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気がついた時、羽山和奏は二百万の借金を背負っていた。
冗談のような話だが、これが現実なのだから仕方が無い。借金の連帯保証人になど、決してなるべきではなかったのだ。それが例え、愛しい恋人のものだとしても。
和奏の恋人――今となっては元カレだが――は、少し気弱で穏やかな性格の青年だった。アキラという名の彼は和奏よりも一つ年下で、和奏がまだ短大時代のアルバイト先で知り合った相手だった。
バイトを続けている間は交際に発展する事も無かったが、和奏が短大卒業と同時にバイトを辞めてからというもの、段々と彼からのアプローチが増えてきた。そして、それなりの期間で友情関係を築き、関係が恋人に発展したのが二年前。和奏が二十一の時だった。
煙草は吸わない、酒もあまり飲まない。優しいし穏やかだし、女に手をあげる事も無い。
そんな彼の唯一にして最大の欠点。
それがギャンブルだった。
煙草を吸おうが酒を飲もうが構わないが、ギャンブル癖のある男だけは避けるべきだった。けれど、アキラはそこを除けば本当に優しい男だったのだ。その優しさは、堕落の裏返しだったのかも知れないけれど。
際限の無いギャンブルから借金を作ってしまうのはよくある話だ。そしてその連帯保証人を恋人に頼むのもよくある話だ。更に頼まれた恋人が断りきれず連帯保証人を請け負ってしまうのも。
その結果、和奏は蒸発した恋人の代わりに二百万の借金を抱える事になった。
或る日突然、彼は姿を消した。「ごめん。探さないでくれ」という、何ともありがちなメールを残して。その後、彼の携帯は一切繋がらない。恐らく死ぬつもりは無いだろうと思う。アキラにそんな勇気が無い事を和奏は分かっていた。
腹が立つよりも何よりも一番最初に感じたのは、どうしようもない虚しさだった。
アキラは蒸発した。和奏に全てを押しつけて。つまり、彼にとっての和奏は所詮その程度の存在だったのだ。大量の借金を押しつけて姿を消してしまえるほど、彼の中で和奏は軽い存在だったのだ。
どれだけ「ギャンブルをやめて」と頼んでも聞き入れて貰えなかった時点で、それは察するべきだったのかも知れない。それでも和奏は彼が好きだった。だからその事に気付かないふりをしていた。
その次に、和奏は最も単純で最も大きな問題にぶち当たった。
――どうやって借金を返済するか。
貯金を全くしていない訳ではないが、二百万には手が届かない。今までにも、アキラのギャンブルで彼に金を貸す事が幾度もあったせいだ。
弁護士に相談する事も考えたが、ネットで色々調べた所、悪徳弁護士に捕まり逆に酷い目に遭った、という話を幾つも目にし、すっかり気が殺がれてしまった。勿論きちんと手続きをして何とかしてくれる弁護士も居るだろうが、それでも自己破産の流れに持っていく事になるだろう。出来る事ならそれは避けたい。
かと言って、毎月の給料からタラタラ返していては利息が膨らむばかりだ。連帯保証人になった段階で、和奏には返済能力があるという事になるが、このままでは利息地獄から抜けだせなさそうだ。
そして実家に泣きつく訳にもいかなかった。女手一つで自分と妹を育ててくれた母に、これ以上の迷惑と余計な心配はかけられない。
「……会社、辞めるかなぁ」
自宅マンションのベッドの上にひっくり返り、白い天井を見上げながら和奏はぽつりと呟いた。
一度言葉にしてしまうと、その重みが圧し掛かってくる。けれど、これしか無いのではないか。普通の会社勤めのOLでは、いつまで経っても完済出来なさそうだ。会社を辞めて水商売で働いたとして、全てカタがついた後の再就職はこのご時世では難しいかも知れないが、まだ二十三歳だし、とりあえず派遣やバイトからならばそれなりにある筈だ。
会社を辞めると言っても勿論、今日辞めますと言ってその日に辞められる訳ではない。それから退職までの間に水商売の職を探そう。幸い、昨今の世の中はそちら系の職の人手を大量に募集している。全くのズブの素人である和奏でも、きっとその世界に入り込めるだろう。
