86 大切な時間 1
「多分さあ」
今までで一番遅い時間の帰り道。
華恋が呟いて、良彦が顔を上げる。
「なんだ」
「藤田がしっかりしすぎなんだよ。もっと、子供らしくお父さんに甘えてみたらいいんじゃない?」
「親父はヨレヨレなんだよ。甘えたらますますヨレるかもしれないぜ?」
「わかんないよ。ここは俺がしっかりしなきゃって思ったら、隠してた馬力が出るかも」
「……そうかなあ」
どこだかわからない公園から家までの道のりはわからなくて、良彦の歩みに合わせるしかない。
人通りのない冬の夜道はとても静かで、小さな声でも、はっきりと華恋の耳に届いた。
「あんたが頭が良すぎるから起きた悲劇だね。例えば祐午君みたいな子が息子だったら、お父さんはものすごく頑張ると思うな」
「お前、さりげなくヒドイこと言ってない?」
つっこんでおきながら、良彦もニヤリと笑っている。
「でもま、確かにそうかも。俺も姉ちゃんも、父ちゃんに頼れないって考えすぎてたのかな」
「お父さんって基本的に気が利かないもんね。隙のなさそうなお嬢さんですねなんて、確かに褒め言葉なのかもしれないけど。私がそれ聞いて喜ぶと思ったのかな? 想像力なさすぎて、バカみたいだよ」
「なんだ今日は。随分言うな」
「今日は……」
今日は特別だ。
ずっと一人で、必死に悲しみをこらえていた少年が元気を出してくれるなら、なんだって言える。
とはいえ、さすがに気持ちをそのまんま本人に伝えるのは恥ずかしい。
「今日は?」
「なんでもないよ」
いつの間にやら景色は見覚えのあるものになっていて、道の先には美女井家が見えていた。
玄関前で立ち止まり、二人で向かい合う。
「サンキュー、ミメイ。お前のおかげで、ゴーさん家に行かなくて済んだ」
小さく笑い合ってから、華恋は首を傾げた。
「うちに寄ってかないの?」
「今日は父ちゃんとじっくり話すよ。思ってたこと、全部正直に言う。早く帰らないと徹夜になっちゃうから」
「うん」
「おじさんとおばさんにもよろしく言っといて。明日の朝また来るよ」
「わかった。ゆうちゃんによろしくね」
最後にニカっといつもの笑顔を浮かべると、大きく手を振って良彦は帰っていった。
その後姿をしばしの間見送り、華恋も家の中へと入る。
「華恋! よかった、帰ってきた!」
家に入るなり父は大きな声をあげて駆け寄ってきて、珍しく長女をぎゅうっと抱きしめている。
「ちょっと、なにすんの」
「なにって、心配してたんだぞ!」
これは当然の反応で、さすがに今の言い方はなかったと、華恋は心の中で簡単な反省会をさっと済ませた。
「藤田もちゃんと家に帰ったよ」
「華恋ちゃん、よっしー君とずっと一緒にいたの?」
「うん。まあね」
「どこにいたんだ。どうしてたんだ?」
「うーんと、あれはどこなのかな。公園で話してた」
とりあえず着替えてご飯を食べなさいという話になって、華恋は自分の部屋に戻った。
制服をハンガーにかけていたらおなかがぐうぐう鳴って、ものすごくおなかがすいているのだとようやく気付く。
「ずっとお外にいたの? 寒かったでしょう」
「ちょっとね」
「よっしー君のこと、見失わなかったの?」
「私の方が足が速かったから」
この発言に、父は情けない顔をして笑った。
すれ違った時に慌てて追いかけてみたものの、あっという間に若者を見失って、仕方なく家に帰ったらしい。
「よっしー君は大丈夫かな? お父さんとは、どうなんだろう」
「今日はしっかりぶつかり合うんだって。あいつなら大丈夫だよ」
華恋の話に、美女井家の両親はそろって大きく頷いている。
「そうだな。よっしー君なら大丈夫だな」
「なんといってもよっしー君だものね」
どんだけ信頼勝ち取ってんだよと華恋が笑うと、父も母もホントだね、と一緒になって笑った。
ひとりの夕食を終えて、お風呂で暖まると、すっかり遅い時間になっていた。
明日の朝、近所の少年はきっととびっきりの笑顔でやってくるだろう。
