶苦茶な事を告げてくる都子を見て、世の中やっぱり顔なのか、などと考えてしまう。それは決して真摯な対応ではないのだろうが、別に和奏が真摯に対応するべき事でもない。

 しかし、和奏はこれが契約だから、あくまでも仕事だからと割り切っているが、そうでなかったら果たしてどうだろうかと考える。

 都子は思っていた以上にしつこかった。流石に「金を出すから別れろ」という悪役のテンプレート的な台詞までは吐かなかったが、こんなにもしょっちゅう顔を見せては「別れろ」と迫ってこられると、普通の人間ならば多少は気が滅入るのではなかろうか。

「タフな子だなぁ……友達居るのかな」

 後ろからかけられる都子の声を無視するように駅に向かって歩きながら、和奏は溜息混じりに呟いた。

 あの性格ではどうなのだろう、友達など居ないのではないか、いやでも斗真が絡まなければ態度が変わるのかも知れない、最初だけはとても好意的だったし、などと余計な事まで邪推してしまう。

「はぁ……」

 だが、どれだけ別れろと言われても和奏にはどうしようもないのだ。

 そもそも、和奏と斗真は付き合ってすらいない。ただの契約の恋人なのだから。


 ◆ ◇ ◆


 十月の夜の港はかなり肌寒い。食事をした後にふらりと立ち寄った港は、向かいにビルや工場の灯りが煌めいて、イルミネーションのように見えた。

「何と言うか……私が言うのも何ですけど、めっちゃくちゃ我儘ですね、あの子」

 タイルで舗装された道を並んで歩きながら、和奏は隣の斗真にそう言った。それはこの数日間、和奏が都子に接してきて思った事だった。


 ――斗真くんと結婚するのはわたしなんですから。他の方なんて認めません。


 その発言を初めて聞いた時、物凄い事を言う女子高生だ、と和奏は開いた口が塞がらなかった。その事を話すと斗真は渋い顔をした。

「あいつ、上に兄が二人居てな。家族に溺愛されて育ったんだ」

「成る程……」

 家族に溺愛されて育てば、あの我儘ぶりも納得がいく。いつも連れているお付きのようなスーツの男にも「早く斗真くんを連れてきなさい」だの「もう少し近くに車を停める事は出来ないの?」だの、色々と無茶な事を言っているように見えた。

 面倒臭い。

 非常に面倒臭い。

 金が関わってなければ今すぐ放り出したいぐらいに面倒臭い。

 だが、これは仕事だ。面倒だからといって、途中で放り出す訳にはいかない。

「そういえば前に斗真さん、自分の責任でもある、って言ってましたよね。あれ、どういう意味ですか」

 それは先日、彼が言っていた事だ。都子がああなってしまったのは自分の責任でもあるのだ、と。現状を見ている限り、和奏には、特に斗真に何かの責任があるようには思えなかった。

 ああその話か、と呟いてから斗真は一つ息をついた。

「うちの両親は俺が中学の時に他界したんだ」

「え……」

 それは唐突な言葉だった。話の流れが読めず、和奏はふっと隣の彼を見上げる。レンズの奥に見える涼しい目元は、ぼんやりと海の方を眺めていた。

「事故で二人とも一緒にな。俺には兄弟も居なかったし、一人きりで遺された訳だ。その後、まだ中学生の俺の面倒を看てくれたのが伯父と伯母――都子の両親だった」

 遺された斗真の親戚は都子の両親――国峰本家の人間しか居なかったという。元々家政婦を雇っていた為に家事については心配無かったが、それ以外の様々な面で斗真を助けてくれたのは伯父伯母だった。

「伯父と伯母には面倒を看て貰った恩がある。それを思えば……そう無碍には出来ないだろう。都子の事を。妹のようなものなのだし」

 これまで斗真が自分から強く都子を拒否出来なかった理由。

 それは、自分の世話をしてくれた伯父と伯母に対する義理立てのつもりであるのだと、そういう気持ちから来るものだった。

「だが、結果として俺の責任だ。都子が子供だからと侮っていた。まさかあいつがあの歳になってもまだ本気で俺と結婚しようなんて、そんな事を言ってるとは思ってなかったんだ。伯父と伯母に恩があるとは言え、もっと早い段階できっちり都子に言っておくべきだった」