どれだけ嘆いたとしても、こうなってしまったものはなってしまったのだから仕方が無い。仮にアキラが戻ってきたら腹いせに一発殴りはするだろうが、恐らく戻ってくる事の無いであろう彼の事をどれだけ考えても、それで借金を返済出来る訳ではないのだ。
そういう点において羽山和奏という女は、多分そこそこに踏ん切りのいい――或いは良過ぎる性格だった。多少なりとも、間違った方向に。
◆ ◇ ◆
和奏は大手書店のネット販売部に所属していた。短大を卒業してから、就職して今年で三年目になる。可も無く不可も無くそれなりにコツコツと続けてきた仕事だが、やはり辞めるとなると相応の覚悟が必要でもあった。
まずは直属の上司に申し出なければならない。
和奏の上司――ネット販売部の主任である国峰斗真は、社内で和奏が苦手としている相手だった。
別に嫌がらせをされている訳ではないし、見た目やそれ以外の何かが生理的に駄目という事も無いのだが、彼は基本的に言葉がきつく、常に難しい顔をしていて何となく怖い印象があった。切れ長な瞳と細いフレームの眼鏡が、更に気難しそうな顔を演出している事もあるかも知れない。
仕事は出来るし顔もいいし二十代後半の独身だし、言葉は確かにちょっときついけどその後のフォローもしっかりしてるし、と言って女子社員やアルバイトの女性には人気のようだが、和奏は如何せん「怖い」という印象を拭う事が出来なかった。
彼は電機関係や重工業などで有名な国峰グループの子息で、いわゆるお坊ちゃんだという話を聞いた事がある。あの人気ぶりを思うに、玉の輿を狙っている女が案外多いのかも知れない。
まあそんな事はどうでもいいのだ。とりあえず、適当な時に捕まえて話をしなければならない。
そして、いつ話そうかいつ話そうか、と迷っている間に終業の時間になってしまった。各々帰り支度を始める中、和奏はまだデスクで何やら作業をしている上司の元へ歩み寄る。
「あの、すみません、主任」
おずおずと呼びかけると、斗真は和奏を振り返った。別に睨まれている訳ではない筈なのだが、眼鏡の奥の切れ長な瞳が鋭い眼光を放っており、和奏は一瞬怖気づく。
「何だ」
「あぁ、ええと……ちょっとお話があるんですが、お時間宜しいでしょうか」
◆ ◇ ◆
人の居ない休憩室で、和奏は斗真と向き合っていた。
出来る事ならあまり細かい事は話したくなかったが、理由も話さずに退社という訳にはいかなかった。「辞めたい」と言えば「何故」と返ってくるのは至極当然の話だ。仕方ない。適当な嘘をつくよりは正直に話した方が分かって貰えるだろうと、恥を忍んで、和奏は借金について包み隠さず話す事にした。
和奏の話を一通り聴き終えた斗真は、渋い顔をしたまま開口一番こう言った。
「お前は馬鹿か」
――ごもっともです。
あまり得意ではない上司のこの言葉に、和奏自身も賛同してしまう。返答には苦笑いしか出て来なかった。
本当に馬鹿なのだ。借金の連帯保証人など絶対になるべきではなかった。今後、もしも連帯保証人になろうかどうしようか迷っている人間が現れたら、和奏はその相手を全力で引き留める事だろう。
「大体、辞める必要なんか無いだろう。羽山の給料でも返済能力は充分ある筈だぞ」
「はぁ……それがその、ちょっとこう利息がですね、アレでソレな所でですね、いっぱいあってですね」
「そんなにヤバい所から借りたのか」
「みたいですね」
ギャンブル癖のあるフリーターが金を借りられる所といったら、そこそこ限られてくるものだ。トイチほどではないが、利息がなかなか厳しい所からアキラは借金をしていた。
引き攣った表情で返す和奏に、斗真はあからさまに大きな溜息を吐き出した。
「それで?」
「はい?」
唐突に問われて和奏は首を傾げる。呑み込みの悪い奴だ、と斗真は再度溜息をついた。
「羽山が借金を返したくて辞めるつもりなのは聞いた。その後、辞めてどうする気だ」
「え? ああその、まだあまり決めてないんですけど、とりあえずキャバクラ辺りで……」
「無理だな」
「へっ?」