華恋は不思議とこう確信して、安心した気持ちで眠りについた。
「おはよーございまーす!」
いつもよりそわそわした空気のリビングに軽やかな明るい声が響いて、美女井一家は全員で立ち上がって良彦を出迎えている。
「いやー、昨日は心配させちゃったかな? このとおり、いろいろあったけど僕は元気です!」
良彦の笑顔はまったくいつも通りに見えて、美女井家のメンバーは全員、つられて笑ってしまっている。
「よっしー君、お父さんとは?」
「もうねえ、一時過ぎまでぶつかり続けちゃって! おかげで眠いのなんの」
良彦は大げさに肩をすくませて首を振っていたが、右手を挙げてニカっと笑うと、こう宣言した。
「親父はまだヘタレだけど、これからちょっとずつ頑張るぞって最後は宣言しました! これからも藤田一家をどうぞよろしくお願いします!」
結局どうなったのか詳細はまったく不明だったが、とにかく話はいい方向に進んだようだ。
朝はあまり時間に余裕がないので、詳しい追求はまた別の機会にまわされ、楽しげな朝食の時間を過ごすとそれぞれが行くべき場所へと向かって玄関を出た。
「ねえ藤田、お父さん、なんて言ってたの?」
「俺が勝手なことしたって怒ってたし、姉ちゃんも黙ってるなんてダメだぞって怒ってたし、稼ぎが悪いって文句言ったらやっぱり怒ってた」
学校へ向かいながら、華恋は家族に先駆けてつっこんだ質問を良彦にぶつけていた。
「だけどさ、俺がメイクを真剣にやってるとか、姉ちゃんが具合がだいぶ良くて復学するとか、大事なことはしっかりわかってもらったよ。最初は大丈夫なのかってぐちぐち言ってたけど、ま、うちの現状は把握したし、お互いもっとこまめに伝え合おうってところに落ち着いた」
「良かったじゃん」
「ホント、頭が固いんだよ、うちの親父って。他人にはやたらと親切なくせに、子供たちにはダメダメばっかりで」
「子供だからじゃない?」
「そうか? 自分の子供なんだから、全面的に信頼したら良いのに」
自分の大切な子供だからこそ、知らない場所に行ったり、思いがけない行動をしていたり、普通とは違う夢を追いかけてることに不安を感じるのではないかと、華恋は思う。
この考えを話そうか迷っていると、良彦はニヤニヤと笑って、こんなことを言い出した。
「幸運の女神ってブサイクなんだな」
「なにそれ?」
「お前のことだよ。俺にとってとんでもないラッキーガールだから。女神は美人とは限らない! なっ、含蓄のある言葉に聞こえるだろ?」
失礼極まりない台詞だが、良彦の笑った顔は朝日を浴びてキラキラと輝いている。
言われ放題で情けない気分だったが、華恋も結局一緒になって笑った。
午前だけの授業が終わり、今年度最後の放課後エンターテイメントのために二人はダッシュで部室へと向かった。
扉は既に開いていて、号田がホカ弁をスタンバイして待っている。
「藤田君、一緒にお弁当を食べよう!」
「いいぜ! ミメイ、ここに座れよ」
変態副顧問と可愛い少年の間に、華恋が座る。
苦情は全部スルーして、恨めしい視線に構わず、イベント仕様の弁当を広げていく。
すぐに仲間たちもやってきて、演劇部は全員で輪になってランチタイムを過ごした。
向いに座ったよう子は勝手におかずをひとつ攫って、美味しさを堪能しながら語りかけてくる。
「ビューティ、昨日はよく眠れたかしら?」
「ええ、まあ」
チラリと隣に目をやると、良彦は妙に澄ました顔だ。
昨日の涙については、もちろん秘密にしておく。
これで何年か分くらいの貸しができたのではないだろうか。
「これ、すごく美味しい。もうひとつ、いただくわね」
「俺ももらっていいか?」
おかずの横取りに副部長が参戦してきて、祐午も触発されたのか一緒になって揚げ物を頬張っている。
大き目の弁当箱はめでたくからっぽになって、お茶を飲んだら穏やかな時間は終わり。
さあ、舞台だ。
全員が立ち上がり、それぞれの仕事に取り掛かっていった。