「斗真さん……」

 彼を責められはしない。彼にも彼なりの気持ちの動きはあったのだろう。恩人の娘で、まるで妹のような相手に、冷たく接する事など出来やしない。子供の言葉なのだからきっといずれは忘れて、都子も新しく恋をするだろうと、そう考えても当然の事なのだ。



 そこまでを聞いて、彼にどう声をかけようか迷っていた和奏は、不意にガクンと自らの身体が大きく傾くのを感じた。パンプスの爪先が引っかかり、躓いたのだ。

「うきゃあっ!」

 大人になって転ぶのは痛いし辛い。せめて打ち身にならないように上手に受け身を――と瞬間的に考えた和奏は、次の瞬間、腕を強く引っ張られた。

「和奏ッ!」

「っと、わわわっ」

 引っ張られるままになった和奏は、そのまま軽い衝撃を受けてきゅっと目を瞑った。どうやら転んだ訳ではないらしい。薄く目を開くと、ワイシャツとネクタイが眼前に見えた。

「……ったく。危なっかしいな、お前は」

 自分の物ではない香りに包まれる。その香りの持ち主は斗真だ。彼は転びそうになった自分を助けてくれたのだ。そして彼の腕の中に収まった自分の状況を理解した和奏は、顔に身体中の血液が集中してくるのを感じた。

「あ、ご、ごめんなさい。ありがとうございます」

 片方の腕を掴まれ、背中に斗真の手が軽く回され、そして和奏の顔は彼の胸元にある。

 まるで抱き締められているようなその体勢が酷く恥ずかしくて、和奏は礼を告げながら慌てて斗真から離れようとしたが、彼は何故かそれを許しはしなかった。

「と、斗真さん?」

 固まったように動かない斗真を不審に思い、和奏は彼を見上げた。すると彼は、

「……甘い」

 と、一言だけ呟いた。

「え?」

 何を言っているのだろうか。何が甘いのだろうか。不思議そうな顔をする和奏を見下ろして、斗真は言う。

「お前、香水つけてたか」

「こ、香水ですか? つけてますけど……あんまり匂わせたくないんで、本当にちょっとだけ」

 甘い、というのはどうやら和奏の香水の事らしい。一応嗜みとしてつけてはいたが、職場で強く匂わせるのも品が無い為、和奏のつける量は本当に僅かに香る程度だった。

 これまで、斗真とこんなにも距離が近づく事は無かった。だから彼は気付かなかったのだろう。

「もう少し効かせても大丈夫だと思うぞ」

「そう、ですか?」

「ああ。これじゃ全然分からん。……これぐらい、近付かないと」

 そう言った斗真は、不意に和奏の項に顔を埋めた。斗真の鼻先が白い首筋に当たる。彼の呼吸をダイレクトに感じて、和奏は思わず身を捩じらせた。

「ひゃ……っ」

「おい、変な声出すな」

「だ、だって」

 クン、と直接香るようにされると、恥ずかしくてたまらなくなる。けれども腕を掴まれ背中を押さえられ、がっちりとガードされた状態の和奏には動く事など出来やしない。この状態で彼が喋ると、吐息が直接首や耳に当たってしまうというのに。

「ん……柑橘系。グレープフルーツか」

「やっ……」

 もしかして彼は、わざと息がかかるように喋っているのだろうか。耳の近くに感じる低い声が直接鼓膜を震わせるのを感じながら、和奏はびくんと小さく肩を跳ねさせた。

 やがて満足したらしい斗真は、ゆったりと和奏の身体を解放した。よろりと彼の腕から逃れた和奏は、二十センチ以上高い場所にあるその顔を睨み上げる。

「……セクハラです」

「何の事だ」

「セクハラです! 超セクハラです!」

「ぎゃーぎゃー喚くな。ちょっと確認しただけだろうが」

「ううう……」

 言葉にならない声を唸りながら、和奏は首の後ろに手を回した。先程まで斗真が顔を埋めていた部分。彼の吐息を直に感じた場所。


 その場所が、何だか妙に熱くて。

 物理的なものではない熱を感じて。


 困った顔をする和奏の前に、スイと大きな手が差し出された。

「ほら」

「え?」

「また転ばれたらかなわんからな」

 彼の言葉と差し出された手の意味を考え、数秒の間を置いて、和奏はその手に自らの小さな手を乗せる。すると斗真は当然の事のように和奏の手を握り締め、歩き出した。

 手を引かれながら歩く和奏は、首筋だけではなく繋いだ手からも熱を感じて、その熱さに対して一体どういう判断を下すべきかを悩んでいた。




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