冷たい声色で短く言い切られ、和奏はポカンと口を開けた。
「大した話術も無い、際立って美人って訳でもない、キャバ嬢として働きだすには年齢は上の方。そんなお前にキャバクラで金が稼げる訳が無いだろう。初日に追い出されるのがいいトコだな」
「うぐっ……」
――そこまで言わなくてもいいんじゃないか。
いきなり女として色々全否定されたような気がして、しかし言い返せるだけの語彙が無ければ頭も回転せず、和奏は難しい顔で黙りこくった。斗真は淡々とした口調で続ける。
「じゃあスナックかと言えば、これも今とほぼ同じ理由で却下だな。羽山の場合、根本的に水商売で働けそうにない」
やっぱり女として全否定されているような気がしないでもない。水商売で働くには、何よりも女らしい振る舞いや気遣いが必要だ。そこが無理だと言われてしまっては。
「そうすると、お前に残された道は風俗かAV女優って所か」
「…………」
自分の身体を売ってお金を得ている女性たちがいる。それは多分きっと、かなり精神を擦り減らす仕事なのだろう。それも立派な仕事だと思うし、別に軽蔑する事も無いが、和奏にはそこまでの勇気はまだ無かった。
返すべき言葉を失った和奏は、それでも何とか反論を試みる。
「きゃ、キャバでも何とかなります、多分」
「ならないな」
「そんな事……」
「ならない。絶対にどうにもならん。三年間毎日お前を見てきた上司として断言してやる。羽山には向いていない」
「うぅ……」
あまりにもきっぱりと言い切られ、和奏はいじけ気味に、内巻きにカールしたボブの毛先を軽く摘まんだ。キャバ嬢になるならこの髪も伸ばして巻かなければならないか、などと的外れな事を考えたりもしたのだが、今、目の前の上司にその辺りの可能性を全て潰されてしまった。
和奏だって出来る事ならば会社を辞めずに事を進めたい。だが、それでは諸々厳しいと考えた末の結論なのだ。そんなものはただの愚行だと言われようと、和奏が考え得る中で出した答えがそれだった。
「――そこで、だ」
クイ、と眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、話を区切るように斗真は言った。
「二百万、明日にでも払える仕事がある」
「えっ!?」
唐突にそんな事を言われ、和奏は思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。今、この上司は何と言っただろうか。二百万、明日にでも払える――と?
「そ、それはAVや風俗以外でですか?」
「ああ。と言うか、仮にAVや風俗でも明日二百万は無理だろうな」
「じゃあ、まさかドラッグの売人とかそういう……」
「お前な。俺がそんなヤバい仕事の話を持っているように見えるのか」
「えーと……」
「おい、そこは即座に否定する所だろうが」
「あ、すみませんっ。見えません、全然見えませんっ」
適当に話を濁そうとする和奏に、斗真はあからさまに不服そうな顔をしたが、そこを突っ込んでも仕方ないと判断したらしい。一つ咳払いをして、それから和奏の顔をじっと見据えた。
「どんな仕事か、聞きたいか?」
「きっ、聞きたいです!」
そんな美味い仕事がある訳が無い。胡散臭過ぎる。
そう理解していながら、それでも和奏はその話に食いつかずにはいられなかった。とりあえず聞くだけならタダだ。明らかにヤバそうな話だとしても、聞いてから考えればいい。
身を乗り出す和奏に斗真は薄く笑った。決して穏やかでも何でもなく、釣り餌に目当ての魚が引っかかった、という笑顔で。
「俺の恋人役だ」
「………………………………はい?」
たっぷり数秒の間を置いて、それでも和奏は何の意味もなさないたった一言しか発する事が出来なかった。
何だ今の台詞は。これは少女漫画かドラマか、それともハーレクインロマンスか――なんて考えが一気に和奏の脳裏を猛スピードで過っていく。
「えっと……あの、主任。すみません、今何て?」
「俺が二百万払ってやると言ってるんだ。その代わり、俺の『恋人』になってくれ。……ビジネスライクな関係で」